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先祖を探して

Vol.134 世之主の墓(4)琉球王の墓って


興味深い儀式

ウファでの儀式について、興味深い記録をみつけました。和泊町史 歴史編 P590に書かれてるのですが、以下の内容です。




まず、古代から伝わる御墓祭りは3年ごとにシニグ祭が行われる時に一緒にやっていたようですね。シニグ祭りは豊年祈願の年中行事の一つで、琉球の北部地方から伝わった祭りのようですが、これについては別記します。
島の要人や市民が参列し、前日に納骨堂を掃除し、当日は衣装を日に干し、祝詞をあげて骨を洗骨し、卵などのお供えを置いたようです。そして、陽家の人が何やら夢に世之主が出てきたら、、、などという占いのようなことをやっていたようです。この陽家ですが、親族ではあったようですが詳しいことは分かりません。このようなお告げ的なことをされているのは、もしかしたらノロやユタのような家系だったのかもしれませんね。
島でシニグ祭りが廃止になった明治初期以降は、その儀式も簡素化されて、今ではもう行われていないようです。

ここで気になる点があります。
①世之主のお墓でシニグ祭に合わせてこのような行事をやっていたということは、世之主が沖縄北部地方に関係する人だった可能性があります。やはり伝承のように北山王の次男のお墓であるのか?

②衣類がお墓に一緒に安置されていたようですが、それは要家(世之主の母親の実家)に現在保管されている世之主の着物なのでは?

②参列者に代官や附役までいたことには驚きです。代官や附役は薩摩時代の鹿児島から来た役人です。いつの時代から参列していたのかは分かりませんが、島に代官所が置かれた1691年からとしても、薩摩には全く関係のない300年程前の時代に亡くなった人の法事に役人が参加していたことになります。島で死後も大切に扱われてきた世之主様に敬意を払った行動ではありますが、果たして戦国時代の武士でもあった薩摩の役人が、普通に参加するのか?
何か薩摩にも関係した人物であった、しかも薩摩侵攻後に亡くなった人の供養であれば納得もできますが、何とも不思議な感じです。


伯母からの情報

儀式は時代と共にだんだん薄れていったようで当家のお爺さま達が暮らしていた昭和初期頃には、家族だけで行っていたようです。
当家の叔母から聞いた話は以下です。

11月26日は家族だけでウファに行ってお参りしていたと思う。ごちそうを持って行って、祝詞をあげて、お神酒をあげていた。
ごちそうはお墓で食べた。この
ウファは琉球王の墓だと聞いていた。

叔母の話では、お爺様が世之主神社の神主をしていたこともあり、毎年11月26日にはウファで祭りごとをしていたそうです。この祭りごとは、シニグ祭の時に行われた儀式を引き継いだものだったのか?そこははっきりとは分かりませんが、お爺様たちがやっていた祭りごとは先祖供養です。これはVol.13の記事で書いておりますが、ご先祖様が朝廷に船で行く途中に遭難したので、その日に家に集まって祭りごとをしていた話がありました。(朝廷とは恐らく鹿児島への上国のことだとは思います)
Vol.41の記事では月を拝んでいた話も書きましたが、それはこの亡くなった方の供養をしていたのだと思います。

そうなると、ウファで先祖供養をやっていたのでしたら、その遺骨はウファにあったということになります。Vol.132の記事で書いたように、納骨堂の甕には複数人の人骨が納骨されていたので、その中の一人の可能性があります。

いや、でも待ってください。遭難したのでしたら、遺骨は無かったかもしれません。でもそれより何より、これを書きながら思い出しました。
宗家の本家の墓は、ウファとは別に1700年前半に作られています。お爺様の家である屋号:上花城の家も1760年に墓石を建立しています。そうなると、ご先祖様供養は、どちらかの墓石で行うのが普通ではないでしょうか?
ウファで行っていたのであれば、そのご先祖様は墓石が出来る前に亡くなった方になります。年代でいうと、1688年以前。当家の記録上の一番古いご先祖様である中城という人から、現在の墓石のところに眠っておられます。


そうなると、誰を供養していたのか?

上国したことを考えると薩摩時代になる。
上国できるのは与人職。
薩摩管轄になったのは1609年。
島で記録がある与人職は、1613年の要家の「次郎かね」という人物。この人は琉球時代の島の最後の大屋子。
島は3間切りあったようなので、与人は3名いたようなので、この「次郎かね」と同時代に与人をしていた可能性がある中城の父親を供養していたのか?


更にもう1つ驚きの疑問点

叔母は子供の頃に島で過ごしていただけですので、世之主に関しての詳しいことは把握しておらず、当時に経験したこと聞いた事だけを覚えていて私に教えてくれます。ここでのポイントですが、ウファは琉球王の墓であるということです。北山王の次男であった世之主は、大きく言えば琉球王と言えないこともないですが、いや、やはりそれはちょっと大きすぎます。
ではなぜ琉球王の墓だと聞いていたのか?
まさか歴代の琉球王が、わざわざこの沖永良部島にお墓を作るわけはないでしょう。実際に三山統一後の王たちのお墓は沖縄にありますしね。
王の墓として考えるならば、行方が分からなく墓も分からないと言われている武寧王が考えられますが、、、でも武寧王は沖永良部で全く伝承もありませんし、大きなお墓を作ったということは、この地で何か功績があったから。ただ逃げて隠居生活をしていただけなら、こんなお墓は作らないでしょう。
少なくともこのウファは、沖永良部島を統治した人のお墓なはずです。
中城の父親が琉球王だったのか?それとも王家の人間だったってことか???


お墓の規模は大きいですが、厨子甕が島主であった世之主の物にしては、若干シンプルではないかと思ったのは私だけでしょうか?
もちろん伝承では北山の配下の中の島主ですから、親より立派な墓や厨子甕は使えないでしょう。でも北山王であった樊安知のお墓はどこにあるのか?
琉球王家の琉球式のお墓が出来たのは1500年台以降のようですし、そう考えるとウファはやはり1500年以降に作られたお墓? 
じゃあやっぱり北山王の次男であった世之主の墓じゃないってこと?

謎がぐるぐると廻っております。
壮大なウファですが、もしかしたら伝承の世之主のお墓ではないかもしれないということも片隅において、ご先祖調査を継続したいと思います。

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