沖永良部島の歴史については早い時期から研究が始まっていたようで、当家のご先祖様の1人であった平安統惟雄という人が書いた「世之主かなし由緒書:1850年著」についても、大正の頃から研究の対象になっていたようです。
大正8年に沖縄県国頭郡教育部会 が発行した「沖縄県国頭郡志:島袋源一郎著」に、現代語訳された由緒書が掲載されています。
昭和31年には、和泊町発行の「沖永良部島郷土史資料」にも、由緒書についてのページがあります。
その記述のページの中に、ちょっと問題となる言葉を発見しました。
P193 黄色いマーカの箇所です。

ここには、平安統が書いた「世之主かなし由緒書」が、牽強附会であると書かれています。
牽強附会:自分の都合のよいように無理に理屈をこじつけること。
何をもって、そのようなことが書かれているのか?
その後に書かれている記述は(一説には、、、のところ)、薩摩藩が侵攻してきた際の、徳之島の出来事が書かれています。徳之島では沖永良部とは違って、侵攻時に若い兄弟が前面に立って戦いをしているんですね。その若い兄弟の父親が世之主で、ちょうど沖永良部に帰島していて、永良部に侵攻してきた時に、自害した説があるとのこと。この世之主とは、恐らく首里の主:思鎌戸のことだと思われます。
その後に続けて、私が前回のVol.126で書いた与人西平の調書が掲載されています。
牽強附会:自分の都合のよいように無理に理屈をこじつけること。
何をもって、そのようなことが書かれているのか?
その後に書かれている記述は(一説には、、、のところ)、薩摩藩が侵攻してきた際の、徳之島の出来事が書かれています。徳之島では沖永良部とは違って、侵攻時に若い兄弟が前面に立って戦いをしているんですね。その若い兄弟の父親が世之主で、ちょうど沖永良部に帰島していて、永良部に侵攻してきた時に、自害した説があるとのこと。この世之主とは、恐らく首里の主:思鎌戸のことだと思われます。
その後に続けて、私が前回のVol.126で書いた与人西平の調書が掲載されています。
私が理解できないだけなのか、この牽強附会と言い放たれてる根拠がいまいち見えにくいのですが、おそらくですが、平安統は世之主が自害したあとに、子供が徳之島に逃げていたのが帰島して、代々大屋子をしていると書いてるが、西平の調書にはそれが書かれてないので、それは平安統が作った話だという事なのでしょう。
しかしですね、ではなぜ西平の書いた調書の方が正しいと言い切れるのか?
しかしですね、ではなぜ西平の書いた調書の方が正しいと言い切れるのか?
書かれた時代が古いからなのか?
私は西平が書いた調書の世之主というのは、北山王の次男であった世之主ではない可能性があるということは、前回の記事でも書きました。平安統が書いた世之主は、北山王の次男のことであって、西平が書いた世之主ではないと思います。仮に同じ世之主のことだったとしても、この書き方にはちょっと疑問が残ります。
もっと言えば、個人出版の本ならまだしも、町史として発行された本に、堂々とこのような記載があるなんていうのは、大変な驚きですね。
かなり大胆な記述だと思います。しかし、その後に発行された町史には、そのような記述は今のところ見当たらないので、再編の際に不採用になったのでしょう。
私は西平が書いた調書の世之主というのは、北山王の次男であった世之主ではない可能性があるということは、前回の記事でも書きました。平安統が書いた世之主は、北山王の次男のことであって、西平が書いた世之主ではないと思います。仮に同じ世之主のことだったとしても、この書き方にはちょっと疑問が残ります。
もっと言えば、個人出版の本ならまだしも、町史として発行された本に、堂々とこのような記載があるなんていうのは、大変な驚きですね。
かなり大胆な記述だと思います。しかし、その後に発行された町史には、そのような記述は今のところ見当たらないので、再編の際に不採用になったのでしょう。
昭和の初めの頃の話で、まだ研究が十分ではなかった時期だと思いますので、
その点は考慮して見ておりますが、なぜ牽強附会だと書いたのか、そこのところをもう少し具体的に書き添えて欲しかったですね。文面には書いていない何か他の理由があったのか?その理由が知りたいです。
謎が謎を生み、その謎が新たな発見を導いてくれる先祖探しの旅です。
牽強附会だと書かれていた「世之主かなし由緒書」を、新たな視点で深堀していこうと思います。
また1つ課題をもらいました。