「小瀬一揆」をご存知だろうか。
明治時代当初、地租改正事業に反対する那珂郡小瀬地方の農民たちが明治9年(1876年)に起こした農民一揆をいう。
地租改正とは
封建制社会から近代的国家社会への変革のため明治新政府が行った三大改革の一つ。
三大改革とは「学制」「徴兵制」「地租改正」
那珂郡小瀬地方とは、現在の常陸大宮市小舟、大岩、上小瀬、下小瀬などを指し、旧大宮町の照田、長田や旧御前山村の野口なども含まれていた。
小瀬一揆
明治9年ごろ、当地方は大洪水や大暴風、冷害などから米価が下落、農民は燦燦たる窮状だった。
そこに追い打ちをかける地租税率3.0%
小舟村の本橋次郎左衛門、上小瀬村の大町甚左衛門、長田村の鈴木教善が農民救済を掲げ立ち上がった。
当時、茨城県権令(後の県知事)だった中山信安に小瀬地方の農民達は農民救済の建白書を提出するも却下される。
その後、茨城県真壁郡においても地租改正などに反対する農民一揆がおこる。
小瀬地方では、明治9年12月6日から7日にかけ小祝地区で800人余りが集会を開催。
この時は当時の巡査(警察官)に諭され解散した。
12月8日上小瀬、小舟の農民等は高館山に集合、嘆願書を作成した。
この時も巡査2名が解散を命令したが、この時は農民たちが巡査2名を殺害する。
12月9日から10日 農民たちは「徳川御用」の檄文や「救万民」の旗を持ち、長田村淡島神社境内に集合
その数は1,500人とも1,600人とも。
12月10日朝、小野河岸から那珂川を渡り阿波山上神社(現在の城里町阿波山)境内へ
那珂川を渡るには、舟が少なく歩いたり泳いで渡ったと、境内に集まった数 2,000名とも。
上神社境内で暖をとり、石塚村(城里町石塚)薬師寺境内へ移動
そこに来た巡査2名をも殺害。
十万原に向かい、途中で警官・士族混成の鎮定隊と衝突した。
この時、県は水戸監獄に収監されていた囚人6名に農民達の首謀者暗殺の密命を出した。
なんと一揆を鎮めるため、囚人を使ったのだ。
農民の代表者たちはこの囚人に襲われ殺害された。
農民たちは首脳を失い離散した。
これより前、明治9年12月19日には三重県、愛知県、岐阜県、大阪府でも地租改正反対の一揆がおきた。
明治10年、福島県白河郡に逃げていた小林彦衛門が捕縛、岡崎新八は宮城県の山中で捕まった。
同年1月にはそれまで3%だった地租が2.5%に引き下げられた。
中山信安県令は罷免させられた。(囚人を使ったことなどが影響?)
明治11年8月12日 水戸裁判所で争いで命を落とさなかった首謀者たちに処罰が言い渡された。
本橋次郎左衛門(39歳)に斬首、岡崎新八(35歳)、小林彦衛門(33歳)に絞罪。
その他懲役24名、罰金1,064名となった。
本橋次郎左衛門の辞世の句
「國のため民のためぞと思ひしに 身のいたづらとなるは悲しき」
またこんな言葉も
「竹やりでドンと突き出す2分5厘」
壮絶なドラマだ。