CIAでは、「情報分析の父」として知られているシャーマン・ケントほど、
彼が仕えていた上司から叱責を受けた人物はいないかもしれない。
しかも、その叱責が的を射たものであったなら、ケントの苦悩も小さかったであろうが、
多くの場合、それはまるで降水確率の数字を尋ねるように、
情報分析に基づく未来予測の可能性を提示することが求められたため、
それがほとんど不可能であることを知っているケントは、
その要求に難渋せざるを得なかったのである。
たとえば、ニッツェが国務省政策企画室長だった頃、ケントを呼び出して、
ソ連がユーゴスラビアを侵攻する可能性があるかどうかについて予測させたことがあった。
ケントは「ご承知の通り、私にはそのようなことはできません」と答え、
何%の確率で侵攻するといった具合に回答することを拒んだのである。
そうしたケントの態度に、ニッツェは、次のように難詰した。
「分かっていると思うが、我々は決断をしなければならない。
私はその可能性が約20%で起きると考えている。
もし私が正しければ、アチソン国務長官への勧告は、イタリアへの軍事提供はしないということになるだろう。
それは非常に費用がかかるためであり、
20%の確率であれば、そうすべきでないと考えているからである。
あなたは(その確率が)高いか低いか私に教えてほしい。
もし何も教えてくれないのなら、あなたに私以上に良い考えがないものと考える。
すなわち、それは約20%で問題がないということだ」
Oral History Interview with Paul H. Nitze by Richard D. Mckinzie
Northeast Harbor, Maine, August 4, 1975,
Harry S. Truman Library, pp. 229-231.
有無を言わさぬニッツェの口調に、ケントは恐れをなして退出したらしいが、
ケントの中では、未来予測において、CIAは具体的な可能性のパーセンテージを示すべきかどうかが、
その後、一つの悩みとして浮上したのであった。
ニッツェの言い分も分からなくもないのは、
彼らの立場では、主要な政権幹部、特に政策決定に直接関与する人々を説得するためには、
漠然とした根拠よりも、具体的で分かりやすい根拠で迫った方が高い効果を与えられる。
数字を提示するのは、限られた時間で多くの意思決定を行なわなければならない政権幹部にとって、
非常に有用な説得手法だと考えられており、そのためにケントに何%か執拗に問い質したのである。
一方、ケントとしては、数字を示すことは意味がないと考えていた。
状況は常に変化し、様々な文脈の中で展開していくものである。
ある時点での確率が、別の時点でも同じ確率で推移するかどうかは誰にも分からない。
従って、そうした数字よりも、政治的文脈に照らして、起こり得る可能性を示唆することによって、
政策決定の判断材料にしてもらうのが最善の未来予測にほかならなかった。
ケントは元来、イェール大学で歴史学を修めた学者であった。
出来事の背景には無数の要因が複雑に絡まり合っていることをよく知っていた。
だから、ニッツェのように、経済学や経営学の発想で、その出来事を分析することはできなかったし、
それが正しいとも思われなかったのである。
とはいえ、未来予測の手法として、どちらのアプローチが正しいのかは如何ともしがたい。
結局、いずれも結果論的にしか判断することができない部分も多いからである。
ただし、少なくとも経済学的発想が強く表れたケネディ・ジョンソン政権において、
それが裏目に出たことは間違いなく、その端的な例がベトナム戦争であったと言えるだろう。
また、ケナンやキッシンジャーといった歴史に通じた人物が政権に入り、
外交政策で大きな力を発揮する時は、得てしてCIAと親密な関係を築き上げていた。
このことは、CIAがケントの伝統を受け継ぎ、歴史重視の姿勢を崩さなかったことの現れであろう。
もちろん、CIAでさえも、重要な局面で予測失敗を犯したことが何度もあるので、
歴史重視の姿勢が絶対的に正しいとは言えない。
だが、問題をCIAに限った時、CIAに期待されている役割は、政策決定の選択肢を提示することであって、
望ましい政策を勧告することではないのである。
確率を示すことは、結果的にCIAが望ましい政策を勧告することにほかならない。
ケントは、それを避けようとしたのではないか。
また、穿ってみれば、対外政策の失敗をCIAに帰せられることを回避する狙いもあったかもしれない。
いずれにせよ、ケントの主張は、CIAの本来的な役割から離れないものであり、
そこにケント自身が情報分析で重視した客観性を担保する意図が込められていたのであろう。
彼が仕えていた上司から叱責を受けた人物はいないかもしれない。
しかも、その叱責が的を射たものであったなら、ケントの苦悩も小さかったであろうが、
多くの場合、それはまるで降水確率の数字を尋ねるように、
情報分析に基づく未来予測の可能性を提示することが求められたため、
それがほとんど不可能であることを知っているケントは、
その要求に難渋せざるを得なかったのである。
たとえば、ニッツェが国務省政策企画室長だった頃、ケントを呼び出して、
ソ連がユーゴスラビアを侵攻する可能性があるかどうかについて予測させたことがあった。
ケントは「ご承知の通り、私にはそのようなことはできません」と答え、
何%の確率で侵攻するといった具合に回答することを拒んだのである。
そうしたケントの態度に、ニッツェは、次のように難詰した。
「分かっていると思うが、我々は決断をしなければならない。
私はその可能性が約20%で起きると考えている。
もし私が正しければ、アチソン国務長官への勧告は、イタリアへの軍事提供はしないということになるだろう。
それは非常に費用がかかるためであり、
20%の確率であれば、そうすべきでないと考えているからである。
あなたは(その確率が)高いか低いか私に教えてほしい。
もし何も教えてくれないのなら、あなたに私以上に良い考えがないものと考える。
すなわち、それは約20%で問題がないということだ」
Oral History Interview with Paul H. Nitze by Richard D. Mckinzie
Northeast Harbor, Maine, August 4, 1975,
Harry S. Truman Library, pp. 229-231.
有無を言わさぬニッツェの口調に、ケントは恐れをなして退出したらしいが、
ケントの中では、未来予測において、CIAは具体的な可能性のパーセンテージを示すべきかどうかが、
その後、一つの悩みとして浮上したのであった。
ニッツェの言い分も分からなくもないのは、
彼らの立場では、主要な政権幹部、特に政策決定に直接関与する人々を説得するためには、
漠然とした根拠よりも、具体的で分かりやすい根拠で迫った方が高い効果を与えられる。
数字を提示するのは、限られた時間で多くの意思決定を行なわなければならない政権幹部にとって、
非常に有用な説得手法だと考えられており、そのためにケントに何%か執拗に問い質したのである。
一方、ケントとしては、数字を示すことは意味がないと考えていた。
状況は常に変化し、様々な文脈の中で展開していくものである。
ある時点での確率が、別の時点でも同じ確率で推移するかどうかは誰にも分からない。
従って、そうした数字よりも、政治的文脈に照らして、起こり得る可能性を示唆することによって、
政策決定の判断材料にしてもらうのが最善の未来予測にほかならなかった。
ケントは元来、イェール大学で歴史学を修めた学者であった。
出来事の背景には無数の要因が複雑に絡まり合っていることをよく知っていた。
だから、ニッツェのように、経済学や経営学の発想で、その出来事を分析することはできなかったし、
それが正しいとも思われなかったのである。
とはいえ、未来予測の手法として、どちらのアプローチが正しいのかは如何ともしがたい。
結局、いずれも結果論的にしか判断することができない部分も多いからである。
ただし、少なくとも経済学的発想が強く表れたケネディ・ジョンソン政権において、
それが裏目に出たことは間違いなく、その端的な例がベトナム戦争であったと言えるだろう。
また、ケナンやキッシンジャーといった歴史に通じた人物が政権に入り、
外交政策で大きな力を発揮する時は、得てしてCIAと親密な関係を築き上げていた。
このことは、CIAがケントの伝統を受け継ぎ、歴史重視の姿勢を崩さなかったことの現れであろう。
もちろん、CIAでさえも、重要な局面で予測失敗を犯したことが何度もあるので、
歴史重視の姿勢が絶対的に正しいとは言えない。
だが、問題をCIAに限った時、CIAに期待されている役割は、政策決定の選択肢を提示することであって、
望ましい政策を勧告することではないのである。
確率を示すことは、結果的にCIAが望ましい政策を勧告することにほかならない。
ケントは、それを避けようとしたのではないか。
また、穿ってみれば、対外政策の失敗をCIAに帰せられることを回避する狙いもあったかもしれない。
いずれにせよ、ケントの主張は、CIAの本来的な役割から離れないものであり、
そこにケント自身が情報分析で重視した客観性を担保する意図が込められていたのであろう。