上達したい方のための水墨画教室

水墨画の奥深い魅力と沈和年先生による本格的水墨画指導の様子や教室会員さん達の学習の成果を紹介していきます

「水墨画百味人生」日本語訳 3

2016-01-16 | 先生の略歴



(本人語り)
制作した本は、私にとって実はとても興味のあるものでした。

というのは、日本での生活で目にする 日用品や食べ物を描いた本だからです。

どちらかと言えば、私はこの本によって 強く触発されたのです。

つまり、中国の伝統的な水墨画の手法を用いてそれまでなら描こうと思ったことのない 品物を描いたからです。

例えば、自転車 掃除機、ハイヒールの革靴を描いたのです。




(男性ナレーター)

こうした肩の凝らない、ユニークな本がひとたび出版されると すぐに人気となり 二玄社はその後数年の間に沈和年と多くの新刊図書を出版する契約をしたのです。

さらに彼にとって予想外だったのは 本来初心者のために企画されたこれらの本が意外にも、プロの画家達の注目をも集めことでした。
かつて彼が参加を拒んだ公募展からも 展覧会の審査員として招かれたのです。

こうして彼は次第に日本の画壇に受け入れられ、それと同時に 沈和年は日本の水墨画とその独特な美意識が好きになったのです。



(本人語り)
日本の水墨画は、とても柔和で穏やかです。
つまり、作品がとても静かなのです。

絵を描くことの楽しみは たとえ一つでも、先人が見つけなかったものを 見つけ出すことができる点にあると思うのです。




(男性ナレーター)

沈和年は、これまでの人生の大半で水墨画を描いてきました。
しかし、単純に見える墨の色の中に 彼は日々 尽きることのない創作の可能性を見出し水墨画の世界における探索を楽しんでいるのです。



おわり

「水墨画百味人生」日本語訳 2

2016-01-15 | 先生の略歴




(男性ナレーター)

1987年 沈和年は日本に向けて旅立ちます。
約30年間 彼は、伝統的な中国画の技法と日本の水墨画の画風とを
融合させて独自のスタイルを確立してきました。


2015年10月沈和年は、近年描きためた作品を携さえ 北京市の中国美術館にやってきました。
『東方から来た夢』と名付けたこの展覧会では彼とその他9名の日本在住の中国人画家が 中国と日本の水墨画で探し求めているものを共同で展示したのです。




(本人語り)
この作品は、「恍惚」シリーズと言って少し抽象的で 霞んで靄がかかっているような 小さな山の峰が出現したような あるいは、雲と霧の一瞬の姿に見えるかもしれません。
一番典型的なものが、この一枚です。
墨の濃淡で描いた面に過ぎませんがこの墨で描いた面が 太陽の光をあびて空気の中で、揺らめいているように見えます。
空気の中にいる感覚や自然が呼吸する、あの感覚を表現しているのです。
揺らめいているような、あの感覚です。




(男性ナレーター)

誰も想像できないでしょうが 今では日中両国で異なる水墨画の特徴の間を自在に行き来する沈和年も かつては、日本の水墨画を見るに値しないものと見なし まして、自分の作品に取り入れるなど考えたこともありませんでした。




(本人語り)
総じていえば、日本の水墨画は柔らかいタッチではあるものの 中国の水墨画で言う「骨法」がありません 。
そうした力強いものがないので 日本の水墨画が弱々しく見えたのです。
日本の水墨画を見て、すぐに駄目だと思いました。
気に入らなかった。私には気に入らなかったのです。当時は。
それで私は、日本の水墨画を高く評価しませんでした。




(男性ナレーター)

何が沈和年の 日本の水墨画に対する見方を変えたのでしょうか。

それは、彼が日本に来て間もなく味わった 挫折からお話しなくてはなりません。

1987年 沈和年は、日本での巡回展示即売会に参加しないか、という誘いを受けました。

その後3年間 彼は自分の作品を携えて日本各地を巡り多くの芸術愛好家と知り合いました。

当時、沈和年はこれを機会に日本の画壇に仲間入りできるかもしれない、と考えていました。

しかし日本では 新人画家が画壇から認められるためには 多くの場合、各地で開催される公募展に参加しなければなりません。

展覧会で入賞することが 画壇に仲間入りする第一歩なのです。

ですから沈和年にとって
展覧会への参加は、彼が必ず歩まなければならない道でした。




(本人語り)
この道を歩むこともできましたが私は少し自惚れていて 彼らのレベルは高くない、と思っていました。

私は全国で水墨画展を開いた3年間に多くの都市を巡り 多くの画家とも面識を得ましたが、


(眼鏡に適わなかった?・・・女性インタビュアー)


眼鏡には適いませんでした。それで、どれにも参加しなかったのです。





(男性ナレーター)

沈和年は伝統的な中国画の訓練を受けたため 「骨(中国水墨画の「骨法」)のない」日本の水墨画は 彼の眼鏡には適わなかったのです。
自惚れがあった彼は、公募展に参加しようとしませんでした。 日本の画壇に仲間入りする道は、出口のない袋小路になったのです。



(本人語り)
誰も私を訪ねて来ませんでした。
訪ねてなんか来るものですか。おまえ何様だと思っているんだ、ですよ。
木の切り株に兎がぶつかって転げる幸運を待つだけでは 成功など覚束ないのです。




(男性ナレーター)

1994年、沈和年はもう38才でした。
中年になり妻も子供もいるのに
自分が追い求める水墨画の理想は
はっきりしない、苦しい立場に 置かれていました。




(本人語り)
ここで ただこうしたアマチュア美術愛好家とつき合って居るだけでいいのだろうか と思いました。
もちろん彼らは私に好意的で 尊敬してくれてもいました。

でも、そうやって気楽に作品を制作して ただ日々を過ごすのは あまり意味がない
やはり私は中国に帰ろう、と思いました。



(男性ナレーター)

この年 沈和年は上海に戻りましたが しかし彼は諦めませんでした。


1997年 再び日本に戻った彼は、自惚れを捨ててもう一度、
日本の画壇に仲間入りする機会を探すことにしたのです。

そして日本の美術雑誌に寄稿を始めました。

この時、思いがけずチャンスが訪れたのです。




(本人語り)
雑誌への寄稿がひと区切りついた時 二玄社から私に手紙が届きました。
二玄社に 来てくれないかというのです。
一緒に仕事ができないか話し合いをしたい、という内容でした。



(男性ナレーター)

二玄社は日本の有名出版社です。
多くの優れた東アジア美術関係の図書を出版しており中国や日本の美術界で 高く評価されています。

沈和年はいささかも迷うことなく二玄社からの招きに応じて中国画の描き方を教える本の制作を開始しました。




次回へつづく


「水墨画の百味人生ー沈和年」日本語訳文

2016-01-15 | 先生の略歴
前回お知らせしました沈和年先生特集テレビ番組の日本語訳文を3回に分けてUPしていきたいと思います。

水墨画を学ぶ上でとても重要な内容が多数語られています。




(女性アナ 番組導入部分)

続いて『華人世界』(番組名)をお送りします。

水墨画という絵画形式は 中国にも日本にもありますが、
両国の水墨画の様式には明らかな違いがあります。

今日の『華人世界』の主人公は、沈和年さん。

沈さんは、中日で異なる水墨画の様式を 自由に往き来する画家の一人です。

それでは、番組をお楽しみください


(男性ナレーター)

沈和年は 日本在住の中国人画家。
水墨画のエキスパートで近年、日本の画壇で活躍しています。

今から10年前 彼は、画法の異なる中国と日本の水墨画を融合する試みに着手しました。

沈さんの作品の多くに 日本の水墨画の特徴が色濃く見られます。

柔らかで、霞みがかかったような画面の中に趣を添えているのは伝統的な中国画の くっきり、しっかりと描かれた線です。



(本人語り)

水墨画には
画家のわずかなためらいや こまごまとしたもの全てが、痕跡として残されるのでさらに言えば 水墨画は上から描き直すことはできません。
それは一瞬の感情を描いたものであり そうしたすべてを記録できるものなのです。
水墨画は、画家の心の中の感情を表現しているのだと思います。



(男性ナレーター)

1970年代から80年代にかけて 上海で学んんだ沈和年は著名な水墨画家の唐雲に師事し唐雲の紹介によって 幸運にも中国画の大家である劉海粟、林風眠などとの出会いを得ました。
これらの大家の手ほどきによって 彼は伝統的な中国画の虜となり 中でも「写意」の技法で描く(*)、花鳥画を得意とするようになったのです。

(本人語り)

中国の水墨画が強調するのは、雄々しさです。
「骨法用筆」と言って(**)、とても強い筆使いが求められます。

* 「写意」:外形を写すことを主とせず、画家の精神又は対象の本質を表現すること

中国画はとりわけ、伝統的な中国画は「線」を 造形の最も大切な手段とします。 しかし、日本の水墨画は逆に控えめで、柔軟なタッチで描かれ 「線」を強調することはないのです。日本の水墨画は、線を絵の中に溶け込ませてしまい「墨」を主とするのですが、中国の水墨画は「筆」を主とするのです。







唐 雲

別号は侠塵・大石・葯城・葯翁・老葯・大石翁、画室を大石齋・山雷軒と称した。浙江省杭州の人。作には花鳥・人物画が多い。長年古代絵画や絵画史などを学んで、花鳥画の優れた伝統を究め、更に独自の画風を樹立した。当代名家の一人である。
 解放前は長年美術教育に従事し、解放後は上海市美術家協会副秘書長・展覧部部長・上海美術専科学校国画系主任・上海博物館鑒定委員・上海中国画院副院長等の職を歴任し、1960年第三次全国文代会に、1979年第四次全国文代会に出席した。
 一方、書にも長じ草・篆・行書を得意とした。詩文も工で、鑑定にも詳しかった。
 中国美術家協会理事・中国美術家協会上海分会名誉理事・西泠印社理事、上海市文物保管委員会委員・上海中国画院名誉院長。



唐雲 画


唐雲 画



*次回につづく