「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

鳥取県倉吉市の大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)では仏教だけでなく道教(神道)の修行もしていた

2018-08-03 12:53:24 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

日本書紀・天武天皇即位の段に「2年夏4月14日、大来皇女を伊勢神宮の斎王にされるために、まず泊瀬の斎宮にお住まわせになった。ここはまず身を潔めて、次第に神に近づくためのところである。・・・。3年冬10月9日、大来皇女は泊瀬の斎宮から、伊勢神宮に移られた。」とある。泊瀬の斎宮とはどこのことであろうか。
 泊瀬(長谷)とは雄略天皇の皇居の解明より、鳥取県倉吉市の中心市街地であることが判った。天武天皇の時代に倉吉市に斎王を養成するような施設があったのだろうか。


1  「伯耆民談記」松岡布政より 
 伯耆民談記に「久米郡駄経寺村の大御堂  これも今は堂閣なし。駄経寺村の前なる田の中に小さき董(とう)あり。それ即ち大御堂である。いにしへは大きな伽藍の道場なりと言い伝う。・・・。またこの連りに華表(とりい)縄手という径(みち)あり。駄経寺の埴守である新宮大明神への古道なり。」とある。
  倉吉市駄経寺町より7世紀後半創建の大御堂跡が発掘された。
 倉吉市文化財調査報告書  史跡大御堂廃寺跡発掘調査報告書
http://sitereports.nabunken.go.jp/13635
ぜひご覧ください


2  軒瓦からみた寺院の造営時期(報告書より)
 大御堂廃寺跡からは多種多様の遣物が出土しているが、これらの遣物のうち屋瓦をとおして寺院の造営時期について考えをまとめる。
 A群は軒丸瓦のなかで最も古式の要素をもつ1類である。これら瓦当文様の特徴から7世紀第3四半世紀代に位置付けられるものと判断される。
 B群の軒丸瓦2類から5類は、川原寺式の系統に属する瓦当文様を配するから、7世紀第4四半世紀代に位置付けられる。
 C群の軒丸瓦6類と7類は、外区の密珠文の配置が大官大寺式に共通するが、内区の瓦当文様は本薬師寺式ないし藤原宮式に近い。このような特徴から、7世紀第4四半世紀代、それも後半頃に位置付けることが可能と考えられる。
 (私見) 
 報告者には大御堂廃寺は川原寺や本薬師寺や藤原宮よりも後に出来たという先入観がある。遅くとも壬申の乱までには完成していた。したがって、造営時期は663年から672年であると解する。天武天皇は壬申の乱のときには仏教・道教を会得していたからである。
 藤原宮や平城京の造営計画は、新羅・中国との交流があった倭国(鳥取県中部)が行っていた。蘇我善徳(聖徳太子)は隋国から来た裴世清たちと奈良に出向き、大国維新之化の教えを請うた。729年までは倭国に力があった。


3  奈良との関係
 報告書 仏像
 連立塼仏と同形のものは、奈良県山田寺跡や奈良県朝妻廃寺跡、和歌山県佐野廃寺跡、大御堂廃寺跡近くの大原廃寺跡等で出土し、その他に奈良県橘寺出土と伝えられたものがある。また、塼仏以外にも唐招提寺に所蔵される銅板押出三尊仏像に類例がみられる。
 報告書 銅製品
 銅製匙は正倉院宝物・雁鴨池出土品に類似する円形匙である。
 銅製獣頭は造形意匠の優れたもので類例は知られていない。材料は新羅産である。 


4  鳥取県倉吉市葵町の賀茂神社の由緒(昭和9年鳥取県神社誌)より抜粋 
 「明治までは賀茂皇大神宮と称へ衆庶の尊信特に篤し。当社隆盛の時代には神坂の東方五丁余の地に神宮寺ありて、多数の僧侶神官と共に社務を執行し、四時の祭典殷賑を極めたりし。当時の神宮寺は七堂伽藍の構造なりしと云ふ。現に寺坊の跡より巨大の礎石布目瓦等出づ。その付近に駄経寺、少林寺等の地名あり。何れも神宮寺の末寺のありし所といい伝ふ」とある。
 (私見)
 中国の五胡十六国時代は、儒教、道教、仏教が混ざり合う時代であった。道教を真似る格義仏教が発生した。新羅を通って渡ってきた大御堂廃寺の仏教は道教が濃く混ざった格義仏教であった。
 「神宮寺では多数の僧侶神官と共に社務を執行し」とある。神官とは倭国の崇神天皇(在位188年~220年)と卑弥呼(151年~248年)が開いた道教に基づく神道の神官である。 
 大御堂廃寺(久米寺)は仏教だけではなく道教の修行場でもあった。伯耆民談記には道場なりとある。道場の字義は釈迦が悟りを開いたところであると言われているが、道教を修行したところとも解せる。天武天皇も役行者も大来皇女も長屋親王もここで仏教・道教の修行をした。大来皇女は約1年半、この道場(大御堂廃寺)で仏教・道教の修行をした。その後、大来皇女は泊瀬の斎宮から直線距離で14kmほど離れている琴浦町にあった伊勢神宮に行った。琴浦町にあった伊勢神宮については「伊勢野の天照皇大神宮」をご覧ください。


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