Vol.98の記事で、当家のご先祖様である平純という人が1743年に唐通事の稽古者として鹿児島に行くことになったことを書きましたが、6年後の1749年には別のご先祖様が唐通事としてのお仕事をされた記録がありました。
与論島の古文書を読む:先田光演より
与人である池悦はVol.14の記事で書いたご先祖様です。このご先祖様が上司として、横目であり唐通事の平安統が、漂着して破船した南京船を琉球に送り届けたことが記録されています。
この平安統は、年代的に見て平安統惟貞、父親が平安統惟次です。
平安統惟貞はこの時に28歳。11年後の1754年39歳の時に久志検与人に昇格しています。
池悦と平安統の二人で親族同士でのお仕事です。こういった仕事は、当時は花形の仕事だったのかもしれませんね。
この船には17人の乗組員が乗っており、和泊村の旧御蔵跡に収容し、その後は泊浦(現在の鹿児島県の坊津町泊)の船頭であった作兵衛の船で琉球に送り届けられています。作兵衛の船は、藩の割り当てによって沖永良部島の年貢米運搬のために来航していたのであろうとのこと。
ご先祖様のお仕事内容が実際に見れた与論島の貴重な古文書でした。