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先祖を探して

Vol.135 伝承と史実の挟間(1)茶上兼伝説


沖永良部島の伝説の1つに、「茶上兼伝説:ちゃじょうがねでんせつ」というものがあります。この伝説は、島を研究されてる方の様々な本にも掲載されていることが多く、私も以前に読んだことがありました。当時の印象としては、琉球時代と薩摩時代がミックスしたような背景で、展開においても話に真実味が無く、これは単なる作り話だなと思ったのが正直な印象でした。
この茶上兼伝説ですが、最近お爺様の記録に久しぶりに目を通していたら、この伝説について考察している箇所を発見しました。
まずは先にこの伝説を紹介します。


茶上兼の伝説

奄美・鹿児島県大島郡沖永良部島
世之主の御子に茶上兼という若様が御出ででありました。漆の様な御髪を太々と豊かに御貯はへさせられ花の顔、月のまゆみ中々上品な御育ちで御兄弟の何の方々よりも気品が優れて御出ででしました。大和の王様が大親役言付けのために茶上兼をお召しになりました。茶上兼は荒里金鋭主並に久志険友二地を従へて上国の途中大島に汐掛りをなし、出帆して幾日目かに七島灘に差しかかりました。水は盥の様に七島灘の面かげもなく静まって中々無難でしたが困った事には風が凪いで一歩も進んで呉れない。此の時金鋭主と友二地の二人は茶上兼を殺して自分たちが茶上兼の役位を授かろうと謀んだ。そして二人の謀で風待願の宴会を催うして船人にも大いに酒を供し茶上兼を全く酔はせて前後不覚になし置き甲板に連れて海に押し落して了った。茶上兼始めて彼等の隠謀をさとり全力を挙げて舷に挙ぢ上らんとするのを友二地等が水竿(ミゾ)を以て滅多打ちに打ちかかる茶上兼は、
「水飲だんて死にゆんにや汐飲だんて死にゆんにや」
と攀じ上らんとするのをあわれ髪の結び解けて手足をまとい、誇りの黒髪も今は却って禍の種とうとう海の藻屑と成り果てました。二人の者ども漸くの事にて心落ちつき、
 「あなたは茶上兼と名乗れ、私は金鋭と名乗ろう」と友二地の意見に従って着鹿後の準備が調ひました。風も順を追ひ鹿児島に着いて見ると驚いた。船より先に茶上兼の死骸は前ノ浜に打ち上げられて前から諸役達はその死骸の高貴な人である事を察して騒動中であった。金鋭並に友二地暫しが程は我意を張って居たが悪謀遂に包み切れず。罪の軽重を問ひ友二地は、ハダ門に挙げられ金鋭は放免といふ事になりました。友二地の子孫は其のために大和旅が出来ぬ事になり遂にそのたたりで子孫絶滅といふ事になった。
『沖永良部島郷土史資料』


世之主の子供である茶上兼が、大和の王様から大親子に任命され、大和に上国する際に、同伴したお付きの二人に命を狙われ海に突き落とされて死亡してしまった話が語られています。

まず初めに私が完全なる作り話だと思ったのは以下の理由からでした。
①世之主=北山王の次男であったわけだから、その子供が大和の王から大親子への任命はありえない。時代的にも合わない。
②大親子は琉球時代の役職であるから、大和や薩摩から任命されるわけではない。

しかしですね、上記の理由は今となってはこの伝説が史実に近いかもしれない要素として考えられるのです。

①世之主=島を統治する人のことを、薩摩時代になってもずっとそう呼んでいた可能性がある。このことは他のに記事でも書きました。薩摩時代では世之主は与人に該当しますから、与人の息子ということです。大和の王とは薩摩藩の島津氏のことでしょう。大親子への任命とは、これも与人への任命だということでしょう。琉球の役職名のままで呼んでいるのは、薩摩侵攻からあまり時が経っていなかった可能性があります。

②与人へ任命されると、鹿児島に上国が義務付けられていましたので、それで上国したのだと思われます。世之主の息子が、、、というのは、薩摩統治初期は、与人などの島役人は世襲制であったようなので、父親が与人をしており、息子もまた引き継いで与人という感じだったと思われます。

このように考えるならば、この伝承も真実味が増してきます。お爺様はこの話を伝説ではなく、口碑伝承と書いております。きっと代々語り継がれてきていたのでしょう。
そして、この伝承の中にある海に突き落とされて亡くなったは、遭難と捕えることができ、当家が11月26日にウファで先祖供養をしていた上国で遭難した人の供養は、まさかこの茶上兼だったのでは?と思えて仕方ないのです。
Vol.131~134で書きましたが、ウファに安置されている遺骨には火葬したものが含まれていました。もしかしたら、この茶上兼は鹿児島に流れ着いて遺体はあったのですから、鹿児島で火葬して遺骨を持ち帰り、ウファに埋葬した可能性があります。

七島灘というところは非常に危険な海域で海の難所として知られ、沢山の船が遭難にあっていた場所です。その恐ろしい場所で遭難してしまったのを、大げさに表現してお付きの者に突き落とされて、、、となったのかもしれないし、実際にそうだったのかもしれないし。真相は分かりませんが、この伝説?伝承?は、意外に史実の可能性が高いなと思ったのです。

では、もっと真実に迫る茶上兼という人物がいたのか?
そこは次回に書きたいと思います。


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