1980年代初頭、ちょうど世界的に後天性免疫不全症候群(エイズ)が流行し始めた時、
まことしやかに囁かれた噂として、「エイズウィルスは米国の科学者が作った」という話があった。
今となっては荒唐無稽な話で、誰もそれを鵜呑みにする人はいないであろうが、
一時期、あたかも都市伝説のように広がり、訳知り顔で「真相」を語る人が結構いたように思われる。
先日、CIAのホームページ上において、
機密解除を受けた情報研究誌『Studies in Intelligence』がアップデートされていたのだが、
その中に掲載されている論文で、この事例を取り上げたものがあったので紹介しておきたい。
元来、この噂は、KGBによって流布された一種の欺瞞工作にほかならなかった。
ちょうど1980年代初頭、ソ連のアフガン侵攻によって、米ソデタントが終結する一方、
レーガン大統領の登場で、米国の対ソ政策が強硬姿勢に転じ始めると、
ソ連側は次第に米国が本気で核戦争を望んでいるのではないかという危惧を抱くようになった。
その際、KGBは、米国に滞在する要員に対して、
「積極工作(active measures)」を通じて、米国に対抗せよとの指示を与えたのであった。
積極工作とは、米国でいうところの「秘密工作(covert actions)」であり、
プロパガンダや政治工作などを非公然に行なう工作活動を意味している。
KGBは、長年の観察から、米国をはじめ西側諸国が生物化学兵器に大きな不安を抱いていることを知っており、
西側世論を動かす材料として以前から目を付けていた。
折良く、1980年代初め、エイズが登場した際、
疫学的調査が不十分だったことから、様々な憶測や噂が飛び交い、原因不明の病気として話題に上っていたため、
KGBは、これを利用しようと考えたのである。
キャンペーン自体は、1983年7月17日、インドの新聞において、
「エイズがインドを侵略している:奇妙な病気は米国の実験によって生まれた」という匿名の投稿記事から始まった。
この記事を米国のメディアが取り上げ、噂は急速に広がっていったのである。
なぜインドが標的となったかと言えば、
インドは、ソ連の政府高官に対して、ほとんど何の行動制約も課していない国だったからであり、
当時150人以上のKGB・GRU要員が、せっせと投稿記事を作っていたという。
ただし、そうした記事は、ソ連支援の左派系メディア『Patriot』紙に掲載されることが多かったが、
発行部数が少なかったため、あまり注目を集めることはなかった。
だが、1985年頃になると、エイズへの関心が一般にも広がったことに加えて、
ジュネーブ協定の破棄やエイズ撲滅に消極的な姿勢を示すソ連の行動に、非難の声が上がるようになってきた。
そこで、KGBは、エイズが元来、米国発祥のものであり、
1950~60年代に米国が行なった生物兵器の極秘実験によって作り出されたとする大規模な宣伝工作を行なった。
このキャンペーンは、アジア・アフリカ諸国の他に、米軍基地を抱える国などが主な標的として狙われ、
特にアフリカでは大きな反響を呼んだのだが、気がついてみると、いつの間にやら終息しており、
噂だけが残滓のように漂った状況となってしまった。
実をいうと、キャンペーンの間、KGBが背後で画策していることは間違いないのだが、
ソ連が表立って、そのキャンペーンの音頭を取ったことは一度もない。
従って、いつ終わったのかは誰にも分からないし、それが宣言されることもなかったのである。
ただし、その影響は現在においても強く残っており、
アフリカ諸国では、今もまだメディアで「エイズ=生物兵器説」が根強く報じられているし、
米国でも、一般人の15%が信用しているという数字もある。
また、いわゆる「陰謀論」の世界でも、よく取り上げられる話題であり、
その点で、KGBの積極工作は終わっていないとも言えるのかもしれない。
Thomas Boghardt
"Soviet Bloc Intelligence and Its AIDS Disinformation Campaign"
Studies in Intelligence, Vol. 53, No. 4 (December 2009), pp. 1-24.
著者のトーマス・ボガート氏は、論文の結論部分において、
「研究が示すところによると、
最初に物事や出来事を主張した人は、あとでそれを否定する人よりも大きな優位を持っている」
とする見解を紹介しているが、確かにそれは間違っていないように思われる。
根拠のない噂や誤解をかけられた方は、それを「真実」や「真理」で晴らすしかないが、
「火のない所に煙は立たぬ」として、疑惑は尽きることを知らない。
言葉を尽くして反論すればするほど、泥沼にはまるとも考えられるので、
結局、腹立たしいけれども、行動によって信頼を獲得していくしか術がないのである。
まことしやかに囁かれた噂として、「エイズウィルスは米国の科学者が作った」という話があった。
今となっては荒唐無稽な話で、誰もそれを鵜呑みにする人はいないであろうが、
一時期、あたかも都市伝説のように広がり、訳知り顔で「真相」を語る人が結構いたように思われる。
先日、CIAのホームページ上において、
機密解除を受けた情報研究誌『Studies in Intelligence』がアップデートされていたのだが、
その中に掲載されている論文で、この事例を取り上げたものがあったので紹介しておきたい。
元来、この噂は、KGBによって流布された一種の欺瞞工作にほかならなかった。
ちょうど1980年代初頭、ソ連のアフガン侵攻によって、米ソデタントが終結する一方、
レーガン大統領の登場で、米国の対ソ政策が強硬姿勢に転じ始めると、
ソ連側は次第に米国が本気で核戦争を望んでいるのではないかという危惧を抱くようになった。
その際、KGBは、米国に滞在する要員に対して、
「積極工作(active measures)」を通じて、米国に対抗せよとの指示を与えたのであった。
積極工作とは、米国でいうところの「秘密工作(covert actions)」であり、
プロパガンダや政治工作などを非公然に行なう工作活動を意味している。
KGBは、長年の観察から、米国をはじめ西側諸国が生物化学兵器に大きな不安を抱いていることを知っており、
西側世論を動かす材料として以前から目を付けていた。
折良く、1980年代初め、エイズが登場した際、
疫学的調査が不十分だったことから、様々な憶測や噂が飛び交い、原因不明の病気として話題に上っていたため、
KGBは、これを利用しようと考えたのである。
キャンペーン自体は、1983年7月17日、インドの新聞において、
「エイズがインドを侵略している:奇妙な病気は米国の実験によって生まれた」という匿名の投稿記事から始まった。
この記事を米国のメディアが取り上げ、噂は急速に広がっていったのである。
なぜインドが標的となったかと言えば、
インドは、ソ連の政府高官に対して、ほとんど何の行動制約も課していない国だったからであり、
当時150人以上のKGB・GRU要員が、せっせと投稿記事を作っていたという。
ただし、そうした記事は、ソ連支援の左派系メディア『Patriot』紙に掲載されることが多かったが、
発行部数が少なかったため、あまり注目を集めることはなかった。
だが、1985年頃になると、エイズへの関心が一般にも広がったことに加えて、
ジュネーブ協定の破棄やエイズ撲滅に消極的な姿勢を示すソ連の行動に、非難の声が上がるようになってきた。
そこで、KGBは、エイズが元来、米国発祥のものであり、
1950~60年代に米国が行なった生物兵器の極秘実験によって作り出されたとする大規模な宣伝工作を行なった。
このキャンペーンは、アジア・アフリカ諸国の他に、米軍基地を抱える国などが主な標的として狙われ、
特にアフリカでは大きな反響を呼んだのだが、気がついてみると、いつの間にやら終息しており、
噂だけが残滓のように漂った状況となってしまった。
実をいうと、キャンペーンの間、KGBが背後で画策していることは間違いないのだが、
ソ連が表立って、そのキャンペーンの音頭を取ったことは一度もない。
従って、いつ終わったのかは誰にも分からないし、それが宣言されることもなかったのである。
ただし、その影響は現在においても強く残っており、
アフリカ諸国では、今もまだメディアで「エイズ=生物兵器説」が根強く報じられているし、
米国でも、一般人の15%が信用しているという数字もある。
また、いわゆる「陰謀論」の世界でも、よく取り上げられる話題であり、
その点で、KGBの積極工作は終わっていないとも言えるのかもしれない。
Thomas Boghardt
"Soviet Bloc Intelligence and Its AIDS Disinformation Campaign"
Studies in Intelligence, Vol. 53, No. 4 (December 2009), pp. 1-24.
著者のトーマス・ボガート氏は、論文の結論部分において、
「研究が示すところによると、
最初に物事や出来事を主張した人は、あとでそれを否定する人よりも大きな優位を持っている」
とする見解を紹介しているが、確かにそれは間違っていないように思われる。
根拠のない噂や誤解をかけられた方は、それを「真実」や「真理」で晴らすしかないが、
「火のない所に煙は立たぬ」として、疑惑は尽きることを知らない。
言葉を尽くして反論すればするほど、泥沼にはまるとも考えられるので、
結局、腹立たしいけれども、行動によって信頼を獲得していくしか術がないのである。