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先祖を探して

Vol.364 当主の代数が違うのです

大変に興味深い情報が入りました。
現在の宗の本家の叔父は、記録のある初代中城から12代目の当主になるのですが、これが17代目になるはずだというのです。
昔に本家で一緒に生活をしていた一族の方が、当時10代目となる祖父から聞いたのだそうです。「自分は15代目になるから覚えておきなさい」と。

これは記録上の当主の代数が5世代多いことになるのです。いったいどういうことなのか?
記録があるご先祖様達の間に、実は5世代が抜けているのか?
いや、それはあり得ないと思われます。ではそうなれば、初代中城より上の世代が5世代あったということか???

思い出しました。お爺様の記録の中に、5世代の名前が書いてあったことを!
 
宗重→思松金→首里主思鎌戸→池城→朝秀→中城(記録上の始祖)

赤字の方が5名。この方々の確証が取れないので、ずっと保留にしていたのですが、10代目の方はこの5代のことを入れて15代目だと言われていたのではないかと思うのです。

本家にある位牌には、この5名の方々の名前はありません。保管されているのは、中城以降のものです。位牌自体が、いつの頃に書かれているのかは分かりません。他界した都度に書いたのか、後世になって書かれた物なのか。
お墓も現在立っている大和式墓石は中城からのものです。
しかし古い墓石が沢山残されているので、もしかしたらその中に手掛かりとなるものがあるのかもしれません。

そもそもお爺様が5名のお名前を記録できた情報はどこからのものなのか?
最初に書かれている宗重なる人は、琉球第一尚氏時代の泊宗重のことなのか?
確かにこの泊宗重は泊地頭職の時に、奄美群島を管轄していたようです。
琉球本島に在住だったと思いますが、仕事で沖永良部島まで来たことがあったかもしれません。

そして宗重と最初に書かれているということは、世之主の生きのびた次男であったということか?そうだとしたら、次男は1420年頃の生まれであると推測されるので、泊宗重は1514年没なので、90歳は超えていたことになるのです。
それとも、宗重は出自が不明なようですが、世之主の次男の息子であったということか?
そうであれば年齢はクリアであるが、次は泊宗重に幼名の思松金という子供がいたのか?

謎は深まるばかりです。まだまだこの5名の解明には時間がかかりそうですが、中城より上は5代いた可能性がぐっと深まった気がしました。
5名の方々について、また調べてみます。


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コメント一覧

yononushi
石井先生ご無沙汰しております。
貴重な情報を頂きまして、ありがとうございます。
当家の中城については、まだその名前の由来を見出すことは出来ておりませんが、先生からの情報で座喜味の尚泰久王かもしくは護佐丸に繋がるかもしれないポイントを発見しました。
座喜味の長浜が交易の重要な港だったということですが、永良部にも長浜という港があり、かつては交易の要所だったそうです。
長浜のことを唄った琉歌がありまして、Vol.304 永良部の島唄に ①中城様 に記事を書いています。
何か繋がるかもしれません。
いしゐのぞむ
追記です。
http://senkaku.blog.jp/2023082591263128.html
 こちらに引用させて頂きました。北西の座喜味から越來を中心として南の中城。三者の線で勝連の阿麻和利を阻止してゐたのか、分かりません、
いしゐのぞむ
こんにちは。ご無沙汰してます。中城と沖永良部の繋がりにつき、元々何も分からなかったのですが、護佐丸が座喜味から中城に移封されたのはお宅とどう繋がるでせうか。座喜味について、八重山日報令和四年六月二十一日に連載第百二十六囘として談話を載せました。リンクです。
https://drive.google.com/file/d/17fxXAfZ4nKzDAmlVtYHdC8rW0_zgfjJF/
 つまり西暦千四百四十年頃に護佐丸が座喜味から中城に移封され、それ以後の座喜味出土遺物が南海貿易を示してゐます。越來の懷機=尚泰久が座喜味を南海貿易に使ったと考へられます。中城とどう繋がるか分かりませんが、考察の一要素になるでせうか。
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