今回は宝剣:喜美留菜津久ミの行方、世之主の奥方の親元である中山についての紐解きです。
原文
一、其比世乃主へ奉公仕居申候島尻村居住国吉里主と申者之為勝負馬弐疋致所
持候に付、世乃主より御所望被成候二付、壱疋ハ進上可仕と申上候とこ
ろ、弐疋共にと無理に所望被為成候処、国吉里主より申上候は私事此馬乃
助を以て遠方より御城え每勤仕候儀御座候間、壱疋ハ御免し被下度段願上
候得共、御聞入無之御取揚被成候二付、国吉恨みを含み中山え逃渡、私主
人二ハ喜美留菜つくみと申候宝刀名馬等相備へ、中山大王へ謀反之企仕申
候段申上候処、中山より使者差越、永良部世之主二ハ宝刀御所持之由相聞
候間、御見せ可被給段被仰越候処、世乃主御返答二ハ私事海外之小島に罷
居り、宝刀扶助二テ島中相治罷居申事二テ候得ば、差上申儀相叶不申段被
申断候由。
然処中山之家臣共之内智有人、陰々当島へ罷渡、奥方え手を入盗取帰国為
然処中山之家臣共之内智有人、陰々当島へ罷渡、奥方え手を入盗取帰国為
仕由。
右仕合以後相知れ、殊二北山も落城宝刀も被盗取旁々付、気爵被成居候折
右仕合以後相知れ、殊二北山も落城宝刀も被盗取旁々付、気爵被成居候折
柄、中山より数艘之船渡海二付き、軍船と御心得御自害之由申伝も御座
候。右之通り私祖先より代々申伝御座候。
夫々書記差上申候。以上。
夫々書記差上申候。以上。
與人格本間切横目勤
内城村居住 平 安 統
嘉永三年戌三月
内城村居住 平 安 統
嘉永三年戌三月
現代文
一、そのころ世乃主に奉公する家臣の中に、島尻村の国吉里主と申す者がおり
ました。彼は、足の速いすぐれた馬を二頭も持っていました。それを聞い
た世乃主から「名馬を献上せよ」とのお達しが下されました。国吉里主は
世乃主に申し上げました。「私はこの二頭の馬の助けを借りてこそ、毎日
はるばる遠くから世乃主さまの御城へと通うことができます。思し召しと
あらば一頭は差し上げますが、二頭とも献上するのはご勘弁ください」。
しかし世乃主様は国吉の申し出を承知せず、二頭ともいっぺんに召し上げ
てしまいました。
この一件から国吉は、主君である世乃主に強い恨みを抱くようになり、と
この一件から国吉は、主君である世乃主に強い恨みを抱くようになり、と
うとう中山王へと寝返って次のように密告しました。「私の主人である世
乃主は、喜美留菜津久ミと申す宝刀や名馬などを家臣から取り上げては屋
敷に蓄え置き、中山大王に対して謀反の企てを謀っておるのです」。
たちまち中山王から沖永良部島に使者が遣わされ、世乃主に申し伝えまし
たちまち中山王から沖永良部島に使者が遣わされ、世乃主に申し伝えまし
た。「貴君が見事な刀を所持していると聞き及び、ぜひ見せてはもらえま
いか」。世乃主は次のように返答しました。「私はこのような海の外れの
小島を治めておりますが、この宝刀の助けがあってこそ、島の人びとをま
とめ、統治することができるのです。さにあれば、この刀を中山王に差し
上げることなどできません」。
そうしたやりとりの間、中山王の家臣に知恵者がおり、日を改めて密かに
沖永良部島へと渡り、中山王の姫君である世乃主の奥方(真照間兼之前)
に手を回し、まんまと世乃主の屋敷から宝刀を盗んで中山に帰国してしま
いました。宝刀盗難の一件は間もなく世乃主の知るところとなり、自らの
父君である北山王が中山王の勢力に滅ぼされたことも重なり、すっかり
気が鬱々として参ってしまいました。そのような折に、中山王の使者を乗
せた船が沖永良部島に遣わされたと聞くや、これを軍船と早合点して一族
ともに自害なされたのです。
当家では、右の通りの話を先祖代々伝えてきました。それらを書き留め、
ここにお納めする次第であります。
與人格本間切横目勤
内城村居住 平安統
嘉永三年戌三月
嘉永三年戌三月
ここでは島尻村の国吉里主という者が所持していた馬の話が書かれています。
二頭とも馬を取り上げるあたりは、世之主はこの時はあまり良い人ではありませんね。結果的にそれが恨みへ繋がり、中山王へ密告され宝剣が盗まれてしまうということに。欲を出し過ぎて、権力を振りかざすとどんなに凄い人であっても良い結果は生まれないってことですね。
さてここで疑問があります。
宝剣を見にやってきたという中山とは、どの中山なんでしょうか。
奥方に手をまわしたということは、奥方の親元であった可能性が高い。宝剣が盗まれもんもんとした日々を過ごしていて、最後に和睦の船を軍船だと勘違いしたという流れを見れば、この宝剣を盗んだ中山は三山を統一した第一尚氏なのではないかと思うのです。
馬を取り上げられ密告した国吉も、北山王がまだ君臨していた時代に中山王に密告しに行くのか?そこも疑問でしたが、既に北山滅亡後の中山領であったのなら、その中山王に密告に行くことは考えられます。しかも親元を滅亡に導いた中山王ですから、その敵討ちの反逆だと中山王に伝える事には違和感は無いと思います。中山王といっているあたりは、まだ南山が滅亡する前(三山統一前)だと思われます。
出来事を流れで見れば、北山が滅亡(1416年)→第一尚氏の護佐丸の北山守護、のちに尚忠による北山監守による島の統治→宝剣が盗まれる→中山の和睦船を勘違いし親子三人で自害→南山滅亡(1429年)
このようにも考えられます。
南山滅亡のタイミングと宝剣が盗まれるタイミング、和睦船がやってきた時期は入れ替わりがあるかもしれませんが、宝剣を盗んだのは第一尚氏の中山の可能性が高いですね。
そしてこの宝剣が尚泰久王が所持していたといわれる大世之主と書かれたあの千代金丸だったのではないかとさえ思うのです。
この千代金丸は、北山王の攀安知が所持していた物であったという伝承も
ありますから定かではありませんが、色々と妄想が膨らみます。
世之主の奥方であった真照間兼之前が第一尚氏の姫であったとすれば、それは年代的に見て尚巴志王の娘であった可能性が考えられます。
以前に真照間兼之前の名前の由来を考察したことがありました。真照間の照間というのが気になって、勝連(うるま市)に同名の地名があるのを見つけました。遠い昔から勝連は交易の港で、沖永良部もその交易で関わっていたようなので、そこが奥方の出身ではないかと考えたのです。しかし中山王の姫というくだりが、そこにはマッチングしていなかったのです。
しかし、この尚巴志王は伊波城(うるま市石川にあったグスク)の姫を嫁にもらっています。照間の名前の由来になりそうな要素が少しみつかりました。
尚巴志王の第一尚氏が武寧王の中山を滅亡させたのが1406年。北山滅亡は1416年ですから、その10年間に第一尚氏の中山の姫君と世之主との政略結婚も十分にあり得ますね。世之主が自害した時に次男は3歳ですから奥方はまだ子供の生める年齢であったことを考えれば、1406年からの10年間の間に適齢期として結婚していた可能性はあります。
宝剣を堂々と見せて欲しいと使いの者が島にやってくるところは、身内であったからでしょう。でも世之主は中山王には宝剣は渡さなかった。
馬を取り上げたり、謀反を企てているなど聞いて中山王が怒ってしまい、宝剣も盗んで軍船をよこしたと判断したのかもしれません。
そう考えていくと、この由緒書に書かれた世之主自害までのストーリーががすんなりと入ってくる気がします。
肝心の尚巴志王の娘ですが、佐司笠安司加那志という長女が一人いましたが、詳細は分かりませんでした。この長女が真照間兼之前なのか、それとも表に出ていない娘がいたのか。
正式な記録も無いし、年代が分かる伝承などもない。
平安統が当家の伝承として伝え聞いていたことを歴史と合わせてみていくと、このようなことが1つのストーリーとして見えてきました。
1.中山王の姫であった世之主の妻は尚巴志の娘であったかもしれない。
2.二人は1406年に尚巴志によって中山が滅ぼされた後の政略結婚であった。
3.国吉里主密告した中山王とは、第一尚氏であったかもしれない。
4.宝剣を盗んだ中山は第一尚氏かもしれない。
5.宝剣である喜美留菜津久ミは千代金丸だったのかもしれない。
これらはあくまで憶測ですが、こう考えると世之主の二男以降の子孫が代々大屋子を任命された理由、それは第一尚氏の血縁者であったからということなのかもしれません。
しっくりくる楽しい憶測です。
ここまでで平安統が書いた世之主由緒書の本文は終わりです。続いて附録がありますが、それは次回に。