小生
この馬の実際の走りを見た記憶は無いんだが、強い馬だったのは記憶として残ってる
同世代にジャンポケ、クロフネ、マンカフェにダンツフレームと後の古馬(混合)G1を勝った馬が何頭もいた事で
その抜けた能力は推し量れるし、ジャンポケはあのテイエムオペラオーをJCで(3才にして)下しているし、マンカフェも有馬で下した事で、この世代は同時代最強だったとの評価はその通りというつわものぞろいだった
母がオークス馬、姉に桜花賞馬、兄がダービー馬→違った祖母がオークス馬、母が桜花賞馬、兄がダービー馬ですたw
昔の言い方すればエリート一家そのものですな
さつき賞圧勝後故障で引退してしまったが種牡馬になってからも(無事だったら)おそらくSS後継№1レベルだっただろうと思う
余談だがタキオンが11歳で早世した事でその兄(全兄)アグネスフライトが種牡馬として再評価されるかと期待したんだが、生産界は何故か見向きもしなかった
なんでやろ?今でも自分の中で大きな不思議として残っておりまするw
で、以下、全文お借りした
まあ、凄い馬だったと再認識しましたわ
【名馬列伝】「幻の三冠馬」とも呼ばれたアグネスタキオン。太く短い“超光速粒子”で駆け抜けた競走馬の一生
名騎手の河内洋が、弟弟子にあたる武豊が乗るエアシャカールとの壮絶な叩き合いをハナ差で制して、17回目の挑戦となった日本ダービーをアグネスフライトとのコンビで初制覇したのは2000年のことだった。
その年の暮れ、河内はアグネスフライトと同じ調教師、長浜博之(栗東)から1頭の2歳牡馬の騎乗依頼を受け、12月2日の新馬戦(阪神・芝2000m)でデビュー。中団の後ろからレースを進め、3コーナーから位置を押し上げると、上がり3ハロン33秒8という爆発的な末脚を繰り出して2着に3馬身半、時計にして0秒6もの差を付けていた。
12月の半ばごろのこと、筆者は編集担当者としてあるライターと取材で栗東トレーニングセンターを訪れた。目当ての取材は順調に1時間半ほどで終わったが、ライターと話しているうちに、せっかく栗東まで来たのだから、もう1件ぐらい取材をしてから帰ろうということになった。候補に挙げた取材先も見事に一致。12月2日に阪神競馬場の新馬戦を圧勝した長浜厩舎を訪ねることにした。
長浜調教師は話しかけるときに緊張を強いられるタイプのトレーナーである。厩舎を訪ね、「どうか機嫌よく取材を受けてくれますように」と祈るような気持ちで筆者がノックして扉を開けると、目当ての調教師は真正面のデスクに鎮座していた。そこで、新馬戦を勝ち上がった評判馬のことを訊かせてほしいと願い出たのだが、厳しい言葉を浴びせられることになる。
同調教師曰く、「まだ1勝しただけの馬や。1勝した馬を取材したいんやったら、トレセンをひと回りしてみたらええ。いくらでもおるやろ。今日は話すことはないで」と一喝されてしまった。けんもほろろ、とはこのこと。早い時期からマスコミに騒がれることを嫌ったのか、まさに取り付く島もないありさまで門前払いの憂き目に遭った。
もう説明はいらないだろう。そのとき我々が取材したかった馬こそ、ダービー馬アグネスフライトの全弟、アグネスタキオンだった。
アグネスタキオンはその1週後の12月23日、ラジオたんぱ杯3歳ステークス(GⅢ、阪神・芝2000m)に出走。新馬戦と同じようなレースぶりで直線に向かうと一気に突き抜け、2着に2馬身半差をつけて、当時のJRA2歳レコードタイムで圧勝した。その2着馬は、のちの日本ダービーやジャパンカップを制するジャングルポケット、3着馬にはNHKマイルカップやジャパンカップダートを制するクロフネというハイレベルな争いだった。
アグネスタキオン、アグネスフライトの兄弟を産み出した母系の血統は、英国から輸入されたイコマエイカンへとさかのぼる名牝系である。持込馬のイコマエイカン(父Sallymount)は競走馬としては凡庸で1勝を挙げるにとどまったが、繁殖生活に入ってから1979年のオークスを制するアグネスレディーを出産。自身は我が娘の晴れ舞台を見ることなく心臓麻痺で急死した。
しかし、イコマエイカンの血を受け継いだアグネスレディー(父リマンド)は、オークスのほかに重賞2勝を挙げ、JRA賞の最優秀3歳牝馬に選出される活躍を見せた。そして馬主の渡辺孝男の預託馬として繁殖生活に入ると、桜花賞馬アグネスフローラを送り出してその血をつなぎ、さらにアグネスフローラは日本ダービー馬のアグネスフライト、そして翌年にはアグネスタキオンと、ともに父にサンデーサイレンスを持つ兄弟を送り出すという素晴らしい成績を残すことになる。
アグネスレディーは長浜彦三郎が管理し、アグネスフローラ以降はその息子である博之が手掛けていった。また、長浜彦三郎の時代から信頼を得ていた騎手の河内は、オークスを勝って自身初の旧八大競走(※)制覇となったアグネスレディー以降、すべてでこの母仔三代にわたる「アグネス」の手綱をとっている。
※グレード制が導入される1984年以前、重賞のなかでも特に格が高いものとして、クラシック競走(皐月賞、日本ダービー、菊花賞、桜花賞、オークス)と、春秋の天皇賞、有馬記念の8つのレースを「八大競走」とした。グレード制導入以降はGⅠ競走という最上級レースの指定が成されたため、前に「旧」の文字を付記し「旧八大競走」としている。
辛口で知られる長浜が「三冠を取れる可能性がある馬だ」と公言するようになったアグネスタキオン。主役の3歳初戦は3月の弥生賞(GⅡ、中山・芝2000m)となった。ただし、初めて経験する関東への輸送があったうえ、馬場は大雨でタフさが要求される不良になったことが心配されたが、それは杞憂に過ぎなかった。
アグネスタキオンは悪条件をまったくものともせず、直線で3番手から楽々と先頭に立つと、2着のボーンキングに5馬身もの差を付けて快勝。ちなみにこのとき、のちに菊花賞と有馬記念を連勝するマンハッタンカフェもいたが、1秒以上の差を付けられた4着に終わっている。
迎えた皐月賞(GⅠ、中山・芝2000m)。アグネスタキオンは当然のごとく単勝1番人気、オッズ1.3倍という断トツの支持を得てレースに臨んだ。
ここでも彼は無双の走りを見せる。先団の5番手という好位置を進み、第3コーナーから徐々にポジションを上げて直線へ向くと、あっさりと先頭に躍り出て勝負を決める。1馬身半差の2着に追い込んできたダンツフレームも、大勢が決してから差を詰めてきたに過ぎず、ジャングルポケットも3着まで上がるのが精一杯だった。
レース後にインタビューを受けた河内は、「オッズがオッズだけに、お兄さんのとき(アグネスフライトの日本ダービー)とは違って、勝ててホッとしました」と語ると同時に、「でも、今日は本当の強さを出し切ってはいない」とも口にし、報道陣を驚かせた。
しかし、それはやがて明らかになる凶事の前兆だったのかもしれない。
日本ダービーを目指して調整を進めていたなか、5月2日に左前浅屈腱炎を発症していることが判明。いったん北海道へ放牧に出されたが、関係者の協議により現役を引退することになり、種牡馬入りが決定した。
のちに「幻の三冠馬」とも言われるほどの能力を見せてターフから去ったアグネスタキオンは、種牡馬としても大成功を収める。有馬記念などGⅠレースを4勝したダイワスカーレットをはじめ、NHKマイルカップと日本ダービーの変則2冠を達成したディープスカイというトップ・オブ・トップの産駒を送り出したほか、GⅠ勝ち馬だけでも10勝(6頭)を数えた。
また2008年には、内国産馬としては1957年のクモハタ以来51年ぶりとなるJRAのリーディングサイアーに輝き、種牡馬としても頂点を極めた。しかし、2009年の種付中に心不全で急死。多くのファンを悲しませただけではなく、まだ11歳という若さだっただけに、日本の競走馬生産にとって極めて大きな損失となった。
「タキオン」とは物理で使われる「超光速粒子」のこと。その名の通り、競走生活もまた種牡馬としても、光速ばりのスピードで駆け抜けた一生だった。
最後に余談だが、オーナーの渡辺が用いた冠号の「アグネス」は、1970年代にアイドル歌手として活躍したアグネス・チャンの名前から取られたもの。一説によると、彼女のファンだった渡辺の娘が薦めたとも伝わっている。(文中敬称略)