シニグ祭が最後に行われたのは明治3年。大正10年にこの最後のシニグ祭の様子についての聞き取り調査がされたようで、その本番の様子が町誌に書かれています。
当日には与人3名(島の最高役職者)が馬でユーグマイ(夜籠)として夜中に内城の城跡に入ったようです。
当時の与人は大城の主(ふーしのしゅ)、喜美留の主、久志検の主の3名が城跡のそれぞれの場所に待機したようで、大城の主は大司だったようで、城に登る左側に夜籠りの庵を結び、喜美留の主は上門の溜池の西の方、久志検の主は北方に籠りて翌朝が来るのを待っていたそうです。
この場所はもしかしたら、昔はそれぞれの殿内があった場所なのかもしれません。そして喜美留の主がいた溜池ですが、現在はもう存在していませんが、昔は古城地の西側に溜池があったそうです。
そして各与人への朝がきたとの報告は、上城村の百が大山の頂上に夜籠りして、太陽の光が東の空に光をさして出陽とする時に、声をあげて旗を振ったのです。
「オホエ、オホエ、オホエ、オホエ、ウフエー」という合図により、城跡にいた与人達に「大司の主サーリ、喜美司の主サーリ、久志検の主サーリ、なあ時のチャンブタン」といって報告をすると、1分もたたず各与人が同時にくつわを揃えて御居城に登りて式を済ます、とあります。合図の意味は不明です。
御居城という表現がとらえ方が分からないのですが、世之主が居城していた城が当時もまだ残っていたのでしょうか?城跡には寺があったような話もありますので、既に寺として使われていた建物を城に見立てていたのか、そこは分かりません。
この日の出の合図とともに、余多の百、屋子母の百もこれに準じて式が始まったようで、大城の主一行は大勢の馬乗りの一隊を率いて、与人旗を挿したてて、大城の西方にある石根という所より大城を経て玉城、皆川、古里との合戦の場所に出張す。
喜美留の主一行は内城の屋者川の辺りより東石橋を横切りて古里に向かう。
久志検の主一行は玉城の前に待ち構えて、与人旗を挿したてて皆川のシニグ塔に会合してすぐに、皆川の集庭(すうみや)という所に集会す。この立ち合いはあたかも疑戦のようで、太鼓を鳴らしつつ、そのバチで頭や胴などを殴りあいしたようです。
この皆川の集庭に各与人が隊を率いて向かうときの途中の威勢は、あたかも戦場に向かうような様子であったようです。3人の与人を始め参加している隊員たちは全て白装束で、図のような旗を持ち「オホエ、オホエ、オホエ」と3回唱えて最後に「ウフエー」で止めるといいます。
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和泊町誌:民族編より
この皆川・玉城・古里の太鼓をたたいたバチで叩きあいをした疑似の合戦では、実際は皆川と古里は強かったが、世之主の軍勢としている玉城が勝つような法則だったようです。皆川と古里は退却して、小字森里という屋敷まで退却して戦い、そこで退散する流れ。
そして乙の西の日には全島民一人も残らず男子は白地の絹布(神絹という)または白地の綿布で作られた白装束であったといいます。
皆川で接戦の際には、玉城は白着物に全部赤の帯、皆川と古里は白装束に白の帯で見分けていたようです。
この擬合戦が、本シニグの1つの大きなイベントであったようです。
しかし、五穀豊穣の祭りのイベントとしては何だか少し趣旨が違うような気がするのですが、この擬合戦は何か意味があるのか?
玉城は世之主が最初に館を構えた場所、古里は世之主がよく釣りに出かけた浜で、古里の百の提案により内城に城を築くことを決めた場所、皆川は世之主との由来はわかりませんが、他の2つを見ると何かありうそうですね。
擬合戦は、島内での戦いに勝った世之主が島主として君臨していたということを表現しているのか?島内で世之主との争いがあったような伝承も聞いたことがないので、擬合戦が何を模しているのか意味が知りたいですね。
シニグ祭はまだ続きます。