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「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった 2

2018-08-03 03:35:25 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
 弥生時代から住んでいた住民は海面が下がるにつれて下に降り、現在の由良宿を造ったと思われる。
1 旧大栄町(現北栄町)の遺跡
 
 
2 高江神社遺跡発掘調査報告書より
 

 まとめ
 「弥生時代後期から古墳時代前期後半の竪穴住居跡17棟、掘立柱建物4棟を検出した」とある。
 「奈良時代に入ると、東伯町の斉尾廃寺跡が知られている。この時期の集落としては、由良遺跡、向野遺跡、大高野遺跡があげられる」とある。
◎ 南原千軒遺跡報告書(平成16年ー2004年)より歴史的環境 (古代) 
 「斎尾(斎王)廃寺では塑像片・仏頭・鴟尾・鬼瓦の他、創建期の軒丸瓦には紀寺式、軒平瓦に法隆寺式系統のものが出土し、山陰・山陽では数少ない瓦当文様をもち、畿内と結びつきの深い有力豪族が斎尾廃寺周辺で勢力を持っていたと推察される」とある。
※ 畿内と結びつきの深い有力豪族(蘇我一族)は斎尾廃寺周辺(4km東方の北栄町由良)で勢力を持っていた。由良遺跡は古墳時代から奈良時代までの複合遺跡であり、径500mに及ぶ広い遺跡である。この丘陵台地に蘇我一族(蘇我入鹿またの名は善徳またの名は聖徳太子)の本拠地があったと思われる。

3 私見
 神社横の駐車場からも複数の弥生住居跡が検出されていたが、その調査報告書は見当たらない。高江神社遺跡は神社の前を通る道路の建設中に発掘された。たかだか300mほどの距離の直線道路の予定地から弥生時代後期・古墳時代前期の17棟もの竪穴住居跡が検出されるのだから、古代は相当な住宅密集地であったと思われる。竹歳家の先祖もこのあたりに住んでいたと思われる。海面が下がるにつれて下の現在地に移られた。竹歳家はこの丘陵の延長上に多い。
 木花之佐久夜毘売(弥生時代前期)の産屋は高江神社にあったと比定したのであるが、2kmほど西の大谷第1遺跡(おそらく徐福たちの遺跡)からは弥生時代前期の遺跡が発掘されている。また、高江神社の隣の西高江遺跡からは弥生時代中期の水晶の玉造工房跡が検出されているので、広い高江神社の敷地に弥生時代前期(紀元前150年頃)の木花之佐久夜毘売の産屋の遺跡があってもおかしくない。

4 ※参考 弥生時代(土器編年)                           
 古墳時代が始まる紀元三世紀(西暦300年)ころまで続いた、水稲農耕と金属器の使用に特徴づけられる時代を言う
 前期 BC200~BC100
 中期 BC100~AD100
 後期 AD100~AD300
の三時期に区分される。縄文時代に近い初期の稲作遺構を伴う時期を特別に早期とする場合もある。
 縄文時代と弥生時代の区分は絶対年代として確定されているわけではない。
 弥生時代の土器は、時系列に約600年分が整理されている。

5 由良遺跡発掘調査報告書より
 
 まとめ
 
 「由良遺跡の試掘トレンチ調査では、弥生時代中期の土器、弥生時代後期の土器、古墳時代以降の土器が出土している。調査の結果、古墳時代中期~奈良時代、平安時代に至る遺構が存在することが明らかとなった。竪穴住居跡は9基、掘立柱建物は13棟分が確認された」とある。
 序文に「この台地は、古くより遺物の散布地として知られており・・・」とある。
 まとめに「しかし、地続きの大栄中学校の校庭のある丘陵地にも以前、多数の土器片が発見されたともいわれ、マクロ的に見れば別所古社地遺跡にまで遺跡が継続していると考えられる。従って、遺跡の範囲は半径500mに及ぶと推定され、これは、この一帯の地続きの畑地帯のある丘陵にほぼ一致する」とある。

6 私見
 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は大栄中学校の敷地内にあったと思われる。この丘陵台地の中心部である。多くの須恵器と大きな建物遺構があったものと思われる。しかし、ブルドーザーによる造成で壊された。ブルドーザーの通った後に土器・石器が散乱していた。須恵器は値打ちはないと思ったので石器だけを持ち帰った。大栄中学校の造成工事を本来なら中止して、遺跡の発掘調査をすべきだが、発掘調査をしていない。
 校舎が完成し、2年生になった時に大栄中学校に通うことになった。私が刀で斬られる夢をみたのは3年生の時であった。晴れていないのに大山の上に太陽があるように思われた数日があり、その後に刀で斬られる夢を見た。「蘇我入鹿天皇は、刀で斬られてさぞつらかったであろう」という残された者たちの無念の思いが残っていたからと思われる。
 聖徳太子は奈良に行ったり来たりで、由良の皇居に長くはいなかったから、いるときには住民がいっぺんにおしかけたと思われる。10人の話を一度にきいたのも由良の皇居であったと思われる。
 尾道の浄土寺(開祖は聖徳太子と伝わる)と姫路の斑鳩寺との中間は岡山である。岡山ではなく北の鳥取県北栄町由良に聖徳太子の皇居はあった。聖徳太子はヤマト王権の御用水軍であった村上水軍で尾道からしまなみ海道を渡り、卑弥呼・倭健命たちが平定した松山にも行かれた。現在、村上水軍の直系の子孫は鳥取県中部にいる。
 
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聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった

2018-08-03 02:47:34 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
 
1 皇居と産屋の距離

(1) (瓊々杵命)鳥取県北栄町下種集落 大宮神社
(2) (木花之佐久夜毘売)鳥取県北栄町由良宿 高江神社
    (1)~(2)の間は4.1km
(3) (神武天皇)鳥取県倉吉市大宮集落
(4) (媛蹈鞴五十鈴媛命)鳥取県倉吉市耳集落
    (3)~(4)の間は3.7km
(5) (蘇我馬子天皇)鳥取県北栄町島集落
(6) (物部鎌姫大刀自)鳥取県倉吉市馬場町
    (5)~(6)の間は3.7km
(7) (物部氏の本拠地)鳥取県倉吉市大原集落
    (6)~(7)の間は4.2km
 瓊々杵命と神武天皇と蘇我馬子天皇の皇居と産屋を上記のように比定したのだが、3人とも産屋との距離がほぼ同じように思われる。当時の皇居と産屋の距離は4km前後であったと思われる。これは偶然ではなく、比定地が正しいからと思われる。
 また、厩戸皇子の生まれた物部鎌姫大刀自の産屋を倉吉市馬場町に比定したが、蘇我馬子天皇の皇居のある北栄町島と実家のある物部氏の本拠地の倉吉市大原と同じような距離になる。
 これら7つの比定地は正しいものと思われる。

2 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は厩戸で生まれたが、厩の中で生まれたキリストと重ねるべきではない。「イエス・キリスト誕生の逸話が聖徳太子伝説に借用された」とする説があるが、イエス・キリスト誕生逸話を借用するならば、厩の外ではなく中で生まれたとすべきであるのに、あえて厩戸で生まれたとしている。これは聖徳太子が厩戸の前で生まれたのが史実であるからであり、2人とも厩が関係しているのは偶然と思われる。聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は応神天皇の時代に新羅から贈られてきた馬を飼育していた「軽の坂上の厩」(倉吉市馬場町)の戸の前に造られた物部鎌姫大刀自の産屋で厩戸皇子として生まれた。「蘇我入鹿」や、善徳の一字を取って「聖徳太子」と名づけたのは後の藤原氏であり、本名は蘇我善徳である。「厩戸皇子」や「豊聡耳」はあだ名を付けるのが好きな鳥取県中部の住民が付けた蘇我善徳のあだ名と思われる。
 
3 甘樫丘東麓遺跡と由良遺跡
(1) 蘇我蝦夷・入鹿は甘樫丘にそれぞれ居を構えた。 日本書紀では、蘇我蝦夷の邸宅は「上の宮門(みかど)」、蘇我入鹿の邸宅を「谷(はざま)の宮門(みかど)」としている。
(2) 甘樫丘東麓遺跡現地説明会資料(奈良文化財研究所)調査成果 7世紀前半
 「調査区内の自然地形は、南北方向に谷筋が入っていました。この谷筋の中央に石垣を築いて東側に一段高く敷地を造成し、建物を建てます。石垣は東側の敷地の法面を構造的に保護するとともに、迫力ある敷地構えをみせる視覚的な効果も果たしていたと思われます」とある。
 甘樫丘東麓遺跡は蘇我入鹿の邸宅跡とされる遺跡であることがほぼ確定された(朝日新聞)。蘇我入鹿は整地をして、家の外に城柵を巡らせていた。
 蘇我蝦夷が邸宅で「天皇記・国記・珍宝」を焼き、自害したとする記述につながる「上の宮門」の焼け跡は見つからなかった、とする。
(3) 由良遺跡発掘調査報告書に「大栄町は、大山火山の北東麓にあたり、広く火山灰山におおわれているが、今回の発掘調査の試掘トレンチの断面より土層序は、地表から、(1)黒灰色の耕作土、(2)黒色粘質土(3)暗褐色粘質土(4)黄灰色砂質土となっていたが町内の畑地帯で一般的に見られるクロボクは認められなかった。遺構が検出された砂質ぎみの黄灰色土、又は、黄褐色土の緻密で堅く安定な地盤であった」とある。
「また、柵列跡とした遺構があるが、隣接した遺構に関係したものと考えるには、無理があるかもしれない。また、遺構として存在したこと自体が疑わしい」とする。

4 私見

(1) 先代旧事本記天孫本紀に「物部氏十五世孫・物部鎌束連公の妹に物部鎌姫大刀自連公。・・・。宗我嶋大臣の妻となって、豊浦大臣をお生みになった。豊浦大臣の名を、入鹿連公という」とある。
 甘樫丘の上に「上の宮門」の焼け跡は見つからないのは、蘇我蝦夷は架空の人物だからと思われる。
 宗我嶋大臣は蘇我馬子のことであり、島に住んでいたから嶋大臣と呼ばれていた。豊浦大臣とは蘇我蝦夷ではなく蘇我入鹿のことであった。蘇我入鹿は豊浦に住んでいた。元興寺縁起では等由良(豊浦)宮が3回書かれている。豊浦(とゆら)の元の字は等由良であるから蘇我入鹿は奈良では等由良に住んでいた。
 蘇我馬子は天皇であり、鳥取県北栄町島に皇居があったことは、磐余邑、池の配置、池上の陵、複数同一棺埋葬墓の存在など、以前のブログを参照されたし。
 蘇我入鹿の父は蘇我馬子であった。奈良の宮は等由良の宮であったが、皇居は蘇我馬子天皇と同じ鳥取県北栄町の由良の宮にあった。
(2) 蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は皇居(由良の宮)を鳥取県北栄町由良宿の丘陵地(現在、大栄小学校・大栄中学校・鳥取中央育英高校・北栄町役場がある)に置いた。由良の宮で、蘇我入鹿天皇の皇子である大海人皇子や、百済の人質の豊璋(中大兄王子)と塞上は育てられた。
 中大兄王子(豊璋)は、育ての親の蘇我入鹿天皇(蘇我馬子と共に遣隋使を派遣した)から「大国維新之化」の話や「日の出ずる国の天子・・・」の話を聞いていたと思われる。中大兄王子(豊璋)は大化の改新や日本という国号の参考にした。
 「大化の改新」は蘇我馬子天皇が隋国の裴世清に「どうか大国維新之化を教えていただきたい」と言った言葉から出ている。大国維新之化(大化の改新)とは列島の道路建設などのインフラ整備のことであった。藤原京・平城京の建設もその一環であった。大化の改新(大国維新之化)は645年に急に始まったのではなく、隋の裴世清たちに教わったときからすでに始まっていた。
(3) 蘇我入鹿天皇は半径500mの広大な由良遺跡のクロボクを取り除き緻密で堅く安定な地盤に整地していた。由良遺跡発掘調査報告書の報告者は「柵列跡とした遺構」を否定するが、城柵が脳裏をかすめ「そんなはずはない」と否定したと思われる。蘇我入鹿天皇は由良宮を柵で防御していたと思われる。
 甘樫丘東麓遺跡を大豪族の邸宅跡とするには小さすぎる、とする見解がある。蘇我入鹿は豪族ではなく天皇であった。皇居は鳥取県北栄町由良宿の半径500mの広い丘陵台地にあったから、甘樫丘東麓遺跡は奈良での仮の住まいであり、小さくてもよかった。
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元興寺縁起にある「等由良(豊浦)」の「由良」とはどこのことか

2018-08-03 02:18:29 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
 1 由良の地名で有名なのは、和歌山県日高郡、京都府宮津市、兵庫県洲本市である。
(1) 和歌山県日高郡の由良
 その幻想的な風景は万葉集に読まれており、歌碑も設置されている。
妹がため玉を拾ふと紀伊の国の 湯羅(ゆら)の岬にこの日暮しつ
朝開き漕ぎ出て我は湯羅(ゆら)の崎 釣する海人を見て帰り来む
湯羅(ゆら)の崎潮干にけらし白神の 磯の浦廻をあへて漕ぐなり
(2) 京都府宮津市の由良
 京都府宮津市の由良は由良ケ嶽の頂に虚空蔵の廟があるという。また、熊野三所権現社あり、とする。由良神社には神楽踊が奉納される。丹後国加佐郡旧語集に「由良ノ荘千軒ト云大村也」とある。
 古事記伝云う、「仁徳帝のよみたまへる由良之門は紀伊淡路の瀬戸なれど、丹後掾曽根好忠のよめるは丹後なり。由良の門(戸)をわたる舟人梶をたえ 行へも知らぬ恋のみちかな(丹後掾曽根好忠)」とある。
《加佐郡誌》「由良村。由良の名は凡海郷由良庄といふことから出たものである」とする。
 小沢打魚氏の説と称する古代由良に関する史実には「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とする。
(3) 兵庫県洲本市の由良
 「由良港と成ヶ島」 より
 由良という地名には、「波に押された砂が狭い平地を平らにする」という意味があるという。
 日本書紀「応神天皇三十一年の条」には「枯野を 鹽に焼き 其(し)が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門(と)の 門中(となか)の海石(いくり)に 触れ立つ なづの木の さやさや」という歌の記述がある。
  伊豆の国から献上された「枯野」という船が壊れてしまい、船材を薪として塩を焼くことにした。焼け残った余りの材から琴を造らせて弾いてみる と、由良の瀬戸の暗礁にゆらゆら揺れて立つ水に濡れた木のように、冴えた音色を出したので、天皇が上の歌を詠んだということである。
  「由良の門」とは、淡路島の洲本市由良と和歌山県由良町の間にある紀淡海峡の事である。同じ地名が、新古今集の一首にも登場するが、こちらは京都府の舞鶴市と宮津市が接する由良川の河口付近であるという説もある。

2 私見
(1) 和歌山県日高郡の由良
 「等由良」と表記する元興寺が創られた時代(7世紀)に遡るとは思われない。万葉集に「湯羅」とあるからとするが、それが書かれた時代は奈良・平安時代(藤原時代)と思われる。万葉集にある湯羅は由良とは書かれていない。
(2) 京都府宮津市の由良
 京都府宮津市の由良は、虚空蔵の廟、熊野三所権現社、由良神社の神楽踊、加佐郡誌に「由良の名は凡海郷由良庄といふことから出たもの」とあることより藤原氏の荘園として造られたものと思われる。虚空(そら)の当て字は藤原氏の専売特許であること、熊野三所権現は藤原氏が崇拝している準王一族(出雲神族)を主祭神としていること、神楽は藤原氏の踊りであること、荘園制度は藤原氏の制度であることなどからである。
 また、小沢打魚氏は「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とされ、降臨の地の舞台を丹後の由良川とされる。この説が正しいとすれば、由良川は葦原中津国を流れる鳥取県北栄町の由良川と思われる。丹後の由良川はそのほかの舞台(葦原中津国など)が検証できておらず単発であり、あとが続かない。
 由良川は西高尾ダムに水源を発する。西高尾、上種、茶屋条、下種、亀谷を通って当時は葦原中津国に流れ込んでいた。天照大御神の天孫族は南の関金から来たから、方見邑を本拠地にしていた建御名方とは由良川を挟んで対峙することになる。青字は平定後の天孫族の位置関係である。
 丹波国風土記残欠に「由良港」とあるが、改ざんと思われる。713年に全国から風土記を提出させ多くは焚書にしたが、意図的に由良港を加え残欠として残したものと思われる。元興寺が創られた時代(7世紀)にすでにあった地名とは思われない。
 古事記伝に云う「仁徳帝のよみたまへる由良之門は紀伊淡路の瀬戸なれど、丹後掾曽根好忠のよめるは丹後なり。由良の門をわたる舟人梶をたえ行へも知らぬ恋のみちかな(丹後掾曽根好忠)」とあるのも藤原氏による改ざんである。複数の比定地を創作しておいて、一つの比定地の矛盾が指摘されると、ほかの比定地を挙げて逃げ、たらい回しにして迷宮入りにさせ、本物を隠す手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地の比定地と同じく藤原氏の手法である。3か所の由良は藤原氏の創作であると思われる。
(3) 兵庫県洲本市の由良
 「由良港と成ヶ島」に、「日本書紀・応神天皇・三十一年の条には『枯野を 鹽に焼き 其が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 触れ立つ なづの木の さやさや』という歌の記述がある」とする。文献と由良とを付合させただけであり、応神天皇と関連づけるほかのものがない。のちに藤原氏が付けた地名と思われる。元興寺が創られた時代(7世紀)に遡るとは思われない。
 また、「由良の門とは、淡路島の洲本市由良と和歌山県由良町の間にある紀淡海峡の事である。同じ地名が、新古今集の一首にも登場するが、こちらは京都府の舞鶴市と宮津市が接する由良川の河口付近であるという説もある」とする。紀淡海峡は門(戸)にしては大きすぎると指摘した者がいたので、すぐに別の場所(丹後の由良川)を挙げるのは藤原氏である。複数の比定地を創作しておいて、一つの比定地の矛盾が指摘されると、ほかの比定地を挙げて逃げ、たらい回しにして迷宮入りにさせ、本物を隠す手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地と同じく藤原氏の手法である。3か所の由良は藤原氏の創作であると思われる。
(4) 鳥取県北栄町の由良
 鳥取県北栄町由良には「由良の地名は木花之佐久夜毘売が付けた」という伝承がある。「ゆら」の発音は女性の命名と思われる。
 鳥取県神社誌高江神社の由緒に「当社は天正19年(1591年)9月大山より勧請せりと云う。この以前は現今境内神社子安神社(祭神 木花之佐久夜毘売)、由良郷の總産土神なる由なる」とある。1591年以前は木花之佐久夜毘(私見では弥生時代)だけが由良郷の總産土神であった。子安神社の祭りの飾り付けは代々竹歳家(全国では170軒しかないが、由良では一番多い姓)が行う仕来たりになっている。高江神社横の駐車場から弥生時代の住居跡が発掘された。創建が弥生時代に遡るような神社と思われる。
 日本書紀「応神天皇三十一年の条」には「枯野を 鹽に焼き 其が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 触れ立つ なづの木の さやさや」という歌の記述がある。北栄町由良宿に近い青谷上寺地遺跡より応神天皇(在位354年~394年)の時代より古い状態の良い琴が発掘されている。由良の門(戸)とは橘の小門と同じで入り江の入り口のことと思われる。応神天皇の時代(354年~394年)、由良に入り江があった。紀元前2世紀頃は海面が海抜4mくらいにあったので紀元4世紀頃は海抜2mくらいに海面があったと思われる。海抜2mくらいに海面があった鳥取県北栄町由良宿の地形を見ると現在の由良宿内に入江が確認できる。由良の門(戸)とは紀淡海峡でも丹後の由良川の河口付近でもない。北栄町由良宿にあった入り江の入口が由良の門(戸)であったと思われる。応神天皇の時代、鳥取県中部には軽の坂上の厩と軽島明之宮の比定地が確認できる。
 仁徳天皇(第14代)も応神天皇(第15代)も武内宿禰天皇(第13代)の皇子であったから鳥取県北栄町原で育っている。船で対岸の由良の門(戸)にも渡っていたはずである。武内宿禰天皇(第13代)の時代よりもまだ海面が下がったので、2人とも東の東郷池(難波津)の近くに皇居を建てた。仁徳天皇も応神天皇も4世紀の天皇である。この2人が由良という地名を使っているので由良の地名は4世紀までに付けられていたと思われる。木花之佐久夜毘売は鳥取県北栄町に実在していた。木花之佐久夜毘売は紀元前2世紀に鳥取県北栄町の「由良」の地名を付けている。和歌山県日高郡の由良も京都府宮津市の由良も兵庫県洲本市の由良も4世紀にすでにあった地名とは思われない。
 「等由良」を「豊浦」とし、「由良」がキーワードだと悟られても、由良の比定地を全国に複数作り、その中でたらい回しにして迷宮入りにさせ、本物が見つからないようにする手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地と同じく藤原氏の手法である。
 昭和38年の合併で由良町は無くされた。由良育英高校も無くされた。北栄町の由良は行政に時間をかけて消されていく方向にあるように思われる。蘇我善徳天皇の父(蘇我馬子天皇)や子(天武天皇)の皇居の比定地も鳥取県中部に確認できるので「等由良」の本当の「由良」は鳥取県北栄町の由良と思われる。
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「聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿」説について

2018-08-02 17:48:17 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

「聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿」説について

 藤原氏は嘘を積み重ねれば本当になるとした。偶然も積み重ねると真実が見えてくる。藤原氏は記紀だけでなくほかの文献や遺跡や神社も嘘を積み重ねていった。それは百や千どころではない。万の嘘だと思われる。記紀を世に発表するまで数百年にわたって嘘を作ってきた。
 「聖徳太子は蘇我入鹿である」(関裕二)を読んでみた。結論は賛成である。しかし、理論構成においておかしいと思われるところがある。例えば、私は架空の天皇としている「推古天皇が大々王である」としておられる。また、二朝並立論も賛成であるが、「九州王朝」と「出雲王朝」が並立していたと論じておられる。二朝とは、倭王朝(鳥取県中部)と亡命百済王朝(日本)のことである。
 出雲は準王一族の本拠地であり藤原氏が倭国を乗っ取ってからテーマパーク化したところである。出雲王朝(島根県東部)は倭王朝(鳥取県中部)ではない。九州にも吉野ヶ里を始めとして準王一族は多くいた。現政権が吉野ヶ里や八幡神社を大事にするのはそのためである。
 関裕二氏の他の本では天孫降臨の地は宮崎県であるとしておられる。ここにも高天原があるが、いたのは天孫族(徐福一族)ではなくて準王一族(鬼八)であった。阿蘇にも準王一族(鬼八)がいた。
 また、倭健命は実在したが、関裕二氏は実在しなかったとする。

1 「元興寺伽藍縁起帳」において大々王の文字が使われている。大々王とは蘇我馬子である。
 「大々王の牟久原の後宮」を二回、「大々王の後宮」を二回つかっている。
 「後宮」とは、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する(ウィキペディア)。「後宮」とは男王に侍る女がいるところであるから、大々王は男性である。
 「池辺天皇は大々王と馬屋門皇子の二人に、法師寺を作る場所を見定めるようにと命じた。・・・・。聡耳皇子と馬古大臣はともに寺をつくる場所を見定めた」とある。
 「寺をつくる場所を見定める」ように天皇に命じられたのだから、実際に「寺をつくる場所を見定めた」のも命じられた二人である。天皇の命に反して見定める者が変わったときは書かれるはずである。馬屋門皇子も聡耳皇子も聖徳太子の別名であるから同一人物である。あと一人の大々王と馬古大臣も同一人物となる。
※ 『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』を偽書ではないと擁護する説もある。それによると「馬屋門皇子と聡耳皇子は同一人物でともに聖徳太子のことである。同一人物をあえて別々の名で記すことによって、大々王と馬古大臣が、名が異なっていても同一人物だと『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』の作者は暗示しているのである。作者は蘇我馬子の正体を隠しつつ、このような『暗号』を使って何とか歴史の真実を後世に残そうと苦心しているのである」とする。

2  聡耳皇子(聖徳太子)は蘇我馬子の子である。
 縁起の中で大々王は聡耳皇子を我が子だと言っている。
 「大々王天皇命が等由良宮(豊浦宮)で天下を治めていた時、癸丑(593)年、聡耳皇子を呼んで言った。『この桜井寺は私とあなたが仏法を忌み捨てることができず、仏法を行った最初の寺であり、また遺言の大命を受けこうして存在している寺です。私たちがこの寺にいて、まさに荒れてなくなってしまおうとしている時、あなたはまごころをもって、斯歸嶋宮で天下を治めた天皇のために作り奉りました。しかし私はこの等由良宮(豊浦宮)を寺にしようと思います。それで宮門に遷し入れ急ぎ作ることにしました。今はほかのものはさておいて、我が子よ、すぐにことにあたってください(我子急速可仕俸)。宮は小治田に作ります。また尼たちが行う白羯磨のために法師寺を急いで作ってください』」とある。

3 蘇我善徳=蘇我入鹿
(1)「元興寺伽藍縁起帳」には「巷哥有明子(蘇我馬子)大臣の長子・善徳を責任者とし、もって元興寺を建てた」とある。
(2)蘇我入鹿は蘇我馬子の太郎である。(「藤氏家伝」「法王帝説」「聖徳太子伝暦」は・・太郎と記載)
 ※ 腹違いの子が何人いようと、一人の父親の長子(男の)・太郎(長男)は一人しかいない。蘇我馬子の長子(男の)・太郎(長男)は蘇我善徳(元興寺伽藍縁起帳)であり、蘇我入鹿(「藤氏家伝」「法王帝説」「聖徳太子伝暦」)である。このことより、蘇我善徳=蘇我入鹿となる。

4 聡耳皇子(聖徳太子)=蘇我善徳
(1)聡耳皇子(聖徳太子)は蘇我馬子の子である(元興寺伽藍縁起帳より)。
 蘇我馬子の子に聖徳太子はいないから実在した子の別名であったことは容易に察しが付く。
 蘇我馬子の子にについては蘇我善徳、蘇我倉麻呂、蘇我蝦夷の三人であり、蘇我入鹿は孫とする。
 蘇我蝦夷は国史等に事績があり実在していたように思われる。しかし、甘橿丘遺跡からは一人分の邸宅跡しか発掘されていない。藤原氏は一人の事績を蝦夷と入鹿親子に分けて演じさせた。
 蝦夷と入鹿親子は同一人物であり、蘇我善徳に吸収される(蘇我入鹿と蘇我善徳は蘇我馬子の長男だから)。
 したがって、蘇我馬子の子は蘇我善徳と蘇我倉麻呂の二人に絞られる。聖徳太子は蘇我善徳か蘇我倉麻呂かのどちらかである。
(2)蘇我馬子と厩戸皇子は国記・天皇記の編纂、十七条の憲法の制定、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣、法隆寺や法興寺などを建立し仏教の普及に努めた、などの国家的事業を行っている。
 蘇我倉麻呂の事績は「日本書紀」巻第二十三の舒明天皇即位前紀に「蘇我倉麻呂は次期大王を決める席で意見を保留した」とだけある。
 蘇我善徳は法興寺(わが国で最初の寺院)の寺司(管理人)に任命された。法興寺の伽藍縁起帳に聡耳皇子(聖徳太子)は何度も出てくる。聡耳皇子(聖徳太子)に関係が深いのは蘇我善徳である。
(3)聖徳も善徳も徳の一字がある。聖武天皇の時代、聖武の「聖」と善徳の「徳」を取って聖徳太子の諱をつけた。聖徳太子(聡耳皇子)は徳の字が同じ善徳と思われる。聖徳太子は蘇我善徳であった。
 胸形尼子姫(皇子の天武天皇の正后)の父は胸形徳善という。また同時代に生きた新羅の女王の諱は善徳女王という。善徳は大王であったので、新羅の善徳女王とも交流があった。
  このことより、聡耳皇子(聖徳太子)=蘇我善徳となる。

5 私見
 結論として、聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿となる。
 穴穂部間人皇女は架空の用明天皇の皇后であるので架空である。架空なので実在は証明できないが、物部出身であるところは同じにしている。物部鎌姫大刀自連公がモデルであると思われる。架空の用明天皇と架空の穴穂部間人皇女との間にできた厩戸皇子の名はニックネームである。本名は蘇我善徳といった。
 キリストは厩の中で生まれたが、蘇我善徳は厩の外で生まれた。急に産気付き厩の前で生まれたとしているが、倉吉市馬場町(応神天皇の時代にできた軽の坂上の厩)に産屋を建てていた。
 日向の御子と同じように厩戸皇子は鳥取県中部のものが付けたニックネームである。本名は蘇我善徳である。聖徳太子とは蘇我善徳をモデルにした聖武天皇の時代に付けられた諱であった。

6 「隋書 東夷 倭国」について
 608年の隋の倭国使たちは九州から陸路で倭国(鳥取県中部)まで来た。経路は周防→岩国→広島→三次→日南町→米子→湯梨浜町と思われる。倭国は日本海沿岸にあったから、ついた海岸が日本海沿岸の倭国(鳥取県中部)であった。鳥取県北栄町島にあった皇居で隋の倭国使たちは倭王に謁見した。
 倭王の名「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。
 妻子「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」とあり、妻は雞彌、後宮に600~700人の女がおり、太子の名は利(和)歌彌多弗利という。
 鳥取県北栄町島のバックには600人~700人の女(100軒ほどか)がいてもおかしくないような曲り集落の地域があり、「倭王姓阿毎字多利思北孤」は鳥取県北栄町島に皇居のあった大王と思われる。鳥取県北栄町島に皇居のあった大王は島大臣(王)と言われていた蘇我馬子大王であった。王の妻「雞彌」は物部鎌姫大刀自連公であり、太子の「利(和)歌彌多弗利」は聖徳太子こと蘇我善徳(28歳)であった。
 この後蘇我善徳(聖徳太子)と隋の倭国使たちは馬で奈良の飛鳥寺(元興寺)まで行った。この時すでに大国維新之化として奈良に藤原京・平城京を造る計画の打ち合わせを隋の倭国使たちとしていた。

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遣隋使について

2018-08-02 16:43:47 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1 隋書倭国伝(東亜古代史研究所 塚田敬章より) 
(1)倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
「倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。」
(2)毎至正月一日必射戯飲酒 其餘節略與華同 好棊博握槊樗蒲之戯 氣候温暖草木冬靑 土地膏腴水多陸少 以小環挂鸕鷀項令入水捕魚 日得百餘頭
「正月一日に至るごとに、必ず射的競技をし、酒を飲む。その他の季節行事はほとんど中国と同じである。囲碁、すごろく、樗蒲(サイコロ賭博のようなもの)の遊びを好む。気候は温暖で草木は冬も青い。土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る。一日に(魚)百余匹を得る。」
(3)開皇二十年(600年) 倭王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之
「開皇二十年、倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ”。号”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た。お上(高祖)は所司(担当官)に命令して、その風俗を訪ねさせた。使者は”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。”と言った。高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”と言い、訓令してこれを改めさせた。」 
(4)大業三年(607年) 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
「大業三年(607)、その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢した。使者は”海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。”と言った。その国書にいう。”日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々” 帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に”蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな”と言った。」
(5)明年(608年) 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至る。またチクシ国へ至り、また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。」
(6)倭王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都
「倭王は小徳のアハタ(イ)を派遣し、数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。十日後、また大礼のカタビを派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった。既にこの国の都に到達した。」
(7)其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不卽相見 今故淸道飾館以待大使 冀聞大國維新之化 淸答曰皇帝徳並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 既而引淸就館
「その王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。”私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。” 裴世清は答えて言った”(隋)皇帝の徳は陰陽に並び、うるおいは四海に流れています。王(であるあなた)が隋の先進文化を慕うので、使者である私を派遣し、ここに来てお教えするのです。” 対面が終わって引き下がり、清は館に入った。」
(8)其後淸遣人謂其王曰 朝命既達請卽戒塗 於是設宴享以遣淸 復令使者随淸來貢方物 此後遂絶
「その後、裴世清は人を遣って、その王に伝えた。”隋帝に命じられたことは既に果たしました。すぐに帰国の準備をしてください。” そこで宴を設けてもてなし、清を行かせた。また使者に命令して清に随伴させ、(隋へ)来て方物を貢いだ。このあと遂に交流は絶えてしまった。」

2 日本書紀・推古天皇・遣隋使(宇治谷訳より抜粋)
 15年(607年)秋7月3日、大礼小野妹子を大唐(隋)に遣わされた。鞍作福利を通訳とした。
 16年4月、小野妹子は大唐から帰朝した。大唐の国では妹子臣を名付けて、蘇因高とよんだ。大唐の使人裴世清と下客12人が、妹子に従って筑紫についた。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客裴世清らを召された。大唐の客のために新しい館を難波の高麗館の近くに造った。
 6月15日、客たちは難波津に泊まった。この日飾船30艘で、客人を江口に迎えて新館に入らせた。
 8月3日、唐の客は都へ入った。・・・。使者裴世清は自ら書を持ち、その所には「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた。自分は天明を受けて天下に臨んでいる。徳化を弘めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持ちには土地の遠近はかかわりない。天皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。ねんごろな誠心を自分は喜びとする。時節はようやく暖かで私は無事である。裴世清を遣わして送使の意をのべ、併せて別にあるような送り物をお届けする」とあった。
 8月16日、客たちを朝廷で饗応された。
 9月5日、客たちを難波の大郡でもてなされた。
 9月11日、裴世清たちは帰ることになった。天皇は唐の君をとぶらってのべられるのに、「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。裴世清らがわが国に来たり、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。この頃ようやく涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうか。お変わりはないでしょうか。東方は無事です。今、大礼蘇因高・大礼雄成らを使いに遣わします。意を尽くしませんが謹んで申し上げます」といわれた。このとき学問僧と学生の8人を遣わされた。

3 日本書紀・推古天皇・新羅征討の条は改ざんされている。百済と新羅を入れ替えて書いている。原古事記に書いてあったと思われる文章を以下に記述する(抜粋)。
 8年(600年)春2月百済と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。任那のために百済を討つことになった。百済を目指して船出した。百済に着いて5つの城を攻略した。百済王は白旗をあげて、将軍の印の籏の下に来たり、多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅羅の6つの城を割譲して、降伏を願い出た。その時将軍は「百済は罪をわきまえて降伏してきた。強いて討つのはよくあるまい」と言って奏上した。天皇は難波吉士神を百済に遣わされた。また難波吉士木蓮子を任那に遣わし事情を調べさせられた。百済・任那両国は使いを遣わし調を奉り上奏してきたので将軍を召還された。将軍らは百済から帰った。しかし、百済はまた任那を犯した。
 8年(600年)秋9月8日、百済の間諜の迦摩多が対馬に来た。それを捕らえて朝廷に送った。そして、上野国に流した。
 冬11月5日に、百済を攻めることを議った。
 10年(602年)春2月1日、来目皇子を百済攻略の将軍とした。
 夏4月1日、将軍来目皇子は筑紫に赴いた。
 6月3日、来目皇子は病にかかり、征討の役を果たせなくなった。
 10年冬10月、新羅の僧観勒がやってきた。そして暦の本・天文地理の本、それに遁甲方術の本を奉った。
 11年(603年)夏4月1日、さらに来目皇子の兄、当摩皇子を百済を討つ将軍とした。しかし妻が亡くなったため、征討はやめになった。

4 私見
 倭はヤマトと読む。奈良では大和をヤマトと読ませる。なぜ字を変えたのだろうか。これは藤原氏得意の当て字である。奈良は倭ではないから、大和の字をヤマトと読ませた。
 鳥取県中部では上神、下神の地名のように、山側を上(カミ)、海側を下(シモ)と表記する慣例がある。従って、「更造新館於難波高麗館之上」は高麗館の山側(上)ということが判る。これを「近く、脇、ほとり、二階」と訳す方が多く、上を山側と訳す方はいない。大阪では上を山側と訳す慣例が無いようだ。
 現在の東郷池西畔の湯梨浜町上浅津(山側)と下浅津(海側)もこの地の慣例を現わしている。応神紀の「軽の坂上の厩」で上を山側と訳したところ、その場所に今は倉吉市馬場町の地名がついていた。大阪では上を山側と訳す慣例が無いので「難波高麗館之上」の解釈に困るのである。「難波高麗館之上」は大阪ではなく鳥取県中部を舞台として書かれたものと思われる。難波津とは鳥取県の東郷池である。高麗館は湯梨浜町龍島にあったはずである。新館はその山側にあった。
 湯梨浜町龍島で東郷中学生徒によるドラゴンの舞。隋からの使い(裴世清たち12名)をもてなしたときの名残と思われる。横は中国風造りの水明荘。龍島の隣の引地には河北省が造った中国庭園の燕趙園がある。
 蘇我馬子大王の磐余池辺双槻宮は北栄町島にあった。聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は由良にあったが、近くに曲の後宮があるのは島である。一切経は「倭国は東海(日本海)の海中(沿岸)にある小さな国である」とする。隋書は「倭国は百済・新羅の東南にある」とする。「土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る」。神武天皇も狭い国だといった。鵜飼いは北栄町島にいた縄文人の猿田彦一族が神武天皇の時からしていた。
 蘇我稲目天皇が仏像を山名寺に置いていたが、倭国(鳥取県中部)に疫病が流行って、物部氏の反対もあり、倭国に寺院を建てることができなかった。蘇我馬子と蘇我善徳(聖徳太子)は寺院を奈良に建てることにした。その際中国の長安を模範に奈良に長安のような都を創ることを考えた。そのために隋に遣使を送った(600年)。同じ年に百済が任那を犯したので朝鮮半島情勢は不安定になっていた。任那は新羅や倭国が中国に行くため、また新羅や倭国を守るためにできた地域だから、新羅が任那を犯すことはない。反面百済は懐柔政策を織り交ぜながら南下政策をとっていた。また百済は隋に良い印象を持っていなかったようである。何度も遣隋使を派遣しているが、隋は百済と高句麗の関係を知っていたので門戸を閉ざしていた。日本書紀は隋ではなく大唐と書いている。隋は唐に乗っ取られるが、この頃乗っ取りが流行り、やがて百済も倭国を乗っ取った。630年の遣唐使は聖徳太子(蘇我入鹿天皇)が出している。乗っ取りが嫌いであった聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は唐からの使者に冷たくあたったようだ。
 608年に裴世清たちが倭国にやってくるが、蘇我馬子大王は用心に用心を重ねていたため筑紫から下関にわたり陸路で都まで来させた。それは蘇我馬子の「私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた」という言葉に現れている。船で行くと地形を覚えられる恐れがあるから陸路を通らせた。したがって秦王国とは周防であろうと思われる。この地域は殷王朝末裔の準王一族がいたし、長登銅山やその近隣にも銅山があり、弥生時代の青銅器がまだ残っていたものと思われる。銅鐸や銅剣を見て裴世清は先祖が華夏の人だと信じた。銅鐸や銅剣が今残っていないのは、東大寺大仏の資材として使われたものと思われる。

 ルートは周防→岩国市→広島市→三次市→庄原市→日南町→米子市→旧東郷町と思われる。
 中国から贈られた三次の白い鵜 (岩国でも鵜飼いをする)
 到達した海岸は米子の海岸だと思われる。そこにしばらく泊まらせられた。蘇我馬子は阿輩臺と哥多毗(日本書紀では難波吉士雄成)に裴世清らを迎えに行かせた。
 
 
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奈良は崇神天皇(157年~258年)の時より祭祀をする場所として始まった

2018-08-02 10:53:12 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  桃太郎(倭建・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)のヤマト王権は西は九州から東は岩手県まで平定したが、準王一族の生贄を伴う祭祀を、徐福がもたらした道教に改宗させた。卑弥呼は巡行の先々で神社を創っていった。しかしそのときだけで改宗できるはずがない。ヤマト王権は時に触れて全国の代表者を集めて道教の祭祀をしなければならなかった。その場所が奈良であった。卑弥呼(倭姫)のいた志摩国でもいいのだが、殺される危険性があった。
 崇神天皇が大田田根子を探してきて全国の代表者を集めて神浅茅原で祭祀を行ったのは、鳥取県北栄町下神の三輪山周辺である。しかし、東国の代表者が鳥取県中部に来るのは大変であることがわかり、全国の代表者を集めての祭祀は、奈良の纒向で行うことにした。桃太郎(倭建・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)は奈良県田原本町の法楽寺に前線基地を設けて唐古・鍵集落を攻撃し平定した。奈良全体の環濠を埋めさせたのは190年ごろだから、桃太郎(倭建・吉備武彦)がなくなって後、崇神天皇になってからと思われる。崇神天皇から数代は奈良の纒向にも宮があったはずである。しかし、皇居は鳥取県中部であり、奈良の宮は四ノ宮か五ノ宮であった。二ノ宮は大陸からの使節や新羅からの使いを迎えるため、シキ(東郷池周辺)に置いていた。三ノ宮は瀬戸内の奥の美作である。四ノ宮は大阪か奈良である。

2  孝霊神社
 


 奈良県田原本町の庵戸神社(もと法楽寺)は孝霊天皇の皇居跡ではなく、孝霊天皇の一族(卑弥呼と桃太郎)のヤマト王権が唐古・鍵集落を平定するときの前線基地であった。このとき孝霊天皇自身は広島県府中市の南宮神社にいた。孝霊天皇の皇居は府中市より北の鳥取県湯梨浜町宮内にあった。
 奈良県法楽寺の伝承には「聖徳太子が飛鳥より法隆寺へ通う途中の屏風の地にて休息された時、南方に紫雲の棚引くのを訝られ、調べさせたところ、七代孝霊天皇の一族を祭る小さな祭祀を見つけられ、ここを捨て於いては申し訳が立たないと、この祭祀を守るべく、立派な寺を建てられた」とある。「紫雲が棚引く」のは香をたいていたと思われる。「七代孝霊天皇の一族」とは桃太郎(倭建・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)のことである。「ここを捨て於いては申し訳が立たない」と思われたのは孝霊天皇一族が聖徳太子(28代天皇)の直系の先祖であったからである。その後、法楽寺は衰退の一途をたどった。これは三重県志摩市磯部町の千田寺と同じである。
 (千田寺案内板より)「聖徳太子が、神異不思議のあらわれてある千田の由来を聞かせられ『わたくしその地を遊覧しよう』と千田の神池に行幸なされた。大へん感嘆され、この地を末の世までも栄えさせようと、殿堂を多く建て、山を無量山といい、寺を千田寺と名づけ、倭姫命の古語りを残し、太子自ら三歳の姿を彫刻して納められた古い遺跡であることが明らかである」とある。倭姫命(卑弥呼)と聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は同郷(鳥取県中部)であり、先祖・子孫の関係である

3  私見
 法楽寺から唐古・鍵遺跡まで東に2.23kmである。前線基地を置いて攻撃するには良い距離である。七代孝霊天皇の一族を祭る小さな祭祀は桃太郎(倭建・若日子建吉備津彦)と卑弥呼(倭姫)の倭王権が唐古・鍵遺跡を攻撃するための前線基地としていた場所である。聖徳太子(第28代蘇我入鹿天皇)は桃太郎(倭建・若日子建吉備津彦)や卑弥呼(倭姫)と先祖・子孫の関係であり同郷(鳥取県中部)なので二人の功績を称えてそこに法楽寺を建てた。
 上宮聖徳法王帝説は聖徳太子ゆかりの7寺として、法隆寺(斑鳩寺)、広隆寺(蜂丘寺)、法起寺(池後寺、尼寺)、四天王寺、中宮寺(尼寺)、橘寺(聖徳太子生誕地)、葛木寺(尼寺)を上げる。
 このうち実際に太子が創建に関わったと考えられるのは法隆寺で、その他畿内で太子が創建に関わったのは法楽寺と千田寺と飛鳥寺くらいである。藤原氏は千田寺に勅使門を造り衰退に追い込んだ。聖徳太子ゆかりの7寺は藤原氏に都合のよい寺を含ませている。

4  蘇我氏が仏教を我が国の宗教とするまでは、徐福が持ち込んだ道教が倭国の宗教であった。現在の神道にも道教と共通する部分が残っている。蘇我稲目天皇の時代の仏教は中国で道教と儒教が濃く混ざった挌義仏教であった。それまでは道教だけであったので、道教以外の宗教が混ざった格義仏教に天皇家は魅力を感じていた。物部氏は石上神宮の武器を守り、国の存続のためには武力を軽視してはいけない、と忠告したと思われる。蘇我氏はそれを押し切って仏教を導入した。私見では蘇我氏と物部氏の争いは、外部で見ていた藤原氏がのちに大げさに書き立てただけであって、戦争というようなものではなかったと思われる。
 蘇我稲目天皇の皇居があった打吹山の向かいの山を向山という。その下の三明寺集落を向原といっていたはずである。蘇我稲目はここに仏像を置いた。現在は山名寺がある。物部氏が捨てた難波の池とは東郷池のことである。東郷池の畔の九品山大伝寺では中将姫を祀っている。中将姫を祀っている寺は他に奈良の当麻寺と信州善光寺だけである。東郷池と信州善光寺は関係がありそうである。
 ちなみに、物部氏の集落に比定している倉吉市大原の倉〇さんは倉吉市弓削に親戚があり、法事で弓削集落に行かれた。

5  15代応神天皇(葛城長江襲都彦)の時に高句麗と百済は新羅を侵略した。20代の雄略天皇に至るまで倭国は朝鮮半島を平定することに注力した。その頃の朝鮮半島からの難民や渡来人は河内や奈良に住まわせた。15代から20代までの天皇の宮が奈良にあったかどうかは疑問である。全国の代表者を奈良に集めて祭祀をしているような暇はなかったはずである。倭国は5世紀始めには高句麗を今の北朝鮮と中国の国境付近まで追い込んだが、5世紀中頃には、「新羅」は百済・高句麗に攻められて累卵の危きにあった。日本書紀では「百済」に書き換えている。雄略天皇が復興したのは「新羅」である。倭国天皇は、20代雄略天皇まで安東(朝鮮半島を安んじる)将軍の肩書を中国に求めた。
 朝鮮半島情勢が落ち着き、新羅の法興王の時代、挌義仏教が入ってくるようになると倭国(鳥取県中部)は再び奈良で祭祀することを始めた。蘇我馬子と蘇我入鹿(聖徳太子)は奈良の飛鳥に仏教寺院を建立した。
 蘇我馬子を嶋大臣といい蘇我入鹿を等由良大臣といった。馬子は飛鳥の嶋に宮を置き、入鹿は飛鳥の等由良に宮をおいた。馬子の皇居は鳥取県北栄町島にあり入鹿の皇居は鳥取県北栄町由良にあった。
 二人とも馬に深く関係するが倉吉市馬場町(日本書紀・応神記・軽の坂上の厩に付合)に厩があった。倉吉市馬場町は馬子の皇居(北栄町島)の南、物部氏の集落(大原)の北西になる。厩戸皇子は倉吉市馬場町で生まれ、父の皇居はすぐ北の北栄町島集落にあり、母の実家は南東の倉吉市大原にあった。厩戸皇子とは聖徳太子のことであり、蘇我入鹿のことであった。のちに28代天皇となり、皇居は鳥取県北栄町由良宿に置いた。
 由良宿の丘陵地では大量の土器や石器が出てきていたことを確認している。ただし、大栄町やそれ以前の由良町は北条町とは異なり遺跡に関してはあまり関心が無かったようで、工事を止めて遺跡を発掘することをしていない。「由良」とは由良川の上流の亀谷にいた木花咲耶姫が付けたという伝承があるから、蘇我入鹿の時代でも「由良」といっていたはずである。ここに蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の皇居である由良宮があった。
 由良の丘陵地(左側)

6  天武天皇は蘇我入鹿の子である。
 「大海人皇子は飛鳥に着くと嶋宮に入っている。また壬申の乱の戦いに勝利し、飛鳥に凱旋したときも嶋宮に入っている。嶋宮は飛鳥における大海人皇子の居宅であったことがわかるが、この嶋宮は元は蘇我馬子の旧宅であったといわれている。大海人皇子は馬子の嫡流であったからこそ嶋宮を自らの居宅としていたと考えられる」とする説がある。私も天武天皇は蘇我入鹿の子であると解する。大海人皇子は649年(18歳)にはすでに倭国天皇に即位していた。皇居は倉吉市賀茂神社にあった。
 亡命百済王朝(日本)は朝鮮半島に残っていた殷王朝末裔の準王一族と思われる。神武天皇の時代から倭朝廷は準王一族(蝦夷)を平定をしてきている。壬申の乱などと言うが、乱ではなく天武天皇は倭朝廷が行なってきた蝦夷に対する平定を同じように行なったにすぎない。亡命百済王朝(準王一族)を平定するために奈良に行幸した。
 父の蘇我入鹿と蘇我倉山田石川麻呂を殺害したのは天智(豊璋)と鎌足であることが判り、669年に鎌足を殺害し、670年に斑鳩寺を放火全焼させた天智(豊璋)を671年に近江で殺害したが、天武天皇は亡命百済王朝(日本)の危険性に気付いたからである。
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鳥取県湯梨浜町「引地」は本田善光が一光三尊阿弥陀如来を引き上げた地である

2018-08-02 08:10:12 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  難波の堀江とはどこか
 日本書紀・欽明天皇・仏教公伝において「天皇はいわれた。『それでは願人の稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう』と。・・・。小懇田の家に安置し、寧ごろに仏堂を修めるよすがとした。向原の家を清めて寺とした。後に国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。物部大連尾興・中臣連鎌子は共に奏して、・・・仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべきです、といった。・・・。役人は仏像を難波の堀江に流し捨てた」とある。
 善光寺縁起によると「信濃の国の本田善光が国司に伴って都に参った折、たまたま難波の堀江にさしかかると、『善光、善光』と呼ぶ声がどこからともなく聞こえてきた。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現したので、善光はそれを持ち帰った。それが現在善光寺で祀られている秘仏本尊の一光三尊阿弥陀如来像である」とする。
  通説は「難波の堀江」を、向原寺(豊浦寺)の一角にある「難波池」と称される小さな池であるとしたり、大阪の和光寺あたりであるとしている。

2  私見
 鳥取県湯梨浜町の「引地」とは 本田善光が一光三尊阿弥陀如来を引き上げた地だから付けられた地名と思われる。この地名について藤原氏は「中将姫の遺跡を奈良の当麻寺から分移して引き移したので引地という」とする。こじ付けのようで苦しい説明である。ここに中将姫伝説を広め仏像が引き上げられたことを消そうとした。これは孝霊天皇がいた湯梨浜町宮内に下照姫の伝承を広め、天皇のいた打吹山に天女伝説を広め、崇神天皇のいた津山の中山神社に猿伝説を広めた藤原氏の手法である。引地の地名を中将姫の伝説に絡めて分からなくする手法である。
 日本書紀の「難波」は東郷池に比定できる。東郷池は入り組んだ地形のため難しい波が入ってきていた。北山古墳より東は海からの波が直接入ってこず、反射したりした難しい波が入って来ていたと思われる。波延(ハエ)も東郷池の波の状態を表わすものである。北山古墳より西が「波延」(ハエ)、北山古墳より東が「難波」と思われる。藤原氏は難波の地名を大阪に移して東郷池では使わせないようにした。
 14代仁徳天皇の「難波」高津宮と15代応神天皇の「難波」大隅宮も東郷池周辺と思われる。蘇我稲目天皇の師木島大宮は湯梨浜町龍島にあった。

 紀元前200年頃は今より海抜が4m高かった。紀元600年頃は今よりまだ少なくとも1mは高かったはずである。海抜が1m高い東郷池の地形である。引地の九品山大伝寺の前まで水面が来ている。「難波の堀江」は湯梨浜町引地の前にあった。龍島あたりに島が出現する。蘇我稲目天皇の「磯城島金刺宮」は湯梨浜町龍島にあった。

 藤原氏は「引地」の地名を巧みに隠そうとしているが、仏像を「引き上げた地」と解するほうがよほど自然である。

3  奈良の当麻寺
 山門
 国宝の本堂
  中将姫の像 電線が多すぎる。

4  湯梨浜町引地の九品山大伝寺
 中将姫の像
 本堂の中 阿弥陀二十五菩薩立像がある。
 奈良の中将姫よりふくよかである。
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蘇我氏三代は倭国(鳥取県中部)に皇居があった正統な天皇である

2018-08-02 06:41:19 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  蘇我馬子の皇居は鳥取県北栄町島にあった。島の皇居の後ろには後宮があってもおかしくない曲集落の地域がある。
  元興寺伽藍縁起では等由良宮(豊浦宮)の字が3回使われている。豊浦宮の元の字は等由良宮であった。旧事本紀によると「AD580年 物部鎌姫大刀自連公、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻と為りて豊浦(等由良)大臣を生む。名を入鹿連公と曰ふ」とある。
 蘇我入鹿は蘇我馬子の子であり、蘇我馬子は島大臣と呼ばれ、蘇我入鹿は等由良大臣と呼ばれていた。どちらも皇居のある地名である。蘇我馬子の皇居は鳥取県北栄町島にあり、蘇我入鹿の皇居は鳥取県北栄町由良にあった。現在は北条島と由良宿になっているが、以前は島であり由良であった。奈良にあった等由良宮は四ノ宮か五ノ宮であろう。泊瀬は倉吉市中心市街地であり、蘇我稲目の皇居・泊瀬柴籬宮は打吹山の大江神社であった。
 随書には、600年高祖文帝の問いに倭国の遣使が答えた様子が描かれている。「倭王の名前は阿毎、字は多利思比孤。」比孤だから彦。男性です。「後宮に女、600~700人あり」とある。
 阿毎多利思比孤(アマノタリシヒコ)は蘇我馬子である。蘇我善徳(聖徳太子)はこのとき20歳であり、元興寺(飛鳥寺)の寺司になって4年しか経っていなかったが、翌601年に斑鳩宮の建造に着手した。608年、隋の倭国使たちを迎えるために蘇我馬子天皇とともに鳥取県北栄町島の皇居に帰っていた。北栄町島の皇居で隋の倭国使たちを迎えてから、蘇我善徳(聖徳太子)と隋の倭国使たちは馬で奈良の元興寺(飛鳥寺)まで行った。
 この時、大国維新之化(全国のインフラ整備)として奈良に藤原京や平城京を建設する打ち合わせもしたと思われる。

2  先代旧事本紀は日本書紀の焼き直しに思えるが、日本書紀と異なる記述や日本書紀にない記述があるので参考になるときがある。
 例えば蘇我入鹿についての記述「AD580年 物部鎌姫大刀自連公、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻と為りて豊浦大臣を生む。名を入鹿連公と曰ふ」とあるが、日本書紀では入鹿の父は蝦夷であるとする。蝦夷は馬子や入鹿や稲目などに比べて、影が薄い。日本書紀の蝦夷の記述は矛盾が多いので、蝦夷は実在しなかったと思われる。蘇我氏3代とは稲目、馬子、入鹿であった。
 蘇我入鹿の父は蘇我馬子であり入鹿の次の天皇は大臣とされている蘇我倉山田石川麻呂であった。

3  日本書紀・推古記「四年冬十一月(596年)法興寺が落成した。馬子大臣の長子善徳臣を寺司に任じた。この日から、慧慈、慧聰二人の僧が法興寺に住した」とある。
  蘇我馬子の造った飛鳥寺(元興寺)
 聖徳太子16歳の像と言われている。なぜ飛鳥寺に聖徳太子の像があるのか、聖徳太子は法隆寺ではないのか、と不思議に思ったが 「寺司に任じられた善徳が聖徳太子である」という説にたてばなるほどと納得できる。
 また、蘇我入鹿と蘇我善徳は同一人物とする説がある(どちらも蘇我馬子の長男となるため)。
  入鹿の首塚

4  日本書紀によれば、聖徳太子こと厩戸皇子は601年、飛鳥から斑鳩の地に移ることを決意し、斑鳩宮の建造に着手、605年に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。日本書紀には天智9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものである(ウィキペディアより)。
 
 法隆寺五重塔
 法隆寺夢殿
 おそらく法隆寺西院を再建したのは天武天皇であり、そのときに現在の伽藍配置になった。鳥取県琴浦町の斉尾廃寺も伽藍配置が現在の法隆寺西院と同じであり7世紀後半(白鳳時代)の創建であるので、天武天皇が創建したものと思われる。
 藤ノ木古墳
 法隆寺再建前の斑鳩寺は藤ノ木古墳と同時に造られたという説がある。

 おまけ
 法隆寺再建前の斑鳩寺は等由良大臣の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が建造した。
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蘇我稲目天皇は鳥取県中部(伯耆国)を活動拠点としていた

2018-08-02 06:12:54 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  日本書紀・欽明・秦大津父において「秋七月十四日、都を倭国の磯城郡の磯城島に遷した。名付けて、磯城島金刺宮といった。」とある。古事記では「師木島の大宮」である。

 日本書紀・欽明・仏教公伝において「蘇我稲目大臣(王)は小墾田の家に仏像を安置し、ねんごろに仏道を修めるよすがとした。向原の家を清めて寺とした。後に国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。役人は仏像を『難波の堀江』に流し捨てた」とある。

 日本書紀・欽明・難船の高麗使人において「夏四月二日、天皇は泊瀬柴籬宮においでになった。」「この月、天皇は泊瀬柴籬宮より帰られた。」とある。
 日本書紀・欽明・伊企儺の妻大葉子において「狭手彦は、鎧二領・金飾の大刀二口・銅鏤鐘三口・五色の旗二竿・美女の媛と従女吾田子を蘇我稲目大臣に送った。大臣は二人の女を召し入れて、妻として軽の曲殿に住まわせた。」とある。
 日本書紀・欽明・聖明王の戦死において、蘇我稲目は百済(新羅)王子の弟恵(法興王の王子)に対して「むかし、雄略天皇の御世に、百済(新羅)が高麗に攻められて、累卵の危きにあった。その時天皇は朝廷の神祇伯に命じて、策を神々にお尋ねになった。祝者が神の言葉を告げて『始め国を建てられた神を請い招いてお祈りし、亡びそうな国主を救えば、必ず国が鎮まり、人々も安らかであろう』といった。これによって神をお招きし、行って百済(新羅)を救われた。こうして国は安らかとなった。尋ねみると国を建てた神とは、天地草創の頃、草木も物語した時に、天から降られ国家を創られた神である。聞くところによるとあなたの国(新羅)では、祖神を祀らないということですが、今まさに前科を悔い改めて、神の宮を修理し、神霊を祭られたら、国(新羅)は栄えるでしょう。あなたはこれを決して忘れてはなりません」といった。

2  日本書紀・推古・蘇我馬子の葛城県の要請とその死・において、冬十月一日、大臣馬子は、阿倍連と阿倍臣摩侶の二人に天皇に奏上させ、「葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封ぜられた県といたしとうございます」といった。推古は「いま、自分は蘇我氏から出ている。馬子大臣はわが叔父である。今わが治世に、急にこの県を失ったら、後世の帝が『愚かな女が天下に君として臨んだため、ついにその県を亡ぼしてしまった』といわれ、後世に悪名を残すことになるだろう」として許されなかった。

3  私見
 蘇我稲目天皇は鳥取県中部(伯耆国)を活動拠点としていた。
  1はすべて、欽明の旧辞として書かれているが、この時の天皇は蘇我稲目天皇であった。
(1) 磯城(師木)は東郷池周辺である。海抜1mに海面があった(600年頃)東郷池の地形を見ると、現在の龍島が島であった痕跡が見える。蘇我稲目大臣(大王)の磯城島金刺宮は湯梨浜町龍島にあり、崇神天皇の水垣宮は湯梨浜町長和田集落にあり、応神天皇のもう一つの難波大隅宮は湯梨浜町小鹿谷にあった。
 東郷池に島はないため磯城島金刺宮の比定地は見つからないと思っていたが、水面が1m高いと龍島が島になるのでここに蘇我稲目大臣(大王)の磯城島金刺宮があったと思われる。以前は龍頭と表示されていた。

 「難波の堀江」は九品山大伝寺の前である。役人は仏像を難波の堀江に流し捨てた。本田善光はここで仏像を引上げて信州に持ち帰った。

(2) 泊瀬は長谷であり、倉吉市中心市街地周辺であった。蘇我稲目天皇は同じ泊瀬の山(打吹山)にいた雄略天皇の事績を持ち出している。蘇我稲目天皇の皇居である泊瀬柴籬宮は泊瀬の山(打吹山)にあった。
 欽明(蘇我稲目天皇)の皇居の泊瀬柴籬宮は倉吉市打吹山の大江神社と思われる。

 大江神社
 由緒 「明治13年賀茂神社に合祀されていたが、この地に大正2年奉還した。」とある。
もともと祭神の大江磐代君は湊町の生まれであり、賀茂神社に合祀されていた。なぜ賀茂神社よりまだ遠いこの地に持ってきたのであろうか。もともとこの地に神社があったのを転用したと思われる。この地は欽明(蘇我稲目天皇)の皇居であった。
(3) 蘇我氏の出自は鳥取県中部の葛城地方(北栄町原集落元の神社に蘇我氏の祖の武内宿禰天皇の皇居があった)であった。
 葛城とは葛城山(蜘ヶ家山)と日向(四王寺山と葦原中津国)を含む鳥取県中部の地域である。
 軽は向山と土下山周辺である。向山の麓の三明寺集落を向原と言っていたはずである。曲という地名もある。
 実在しない推古天皇に、そこにいるかのように演技をさせる不比等たちの文章力のうまさには敬意を表する。
 原古事記には「蘇我馬子天皇は葛城県は倭王朝の本貫だから、これより以降は天領とする」と書いてあったと思われる。天領にするかどうかは天皇でなくてはできないから、それを消すためにこの物語を挿入したと思われる。誰が姪かくらいは言わなくても馬子には判っている。あえて書くのは先に書いた続柄は嘘でしたと白状しているようなものである。蘇我氏の本貫が葛城県であることはそのまま転用した。
 蘇我氏の出自は天照大御神やニニギ命の降臨した鳥取県中部(倭国)の倭王朝の正統な流れであった。蘇我氏3人とも立派な天皇の名前であったはずである。
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535年から乙巳の変までの110年の間の倭国天皇は蘇我氏三代であった

2018-08-02 04:42:39 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

1  宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極は倭国の実在した天皇ではない。この間、蘇我氏は四人とも大臣とされているが、三人は天皇であった。535年から110年の間、蘇我氏三代が天皇であった。原古事記には正式な天皇の名前として書いてあったはずである。藤原氏は倭国の乗っ取りを完全なものにするため、蘇我氏が天皇であった期間に百済の正当性を書くことにした。日本書紀は完成後民間に公開をしていなかったし、見せる者も天皇・藤原氏等に限られていた。公開を始めたのは過去を知る者が居なくなってからである。 
 蘇我稲目天皇 在位535年~572年(宣化・欽明)
 蘇我馬子天皇 在位572年~626年(敏達・用明・崇峻・推古)    
 蘇我入鹿天皇 在位626年~645年(舒明・皇極)
 聖徳太子は蘇我入鹿天皇であった。


2  蘇我稲目は天皇であった。
 日本書紀・欽明・伊企儺の妻大葉子において「狭手彦は、鎧二領・金飾の大刀二口・銅鏤鐘三口・五色の旗二竿・美女の媛と従女吾田子を蘇我稲目大臣に送った。大臣は二人の女を召し入れて、妻として軽の曲殿に住まわせた。」とある。


3  蘇我馬子は天皇であった。
 日本書紀・崇峻天皇・穴穂部皇子の死において「蘇我馬子らは『お前たちは兵備を整えて急行し、穴穂部皇子と宅部皇子を殺せ』と命じた」。また「蘇我馬子大臣は百済の使人に語って『この尼達をつれてお前の国に渡り、受戒の法をならわせて欲しい。終わったならば還らせるように』といった。」とある。日本書紀・崇峻天皇・物部守屋敗北において「蘇我馬子大臣は請願の通りに飛鳥の地に法興寺(飛鳥寺)を建てた。」。日本書紀・推古天皇・太子と飢人において「八月、蘇我馬子大臣は病気になった。大臣の病気平癒を祈るために男女一千人を出家させた。」とある。


4  蘇我入鹿は天皇であった。
 日本書紀・皇極・秦河勝と常世の神・3年冬10月において、「蘇我大臣蝦夷と子の入鹿は、家を甘橿岡に並べて建てた。大臣の家を上の宮門と呼び、入鹿の家を谷の宮門といった。男女の子たちを王子といった。家の外にとりでの柵を囲い、門の脇に武器庫を設けた。家ごとに、用水桶を配置し、火災に備えた。力のある者に武器をもたせ常に家を守らせた。大臣は桙削寺を建てさせた。家を畝傍山の東に建て、池を掘ってとりでとし、武器庫をたてて矢を貯えた。常に五十人の兵士を率いて護衛させ家を出入りした。諸氏の人達がその門に侍った。漢直らは専ら両家の宮門を警備した。」とある。


5  私見
 日本書紀・欽明天皇の旧辞などは朝鮮半島情勢に多くのページが割かれている。「百済」の文字は91回、「新羅」は98回、「高麗(高句麗)」は44回、「任那」は111回、「日本」は61回使われている。藤原氏はこれを挿入したかったのである。亡命百済人(不比等たち)はここで一気に新羅の悪口を書き鬱憤を晴らした。天智が669年に考案した「日本」という国号はまだ無かったのに遡ってしつこいほど使っている。ここで「日本」という国号を印象づけようとした。
 言いたいことは、「百済は良い国で新羅は悪い国である」ということを多くのページを割いて書いている。天皇家の血筋の正統性を書き残すのに、朝鮮半島情勢は必要ない。これは原古事記には書いてなかったものを不比等たち百済出身者が書き加えたものである。
 蘇我馬子天皇は島大臣と呼ばれていた。天皇であり皇居は鳥取県北栄町島にあった。鳥取県北栄町は蜘ヶ家山もあり、葛城地方に比定される。蘇我入鹿は等由良(とゆら)大臣と呼ばれていた。鳥取県北栄町には由良(ゆら)もある。

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筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である

2018-08-01 14:53:22 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1  日本書紀・継体天皇・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、新羅(百済)に破られた南加羅・㖨己吞を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。新羅(百済)がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とある。

2  私見
 訂正 任那は加羅ではなく、最初から最後まで半島南西部の全羅南道にあった。
(1) 任那は新羅や倭国が中国へ渡るためまた外敵から守るために造られた国である。日本書記は原古事記にあった「百済」を「新羅」に書き換えている。百済人の創る歴史書に百済国の悪行を書くことはできないから、原古事記に「百済」と書いてあった悪行はすべて「新羅」に書き直した。
 任那とは垂仁天皇(220年~248年)が「御真津」や「御真木」と同じように「御真奴」(みまな)とするようにと言われてから任那(みまな)と言うようになった。倭奴国はもともと北九州であった。大陸からの外敵から倭国を守るのが使命であった。新羅は逃げ場のない国だから西から侵略されそうなところを守るしかなかった。それでも倭国(鳥取県中部)と交易するには、この場所がベストであった。その新羅がなぜ倭国の国司に賄賂を送り倭国の軍隊の進軍を止めさせなければならないのか。百済は任那を占領して任那日本府(541年~)と名乗った。百済は新羅にも侵略を始めていた。窮地に陥った新羅は百済の本質を見抜いていたので、百済を任那の地から排除していった。660年には百済王朝の残りも倭国に亡命する。日本書紀は倭国を乗っ取った百済が創作したものであり、原古事記に書いてあった「百済」の悪行は「新羅」に書き換えた。
(2) 原古事記・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、百済に破られた南加羅・㖨己呑を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国司磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。百済がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とあった。
 百済王朝は高句麗と同じく中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。「六韜第十五文伐篇」には賄賂のことが詳しく書いてある。倭国に亡命後「六韜」に基づいて大田皇女と鸕野讃良皇女を天武天皇に贈ったのも百済士人(天智と鎌足)である。不比等も「六韜」に従い権力者を徹底的におだてた。
 日本書紀の「新羅」は、原古事記では「百済」と書いてあった。主語を百済から新羅に書き換えるだけだから簡単なことである。卑弥呼の伝承をすべて神功皇后に書き換えるのと同じことである。但し、整合性は代が替わってもいつも気を付けていた。整合しない文章は書き換えた。
 百済は高句麗の手先である。高句麗と戦争をし、負けて再び建国し、また南下した、とあるが百済は倭国に敗れ北に退散したが高句麗にはっぱをかけられ「六韜」を教えられ、再び南下した。任那を侵略するにあたって倭国の重臣磐井に賄賂を送った。その結果が磐井の乱(527年)である。
(3) 5世紀後半から6世紀前半にかけて朝鮮半島西側で百済(日本)と任那(倭国)は争っていた。任那日本府の成立(541年~)は百済(日本)が任那(倭国)を占領したことを示している。また、その時代の記紀の記述(仏教公伝など)は原古事記を大きく改ざんしたものである。百済(日本)は武力だけでなくあの手この手を使って新羅と任那(倭国)を奪おうとしていた。

3  〈参考〉 ※参考文献 『六韜・三略』 守屋 洋 著  
 「六韜」 第十五 文伐篇
 文王が呂尚にたずねた。
 文王「武力を使わないで目的を達するには、どうすればよいか」
 呂尚「それには次の12の方法が考えられます。
 第一は、相手の欲するままに要求を聞き入れてやれば、やがて驕りの心が生じ、必ずや墓穴を掘るようなことをしでかします。
 第二は、敵国の寵臣を手なずけて、君主と権力を二分させるのです。
 第三は、側近の者に賄賂を贈って、しっかりとかれらの心をとらえるのです。
 第四は、相手国の君主に珠玉を贈り美人を献じ、女に溺れて政治を忘れるように仕向けたうえ、下手に出て、相手の言いなりになって調子を合わせるのです。
 第五は、相手国の忠臣を厚遇し、君主への贈物は減らして、相手の結束に楔を打ち込むのです。
 第六は、相手国の内臣を懐柔し、外臣を離間するのです。
 第七は、相手国の野心を封じこめるために、厚く賄賂を贈って寵臣を買収し、利益で釣って職責を怠るように仕向けるのです。
 第八は、相手国の君主に重宝を贈って、わが方を信頼するようにさせ、わが方に協力させるように仕向けるのです。
 第九は、相手国の君主を褒め上げていい気持ちにさせ、手も足も出ないふりをして安心させ、政治を怠るように仕向けます。
 第十は、謙虚な態度で相手国の君主に仕えて心をつかみ、頼りになる味方だと思わせるのです。
 第十一は、相手国の有能な臣下に、内密に高い地位を約束し、重宝を贈って手なずけ、わが方に肩入れする人間を増やすのです。
 第十二は、相手国の乱臣を手なずけて君主の心を惑わし、美女や歌舞団を送って関心をそちらに向けさせるのです。
 以上の12の策をすべて試みてから武力を行使するのです。つまり、天の時、地の利を考え、これなら勝てると見極めてから、はじめて軍事行動を起すのです。
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倉吉市大原(石上)と三朝町大瀬(勾金橋)に行ってきました

2018-08-01 13:44:02 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1  倉吉市大原の大原神社
 案内板には昭和9年の鳥取県神社誌にある由緒と同じことが書いてあったが、伯耆国二の宮である波波岐神社の部分は消してあった。こうして、石上神宮の名称が647年以降は二の宮の波波岐神社とされ元禄時代には大原神社とされたようである。その頃、岡山の石上布都御魂神社の宮司の名前を物部にし、血洗いの滝の伝承を作って倉吉市大原は素戔嗚と関係ないことにした。今また、伯耆国二の宮の波波岐神社であったことを消そうとしている。
 沢山の良い武器や七支刀もあったものと思われる。藤原氏たちはこの武器庫を略奪しても多くの武器を積んで人形峠までの坂を上がるのは大変であったはずである。大原は倉〇姓や倉□姓が多い。

2  倉吉市大原の大原観音堂
 
 大原観音堂は第24代仁賢天皇の石上広高宮の跡と思われる。大原観音堂に上がると集落と街道がみえる。皇居としては良い立地である。

3  大原廃寺跡
 大原廃寺跡に上がる看板の裏に志羅谷川とあった。志羅谷川は新羅谷川と読める。
 
 大原廃寺は7世紀末頃に創建された寺院跡である、とする。天武天皇の時代である。雄略天皇が呉の使いをもてなされた「石上の高抜原(第20代安康天皇の石上穴穂宮)」はこのあたりと思われる。

4  三朝町大瀬の勾金橋
 三徳川は90度くらい曲がっている。ホテルの向こうの鳥取県道21号も90度くらい曲がっている。
 第27代安閑天皇の時代もこのあたりに橋があったはずである。

5  三朝町大瀬の大宮神社

 この場所に第27代安閑天皇の勾金橋宮があったものと思われる。
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第20代安康天皇の石上穴穂宮と第24代仁賢天皇の石上広高宮は倉吉市大原にあった

2018-08-01 10:56:17 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1  古事記・日本書紀の石上神宮
(1)古事記・履中「天皇は、その道から大和にのぼって、石上の神宮に難を逃れた。・・・弟君はこうして石上の神宮に参上して天皇のもとに、『仰せの通りに平定いたしましたので、ただ今、戻ってまいりました。』このように取り次がせた。」とある。
 崇神天皇の時代に十握剣は石上布都魂神社に移されていたが石(イソと読ませる)上神宮は倉吉市大原にあった。天神川の川下には江戸時代まで石(イソ)山があった。石山は海岸近くにあり磯山である。天神川の上流の倉吉市大原を石(イソ)上と言っていたはずである。
 ここに出てくる「難波」とは東郷池のことである。北山古墳より西を波延といい北山古墳より東を難波と言っていた。東郷池は大陸との直接交流があった。そのため、歴代の天皇は磯城・斯鬼(シキ)に第二の宮を置いていたようである。
(2)日本書紀・垂仁「イニシキの命は川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。よってその剣を川上部という。忍坂邑に納め、その後、忍坂から移して石上神宮に納めた。・・・」とある。
 石上神宮は倉吉市大原にあった石上神宮である。川上宮は湯梨浜町川上集落にあったと思われる。忍坂とは波関峠のある坂と思われるから忍坂邑は三朝町片柴集落と思われる。
(3)日本書紀・雄略「雄略天皇は呉人をもてなそうと思われて、群臣につぎつぎ尋ねられ、『会食者には誰が良いだろうか』といわれた。群臣は皆『根使主がよいでしょう』といった。天皇は根使主を任じられた。石上の高抜原で饗宴をされた。・・・」とある。
 安康天皇は雄略天皇の兄であり、前天皇である。雄略天皇の皇居は打吹山の長谷寺にありシキ(斯鬼)にも宮があったようだから、忍坂邑(三朝町片柴)経由で東郷池にもよく行っていたようである。その途中に大原(石上の高抜原)がある。兄の皇居のあった地(石上穴穂宮)で雄略天皇は呉人をもてなした。
(4)古事記・神武 「高倉下は夢の中で『葦原中津国はひどく騒がしくて、乱れているようだ。わが御子たちも、病を得て困り果てている。葦原中津国は汝が平定した国であるから、今度も、汝建御雷之男神が降っていくがよい。』と天照大御神が命じられましたところ『私が降ってゆきませんでも、この前に平定の役目を果たした剣がございます。これを私の代わりに降しましょう。』と答えた」とある。この剣の名は佐士布都神と言う。別名を、布都御魂と言う。この剣は石上の神宮にある。
 場所は熊野とあるが、これは後の改ざんである。最初から石上神宮は奈良にあったと思わせるためのカムフラージュである。葦原中津国は十と利権中部にあり、天孫降臨も鳥取県中部であったから、建御雷之男神が降ったのは鳥取県中部(倭国)である。

2  岡山県赤磐市の石上布都魂神社
 宮司によると、崇神天皇の御代に疫病が流行り、霊剣が備前の石上布都魂神社に在ることを知った天皇が、霊剣を大和に移されて、疫病をしずめたということであった。つまり、天理の石上(イソノカミ)神社は、この石上布都魂神社の神剣を移した先であり、この備前の石上布都魂神社の方が元ということになる。
 この「大和」とは「倭」を書き換えたものであり、奈良ではない。崇神天皇の時代の疫病は倭国(鳥取県中部)で発生しており、鳥取県西部から大田田根子を呼び、北栄町下神の三輪神社で祭祀をした。疫病を鎮めるために神剣を移したのも倭(鳥取県中部)である。天理が元か備前が元かではなく、大和は奈良ではなく鳥取県中部(倭)であった。倉吉市大原の石上神宮(現大原神社)が元であった。

3  鳥取県倉吉市大原にある大原神社の由緒 (昭和9年の鳥取県神社誌より)
 鎮座地 東伯郡西郷村大字大原字宮ノ下  現在地 鳥取県倉吉市大原619番
 祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳神、天穂日神、天津彦根神、活津彦根神、熊野樟日神、素戔鳴神、倉稲魂神、天満天神
 由緒(抜粋)
 旧記に拠れば大化三年(647)丁未九月社殿を創建した。
 元禄時代には、この社を伯耆式内六社の一つの波々岐神社なりと言っていたようである。元禄七年武内自安子の記せる「伯陽六社みちの記」に「大原の里に行き・・・二の宮の波々岐ノ神社へ先まうて奉らんといへば」とある。大原の安綱の出身もこちらである(伯耆民談記)。

4  私見
 大原神社の創建は647年とあるが、647年は蘇我入鹿(聖徳太子)が暗殺された2年後である。石上神宮は647年に波々伎神社と社名を変えられた。その時に剣一千口などを奈良に移した。大原神社の前身は波々岐ノ神社であったから、素戔嗚命が八岐大蛇退治をした後まもなく創建されているはずである。素戔嗚命が辰韓から伯耆国に着いて(紀元前210年)大国主が青年になった頃、紀元前160年頃にはあったものと思われる。ちなみに、琴浦町の伊勢神宮は天孫降臨の前に内宮と外宮ができているから、紀元前160年頃と思われる。
 今の福庭の波々伎神社は元禄時代に命名された。元禄時代までは大原神社を波々岐ノ神社と呼んでいた。倉吉市大原には「大原ほうき」と言う地名があり、櫛稲田姫が「母来ませ」と叫んだ痕跡が残っている。素戔嗚命はそのころ東山神社(倉吉市米田町)に住んでおり、対岸にある大原の石上神宮に十握剣を奉納した。
 三朝町には二か所(大瀬と助谷)櫛稲田姫が「母来ませ」と叫んだと伝承される地がある。そしてもう一か所「母来ませ」と叫んだ地が大原である。
 「血洗いの滝」は八岐大蛇伝説が伯耆国の三朝町山田であったことを隠すために元禄時代に創作されたと思われる。また、石上布都魂神社の宮司の名前は十代前(30歳で世継ぎができるとすると300年前であり元禄時代)に物部に変えられたそうである。これも藤原氏によるカムフラージュ(整合性)である。
 倉吉市大原に最初の石上神宮があった。崇神天皇の時代に岡山県赤磐市の石上布都魂神社に十握剣を移した。崇神天皇の皇居は東郷池の畔にあったが、活動拠点は岡山県津山市であったから、倉吉市大原はその途中にある。大原にあった石上神宮の十握剣を石上布都魂神社に移したとしても不思議ではない。
 伯耆大原の安綱はここの出身である(伯耆民談記)。藤原氏の常套手段として本当の場所でないところ(伯耆町大原の地名は伯耆民談記の時代はなかった)を宣伝する。

5  天神川を下った海側に石(イソ)山があった。石山より山側の倉吉市大原を石(イソ)上と言っていた。石上神宮は鳥取県倉吉市大原にあり、第20代安康天皇の石上穴穂宮と第24代仁賢天皇の石上広高宮も倉吉市大原にあった。
 
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第25代武烈天皇の皇居

2018-08-01 09:23:20 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
  第25代武烈(無道な百済王の事績を日本書紀に書かれている)の泊瀬列城(なみき)宮は倉吉博物館より少し西に行ったところにあった。
 
 鳥取県神社誌に載っておらず、誰も管理していないような廃神社であるが、瓊々杵命が降臨した北栄町の大宮神社でさえ鳥取県神社誌には載っていない。雄略天皇がいた長谷寺から山道が通っている。その山道上に明治39年に大きな鎮霊神社が創建されている。また、横の通りは並木通りである。
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日本書紀にある倭(鳥取県中部)王の武烈・雄略の人殺しの記述は後の藤原氏による改ざんである

2018-08-01 05:30:57 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

 伯耆国(鳥取県中西部)は人命を大事にする国であった。
1  境港で育った水木しげるが戦争で生き残ったときに言った言葉
 水木しげるは境港で育った。
 「戦時中、特に前線では人間扱いされることなんてあり得ないことでした。人間なのか動物なのか分からないほど、めちゃくちゃだった」。上官に、「よく生きて帰ってきた」と喜んでもらえると思っていたが、「みんな死んでいるからお前も死ね」と言われた。
 バイエンに派遣された分隊は武装した現地人により襲撃を受けて全滅する。しかし、水木氏は不寝番として海軍の見張り台にいたために奇跡的に助かり、必死の思いで友軍部隊にたどり着き、所属する中隊に戻ることができた。しかし、「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだから、おまえも死ね」と言われた。


2  岡本喜八 米子の映画監督
 岡本喜八は「日本のいちばん長い日」を東宝で発表したのち、より自らの戦争体験に近い映画を作りたいと考え、ほかの映画会社に「肉弾」の企画を持ちかける。当時の監督の思いを綴った手記には「『日本のいちばん長い日』の欠落した部分を肉弾でうめねばならぬ。私の目の前で死んだ12人の戦友もフィリピンでもくずと消えた25名の同窓生も夫々小銃弾であった。二度と小銃弾になってはならない」と書いている。
 岡本監督の後日談
 岡本は「日本のいちばん長い日」は史実に忠実なだけのドラマで、あれには庶民が出てこない。だから、「肉弾」はできるだけ庶民にくっつけて描きたかった。いちばん身近な庶民の代表は僕自身だから、ささやかだけど僕の戦争体験を通してやってみようと。庶民代表でやってみようと。「肉弾」は自分史とも言えるわけで、やれたなと思っている。戦争でいちばん響いたのは、町内の小学生時代の友達が一人も帰って来なかったっていうことである、と言っている。


3  古事記・黄泉国・において「伊邪那岐は契を解くことを妻に申しわたした。この言葉を聞いた伊邪那美命が言うには、『・・・あなたの国の人々を1日に千人ずつ絞り殺してあげましょう。』伊邪那岐命は答えって言った。『・・・私のほうは一日に千五百人の産屋を建てて、子供を産ませることにしよう。』」とある。


4  仙人(伊邪那岐命)は三千人の少年少女を求めた。
 「史記」 巻百十八 淮南衡山列伝 第五十八
  又使徐福入海求神異物。還為偽辭曰: 『臣見海中大神、言曰: 「汝西皇之使邪」 臣答曰: 「然」 「汝何求」 曰: 「願請延年益壽藥。」 神曰: 「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」 即從臣東南至蓬莱山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰: 「宜何資以獻」 海神曰: 「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」 』 秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。
 ≪訳≫  ・・・また、徐福に海に出て、不老長寿の薬を求めさせたが、帰って来て偽りの報告をした。「私は海の上で大神に会い、こう言われました。・・・『汝らは何を求めておる?』。『延命長寿の薬をお願いしたいのです』。『汝の秦王の礼物では足らぬ。とても手に入れることはできぬ』と言い、東南の蓬莱山に私を連れて行きました。・・・『何を献上すればよろしいのでしょうか』と言うと、神は『育ちのよい少年少女と、いろいろの道具に技術を献上すれば、神薬を得られよう』と言われました」始皇帝は大いに悦び、少年少女三千人に五穀の種・諸道具・技術者を与え、東方に行かせた。徐福は平原と広沢を得、そこに止まって王となり帰ることはなかった。
※ (アットランダム スモーク氏のサイトより)徐州師範学院羅其湘教授の調査より 
 「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」
 「徐」家はかっての徐王国の末裔だった。その為に始皇帝から無理難題を押しつけられたが、又そういう名家の出身だからこそ、三千人の大集団を任せられる程の信頼が備わっていたのだとする。教授達は「徐福」の家系についても調査し、彼の先祖は夏王朝の初期に「徐」に封じられた王で、子孫は代々長江、准河、泗水、済水の流域一帯に栄えたと言う。つまり「徐福」は中国屈指の名門徐王の末裔という事になる。


5  殷王朝末裔準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷と言われていた青銅器文化の一族)の祭祀
 殷王朝では、祭祀に多数の人間を生贄として捧げる神事が執り行われた。生贄とされる人はチベット系遊牧民の羌族が多く、人狩りによって捕獲され、祭祀の時に神へ捧げられた。全ての生贄は意図的に頭が切り落とされている。甲骨文字の記録によると一度の祭祀でその数が650人に達したこともあったらしい。これまでの発掘で確認された生贄の数は一万四千体に及ぶ。
※ 列島に現れた鬼・猿は人をさらった。
 (楽々福神社由緒より)孝霊天皇の皇子、大吉備津彦と若健吉備津彦と共に西道鎮撫の勅命によって当国に巡行あり。この地に悪鬼占拠して人民を鹵掠(かすめとる)せしを、遂に平定したもう。
 (伯耆誌より)第七代孝霊天皇の世、鬼住山に悪い鬼兄弟眷属が住みついて近郷近在の女子供をさらったり、食料や宝物を奪って住民を苦しめていた。
 奥能登の猿鬼伝説「毎夜あちこちの集落へ出かけては、牛馬、家畜の豚などを食い荒らす。時には、子供をさらったり、傷つけたりした。」
 そのほか、大江山の酒呑童子伝説、備中の温羅伝説、中山神社の猿伝説、高千穂の鬼八伝説など鬼の伝説は全国に多い。


6  倭軍の蝦夷の平定の仕方(皆殺しではない)
 (溝口の鬼の館より)孝霊天皇は溝口の鬼の平定後、兄の鬼を家来にして北を守らせた。
 (日本書紀・景行天皇・蝦夷の性質・日本武尊は神人・より) 願わくは深謀遠慮し、悪い心を探り、叛く意思をうかがって、時には武力を示して、懐(ナツ)くものには徳をもって対処し、兵甲(武力=武器)を使わずとも自然と従わせるようにしろ。言葉を巧みに扱い、荒々しい神を鎮め、武を振るって悪い鬼を追い払え、とある。
 (日本書紀・敏達天皇・吉備海部直難波の処罰より)蝦夷数千が辺境を犯し荒らした。これによりその首領の綾粕らを召して詔され、「思うに、お前たち蝦夷を景行天皇(孝霊天皇)の御代に討伐され、殺すべきものは殺し、許せるものは許された。今、自分は前例に従って、首領である者は殺そうと思う」とある。殺さなければならないときでも、倭王は必要最小限にとどめた。


7  私見
 水木しげるにしろ岡本喜八にしろ鳥取県西部(伯耆国)で育った。人の命を大事にする環境で育った。水木しげるは「よく死なないで帰ってきた」と喜んでもらえると思っていた。岡本喜八は伯耆国(倭国)ではない日本国の戦争を皮肉交じりに風刺した。
 史記・淮南衡山列伝において司馬遷は「為偽辭」(偽の言葉を言って)と書いているが、「偽」とは外部の者が言ったのであって、伊邪那岐命が「令名男子若振女」を求めたのは史実であったと思われる。伊邪那岐命は人口を増やしたかったのである。また徐福は斉王(斉国の王)であった。鳥取県琴浦町「斉尾」の地名は「斉王」であった。斉王の地に徐福が降臨した。琴浦町伊勢野の天照皇大神宮に天照大御神は降臨した。伊勢野と斉尾集落は隣接している。
 倭国はこのような国であったから、祭祀に生贄の風習を残していた準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷と言われていた青銅器文化の一族)とは神武天皇のときから対立していた。倭国の大王は伊邪那岐命の考えを引き継いでいたから蝦夷を平定するときも蝦夷をできるだけ殺さないようにした。倭国は人命を大事にし人口を増やすことを考えていた。その結果、天智や鎌足のような危険人物の難民まで大事にしたのである。このことより伊邪那岐命(真人)を信奉していた天武天皇が全国の牢獄が空になるほど犯罪者を恩赦した精神がわかる。
 藤原氏は倭国を乗っ取ってからは、準王一族のいたところを聖地とした。準王一族の家津美御子(熊野権現)が徐福一行の4人を手下として仕えさせていたのは、京都の藤原氏にとって愉快であった。今の日本国も藤原精神を引き継いでいるから、出雲振根、家津美御子、鬼八、の居たところを聖地にして援助している。
 倭王は人を殺すことは必要最小限にとどめた。日本書紀にある倭(鳥取県中部)王の武烈・雄略の人殺しの記述は後の藤原氏による改ざんである。
 

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