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先祖を探して

Vol.266 シニグ祭 (2) 御墓祭1

シニグ祭を開催する年には、重要なイベントの1つとして「御墓祭」がありました。北山時代の島主であった「世之主の墓:ウファ」にて神事を行う事です。
和泊町誌民族編には以下のことが書かれています。

三年毎のシニグの年に行う世之主がなしの御墓祭の神事あり。儀式は前日に、お墓の掃除をし、祭典の当日には代官・附役・与人・神官・一般氏子・及び陽家の家主などが参列の上、神官開扉、墓内の掃除、お骨の洗浄を行い、御衣を日に干し酒を換え奉りて又元のごとく安置し、閉扉の後神饌には卵をヒャーギ(ザル)二個に一杯山盛りしたもの等を供え祭儀を挙行せしが今は衣装もなく、陽家の列席もなさず、只お骨の洗浄、お酒の換方、村長、神官、一般の氏子参列し、祭典を挙行し、神饌にも卵を書ける。


まずスケジュールですが、前日に墓周りの掃除をし、祭典当日に納骨堂を開けて内部を掃除し、そして遺骨をお酒で洗浄したようです。
実は納骨堂の入口について、なぜ大きな木製の扉であるのか以前から疑問がありました。
琉球のお墓の納骨堂は入口が石で塞がれていて、亡くなった人がいた時のみ納骨のために入口を開けるようで、普段は開けないのだそうです。開けることはとても不吉なこととされているそうです。
同じ琉球文化の中でできたお墓であるはずなのに、扉の仕様が違うのはこの洗骨の儀式のためだったのでしょうか。となれば、風葬or土葬後に洗骨をして厨子甕にいれて改葬することで埋葬が完結していた琉球と、その後定期的に出してお酒で洗骨をしていた沖永良部島では少し文化が違っていたことになりますね。また世之主のお墓の場合は、こうして神事を執り行うことを視野に入れた作りだったのか。大変興味深いところです。
ちなみに当家のご先祖様が代々眠るチュラドゥールの方も同様に大きな木製の扉です。

参列者については、薩摩から赴任している代官や附役、島の役人であった各村の与人3名、神官は当家のご先祖様だと思われます。一般の氏子とは、世之主神社の氏子でしょうか?
これらのメンバーが参列していたところを見ると、これは明治3年以前の様子であり、薩摩統治時代の話だと思われます。そう考えると、江戸期には神社があり、神官がいて氏子もいたことになりますが、城跡には明治以前は寺があって、世之主神社が建立されたのは廃仏毀釈の政策以降の明治4年以降ですので、昔の寺の檀家という意味でしょか。それとも1700年代に建立されている別の神社で氏子を持っていたのか、そこは詳しく分かりませんでした。

しかし、琉球時代からの祭りごと、しかも琉球時代の島主のお墓での神事に薩摩の役人が参列していたというのは何とも不思議に感じます。
深い意味はなくイベントの1つとして気軽に参加していたのか?監視を兼ねていたのか?
神饌(しんせん)とは、神様が食べ物を与えてくださることに感謝する儀式において神棚にお供えするお食事のことですので、五穀豊穣の祭りの中の儀式であったため、高価な卵を奉納したのでしょう。
日干しをしていたという衣装、非常に気になります。世之主のお墓での儀式ですから、その御衣(おんぞ・みけし)は世之主の衣装だったと思われます。
このお墓でわざわざ虫干しをしていたのですから、もしかして御衣は納骨堂の中で保管されていたのかでしょうか?
知名町誌によれば、世之主の母親の実家である要家に世之主の着物が保管されているといいますから、もしかしたらその着物であった可能性もありますね。
色々と気になることばかりです。

お墓祭りの様子は次回に続きます。


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