伝説の主人公である「茶上兼」。果たしてこの人物が実在したのか?
伝説や伝承の中の人物や出来事については、私は全てが作り話しではないと思っています。今に伝わる話の、ある部分は事実、ある部分は偽り。偽りは意図的でなくとも、とらえ方の違いで話が変わっていたり、大げさに比喩されて表現されていたりと。その話が語られ始めた当初には100%事実だけを伝えた話であっても、口碑伝承が何百年も続いていく中で、だんだん話が変わっていったり、オーバーに表現されて、もしかしたら時に実話の原形をもう留めていないくらいにストーリーが変わっている可能性だってあります。
そういったことを念頭に置きながら、この話のどこが真実なのだろうか?と考えながら探っていくことは、とても興味深くもあり楽しさも感じます。
今回の茶上兼という人ですが、船で上国したというあたりから、やはりそれは薩摩時代の与人職であった人。しかも親が世之主と呼ばれていたのですから、薩摩侵攻時あたりの人物として探してみました。
そうしたら、もしかして彼ではないのか?と思える人を見つけました。
彼の名前は「茶しやうかね」と書かれています。文献によっては「茶じやうかね」とも書かれています。私は後者の「茶じやうかね」から、これは「茶上兼:ちゃじょうがね」なのではないかと思ったのです。
この「茶じやうかね」は、実はVol.15で書いた当家のご先祖様であった世之主の母親の実家だと言われている、要家の系図の中にいらしゃる方です。
こちらの系図はもうずっと前から公開されていますが、系図の始まりは「次郎かねと思みつかね」という御夫婦からで、3代目までの人物が書かれています。
この「次郎かね」は、琉球時代の最後の大親子として、琉球王府から任命されており、薩摩侵攻後はすぐに薩摩の島役人である与人になっています。その「次郎かね」の長男が「茶じやうかね」なのです。
父親が世之主と呼ばれていて、本人は父の後継者か?与人に任命され鹿児島に上国。これはありえますね。
しかし、「茶じやうかね」が与人をしていたという記録が無いのです。
ただ、系図を見ると、男子は与人をしていたり、女子は与人の女房になったりと、一族で島の役人関係を固めていたことが分かりますよね。当時の島は3間切りに分かれていたようで、それぞれの間切りに与人がいました。
*徳時間切りは後に久志検間切りへと名称が変わったようですが、並行して4間切りの時期があったのか?少し不明です。
この「茶じやうかね」の年代には、三男「思かなかね」が徳時与人になっています。二女の「思ふたかね」の夫は大城与人と書いてありますが、これは当家の中城というご先祖様です。そうなると、長女の「思とかね」が喜美留与人の女房ですから、残る与人枠は久志検与人です。
父親の「次郎かね」は久志検与人であったと当家のお爺様の記録にありますので、「茶じやうかね」は久志検与人に任命されていた可能性が大ですね。
伝説のお付きの人の名前も一人は久志険友二地となっていますね。
当時は鹿児島へ上国して正式に任命式があったのでしょうかね?
そこは不明ですが、任命式の前に亡くなってしまったので、系図には役職書かれていないのかもしれません。
「茶上兼」を探せ!から、要家に辿り着いてしまいました。
しかし、これはあくまで私の考察です。史実だと言い切れるわけではありませんので、そこはご注意ください。
この要家の系図を見た時に、なぜ長男が何も役についていないのだろうと不思議に思っていました。しかも長男であるのに、子孫が記述されていないのも気になっていました。もし伝説の人がこの長男で、本当に遭難で亡くなっていたのなら、その理由が納得できます。亡くなった時に家族がいたかは不明ですが。そうして見ると、次男さんもですよね。
この系図についても調査をしていたところ、まだまだ謎は多いのですが、当家から養子にいったり、嫁にいったりきたりなどの関係が見えてきましたので、別記したいと思います。