今日は晴れ時々曇り
洗濯物をためていたので、晴れて助かった~。
半年以上ぶりに美容院に行ってきました。
きっかけになったのは、美容院から届いた20%オフのハガキ
なのに。。。美容院でハガキを渡すのを忘れました
財布に入れていたのに・・・
脳みそメルトダウンの今日この頃です・・・
今日の写真は、たんぽぽの種飛ばしに夢中なもりっとちゃん。
タンポポの綿毛を発見するとダダッとダッシュ!
でも、芝生などだと、私に入ってもいいか確認をとるのが偉いところ。
たくさん見つけると綿毛の束を作ってフ~ッと飛ばします。
でも、3歳児。
逆風でもフ~っとするので、よく綿毛まみれになっています。
タンポポの種が耳に入ったら、耳が聞こえなくなるって本当かなぁ・・・
っていうか、本当に耳に入るんだろうか・・。
種が自分につかないように気をつけろということなのかな。
*▼△▼*△▼△*▼△▼*
今朝九州で大き目の地震がありました。
大きな被害がなかったのは幸いでしたが怪我をされた方もありました。
お見舞い申し上げます。
阪神大震災の時のこと、いろいろありましたが、はっきり覚えていることと、あまり詳しく覚えていないことがあります。
覚えていることだけでもボツボツ書いておこうと思います。
今日は、地震のあと、悲しかったり、いやだったり、???だったり、腹が立ったりしたこと。
なんでそんな嫌な話から書こうと思ったのかわからないのですが
《心配》
実家の前は小学校でした。地震のあとは避難所になっていました。
小学校でウサギを飼っていて、地震のあと、実家の庭でハコベなどをとって何度かあげにいきました。
地震当日だったのか、もう少し日が経っていたのか、結構大きな余震がきていたので、そんなに日数は経っていなかったと思います。
なんでそんな時にウサギを見に行ったのか・・・。動機は覚えていません。
餌を上げに行くと、みんなものすごい勢いで食べにきました。三連休明けだったので、休み中に餌をもらっていなかったのかもしれません。
餌を上げていると余震が来て揺れました。うさぎたちもギョッとして固まっていました。私も餌をあげながら血の気が引いていました・・・。
何度か行きましたが、これまた動機は覚えていませんが、行かなくなりました。
多分誰かがお世話をしてくれていたのだと思いますが・・・
彼らがお腹をすかせていないか心配でした。
《避難所で-1》
私が子供の時、隣で八百屋だったかな、お店をしていたおばさんに避難所で会いました。
うちは避難していませんでしたが、給水車へ水をもらいに行った時に会ったのだと思います。おばさんはもうおばあさんになっていました。
うちは食べ物があり、電磁調理器で温かいものも食べられましたが、避難所はパンやおにぎりなど冷たいものばかり。なので、母が何度か食べ物をおばあさんに届けに行きましたが、二度ほどでおばあさんからやめてくれと言われました。
周りの人がみな冷たいものを食べている中で、自分だけ温かいものを食べているのがいたたまれないからと・・・。
うちに来てもらえばよかったのかもしれませんが、そこまで親しい相手でもなく、うちも他の人を迎え入れる余裕もありませんでした。
そのうちおばあちゃんは、親戚のおうちに身を寄せることになり、避難所を出ることが出来ました。
おばあちゃん、ごめんね。
《避難所で-2》
避難所で、中学校の同級生に会いました。家は無事だけど赤ちゃんがいて心配なので避難しているとのこと。立ち話だけで別れたので、後で何かできることがないか聞いてみようと再び避難所に行きました。
水をもらいに行っても中に入ることはなかったので、初めて避難所になっている教室のドアを開けました。
中は薄暗くて、みんな毛布に包まったり、横になったりしていて、空気は重く、よどんでいました。
ほとんど話している人もなく、暗く、ドローンとした空間・・・
私がドアをあけると、横になっている人が何人か起き上がったり、こちらを向いたりしました。でも、私の顔を見て、自分に関係ないとわかると、また横になったり、よそを向いていきました。
その仕草が、誰もが一様に生気がなく、来てはいけないところに来てしまった気がして、友達に会えないままでしたが、逃げるように帰りました。
つらかったです。
《給水車を追いかけて》
給水車がある程度定期的に来るようになったある日、歩いているとおじいさんが大きな台車にポリタンクをのせて坂道を登ってきました。
小学校にきた給水車に水をもらいに来た模様。でも、一足違いで給水車は行ってしまった後でした。
「給水車、きてますか?」
「さっき行っちゃいましたよ。まだ次の給水するところにいるかもしれないけど・・・」
「そうですか~、おおきに」
と、おじいさんはしんどそうに坂を上っていきました。
少し立ち話をしたのですが、詳しいことは覚えていません。
家でおばあさんが待っていて、水がなくて・・・というようなことだったと思います。
うちには水はありました。でも、わけてあげられませんでした。
先が見えない日々、余裕はないし、一度分けてあげることが、その後どうつながるかわからなくて・・・
しんどそうなおじいちゃんの背中にごめんなさいでした。
おじいちゃんが給水車に追いつけたかどうか、わかりません。
また同じ状況になったら、今度は分けて上げられるでしょうか・・・。
正直、わかりません。
ちなみに、給水車は、数日経てばある程度時間を決めてやってきますが、最初は突然でした。3日目の夜、前触れもなく本当に突然やってきました。
何かマイクで言っているような声を私が聞きつけ、家族に知らせて外に出てみたら、「水がきた!」と人が殺到していました。
最初は整然と配られるわけもなく、途中で水はなくなってしまったようでした。
大きな入れ物でも、小さな入れ物でも、人によって水の量がバラバラでも、配られてしまったし、少しでも水がもらえるということで、集まった人の目は輝いていました。
もらえなかった人はひどく落胆したと思いますが、「水がきた」という事実が、希望になったのではないかと思います。
少しずつルールができて、一人に配られる水の量が一定になり、奪水競争はなくなっていきました。
備蓄しましょうね!せめて3日分。。。できれば、5日分・・・!!!
《呼び出された》
電話が通じず、家の近所の電話はすべてだめで、会社に連絡できませんでした。
3日目くらいに、20分くらい歩いたところの公衆電話が生きているという情報があって、とりあえず会社に電話しに行きました。
当時の勤務先は大阪の山奥でした。
会社に電話したら、その会社では、私の安否だけがわからず、大変心配していたそうです。
上司)「とにかく心配だから、これから毎日電話してきなさい」
私)「え・・・、電話は歩いて20分のところにしかないんですが、毎日ですか?」
上)「うん、だって心配だから」
近所で使える電話はそこだけだったようで、何人も並んでいたので押し問答も出来ず
私)「できるだけかけますが、遠いし混んでるのでかけられない日もあると思いますから」
と、言って切りました。
翌日は電話できず、その翌日に電話したら
上)「一回会社に出てきなさい。顔を見て話したいから」
その日はまだ大阪までの交通機関は何一つなく、歩いていくしかありませんでした。
私)「え?歩いてってことですか?」
上)「まぁ、話も聞きたいし、援助物資も用意しているから、取りにおいでよ。神戸の他の社員のところにはこっちから持っていったんだけどさ、君の家は遠いから、持っていけなかったんだよね」
私)「・・・・・・・。わかりました。行けたらいきます。」
地震から一週間後か10日後、会社へ行くことにしました。
家から三宮まで歩き、偶然その日、神戸から大阪への途中のどこかまでの代替バスの運行が始まったので、それに乗ることが出来ました。
線路を歩いていくのかなぁと思っていたので、助かりました。。。でも、5時間以上かかりました。バスから見た光景は、多分、一生忘れません。
会社に行ったら、上司と、もう一人、人事部長だったか誰かが出てきて
「いや~、大変だったね。元気そうで何よりだよ。」
それだけでした・・・・
物資も帰路のことを考えると、重いものは持ちたくなくて、ほとんど持たずに帰りました。
日帰りは無理だと思っていたので、帰りは大阪の親戚の家に泊まりました。
震災後はこわくて、毎晩一晩中電気をつけて、TVをつけて寝ていたので、久々に真っ暗な中で寝るがこわくて、ほとんど眠れませんでした。
何のための呼び出しだったのか・・・・・バカヤロー!
《叩ききられた電話》
呼び出されて会社に行く途中、三宮にある神戸市役所の新庁舎に、臨時の災害電話が設置されていて人だかりでした。
三宮まで無事ついたことを実家に電話しようとしましたが、混線していたのか、まったく違う家に、3回続けてかかってしまいました。
しかも、相手はものすごく感じの悪いおばさんで、そりゃたしかに3回も続けて雑音だらけの間違い電話がかかってきたら腹が立つだろうけど。。。
「神戸の災害電話からかけているので、混線しているのかもしれません。すみません」と謝ったのですが、無言で叩ききられました・・・
結構悲しかったです。
《うーん・・・》
同じく、神戸市役所の新庁舎で。
新庁舎も避難している人がたくさんいて、廊下やあちこちに、人が寝ていました。
どこかのおばさんが
「ここ、トイレ、水が出んねんで!おねえちゃん、トイレ使っとき!」
と教えてくれました。
(こういう細かな情報は人づてが頼りでした。
ガセ&デマの恐れもありますが、人の繋がりの大切さもいっぱい見に染みました)
市役所の水洗トイレはピッカピカでした。
「避難所だから」優先的に水道が復旧していたのか?
たまたま水道がやられなかったのか・・・?
どっちなんでしょう・・・
水道がやられなかったんだったらよかったね~!だけど、前者だとなんとも不公平感が残ります。
《人間て・・・》
地震の後、大阪の親戚の家に行くまで、お風呂には入れませんでした。
親戚の家から戻った後、いつ初めてお風呂に入れたのか、覚えていません。
どのくらいたった頃か、神戸市西区にある温泉施設がボランティアで無料でお風呂に入れてくれると聞き、家族で出かけました。
大混雑でしたが、ゆっくりお風呂に入ることが出来る幸せをしみじみ味わいました。
でも・・・
みんなシャワーをジャージャー流しっぱなしで髪を洗ったり、身体を洗ったり・・・。
無料で入れてもらってるんだし、こんなきれいなお風呂に入れない人もいっぱいいるのに、みんな、ちょっと節水しようよ・・・。
人間て、すぐ忘れちゃうもんなんだなぁ・・・
いもの子を洗うような広いお風呂で、無数のジャージャー勢いよく流されっぱなしのシャワーの水を見ながら、これまた、むなしかったですよ・・・
地震のことを書くと、いつにもまして、長くなります。
洗濯物をためていたので、晴れて助かった~。
半年以上ぶりに美容院に行ってきました。
きっかけになったのは、美容院から届いた20%オフのハガキ
なのに。。。美容院でハガキを渡すのを忘れました
財布に入れていたのに・・・
脳みそメルトダウンの今日この頃です・・・
今日の写真は、たんぽぽの種飛ばしに夢中なもりっとちゃん。
タンポポの綿毛を発見するとダダッとダッシュ!
でも、芝生などだと、私に入ってもいいか確認をとるのが偉いところ。
たくさん見つけると綿毛の束を作ってフ~ッと飛ばします。
でも、3歳児。
逆風でもフ~っとするので、よく綿毛まみれになっています。
タンポポの種が耳に入ったら、耳が聞こえなくなるって本当かなぁ・・・
っていうか、本当に耳に入るんだろうか・・。
種が自分につかないように気をつけろということなのかな。
*▼△▼*△▼△*▼△▼*
今朝九州で大き目の地震がありました。
大きな被害がなかったのは幸いでしたが怪我をされた方もありました。
お見舞い申し上げます。
阪神大震災の時のこと、いろいろありましたが、はっきり覚えていることと、あまり詳しく覚えていないことがあります。
覚えていることだけでもボツボツ書いておこうと思います。
今日は、地震のあと、悲しかったり、いやだったり、???だったり、腹が立ったりしたこと。
なんでそんな嫌な話から書こうと思ったのかわからないのですが
《心配》
実家の前は小学校でした。地震のあとは避難所になっていました。
小学校でウサギを飼っていて、地震のあと、実家の庭でハコベなどをとって何度かあげにいきました。
地震当日だったのか、もう少し日が経っていたのか、結構大きな余震がきていたので、そんなに日数は経っていなかったと思います。
なんでそんな時にウサギを見に行ったのか・・・。動機は覚えていません。
餌を上げに行くと、みんなものすごい勢いで食べにきました。三連休明けだったので、休み中に餌をもらっていなかったのかもしれません。
餌を上げていると余震が来て揺れました。うさぎたちもギョッとして固まっていました。私も餌をあげながら血の気が引いていました・・・。
何度か行きましたが、これまた動機は覚えていませんが、行かなくなりました。
多分誰かがお世話をしてくれていたのだと思いますが・・・
彼らがお腹をすかせていないか心配でした。
《避難所で-1》
私が子供の時、隣で八百屋だったかな、お店をしていたおばさんに避難所で会いました。
うちは避難していませんでしたが、給水車へ水をもらいに行った時に会ったのだと思います。おばさんはもうおばあさんになっていました。
うちは食べ物があり、電磁調理器で温かいものも食べられましたが、避難所はパンやおにぎりなど冷たいものばかり。なので、母が何度か食べ物をおばあさんに届けに行きましたが、二度ほどでおばあさんからやめてくれと言われました。
周りの人がみな冷たいものを食べている中で、自分だけ温かいものを食べているのがいたたまれないからと・・・。
うちに来てもらえばよかったのかもしれませんが、そこまで親しい相手でもなく、うちも他の人を迎え入れる余裕もありませんでした。
そのうちおばあちゃんは、親戚のおうちに身を寄せることになり、避難所を出ることが出来ました。
おばあちゃん、ごめんね。
《避難所で-2》
避難所で、中学校の同級生に会いました。家は無事だけど赤ちゃんがいて心配なので避難しているとのこと。立ち話だけで別れたので、後で何かできることがないか聞いてみようと再び避難所に行きました。
水をもらいに行っても中に入ることはなかったので、初めて避難所になっている教室のドアを開けました。
中は薄暗くて、みんな毛布に包まったり、横になったりしていて、空気は重く、よどんでいました。
ほとんど話している人もなく、暗く、ドローンとした空間・・・
私がドアをあけると、横になっている人が何人か起き上がったり、こちらを向いたりしました。でも、私の顔を見て、自分に関係ないとわかると、また横になったり、よそを向いていきました。
その仕草が、誰もが一様に生気がなく、来てはいけないところに来てしまった気がして、友達に会えないままでしたが、逃げるように帰りました。
つらかったです。
《給水車を追いかけて》
給水車がある程度定期的に来るようになったある日、歩いているとおじいさんが大きな台車にポリタンクをのせて坂道を登ってきました。
小学校にきた給水車に水をもらいに来た模様。でも、一足違いで給水車は行ってしまった後でした。
「給水車、きてますか?」
「さっき行っちゃいましたよ。まだ次の給水するところにいるかもしれないけど・・・」
「そうですか~、おおきに」
と、おじいさんはしんどそうに坂を上っていきました。
少し立ち話をしたのですが、詳しいことは覚えていません。
家でおばあさんが待っていて、水がなくて・・・というようなことだったと思います。
うちには水はありました。でも、わけてあげられませんでした。
先が見えない日々、余裕はないし、一度分けてあげることが、その後どうつながるかわからなくて・・・
しんどそうなおじいちゃんの背中にごめんなさいでした。
おじいちゃんが給水車に追いつけたかどうか、わかりません。
また同じ状況になったら、今度は分けて上げられるでしょうか・・・。
正直、わかりません。
ちなみに、給水車は、数日経てばある程度時間を決めてやってきますが、最初は突然でした。3日目の夜、前触れもなく本当に突然やってきました。
何かマイクで言っているような声を私が聞きつけ、家族に知らせて外に出てみたら、「水がきた!」と人が殺到していました。
最初は整然と配られるわけもなく、途中で水はなくなってしまったようでした。
大きな入れ物でも、小さな入れ物でも、人によって水の量がバラバラでも、配られてしまったし、少しでも水がもらえるということで、集まった人の目は輝いていました。
もらえなかった人はひどく落胆したと思いますが、「水がきた」という事実が、希望になったのではないかと思います。
少しずつルールができて、一人に配られる水の量が一定になり、奪水競争はなくなっていきました。
備蓄しましょうね!せめて3日分。。。できれば、5日分・・・!!!
《呼び出された》
電話が通じず、家の近所の電話はすべてだめで、会社に連絡できませんでした。
3日目くらいに、20分くらい歩いたところの公衆電話が生きているという情報があって、とりあえず会社に電話しに行きました。
当時の勤務先は大阪の山奥でした。
会社に電話したら、その会社では、私の安否だけがわからず、大変心配していたそうです。
上司)「とにかく心配だから、これから毎日電話してきなさい」
私)「え・・・、電話は歩いて20分のところにしかないんですが、毎日ですか?」
上)「うん、だって心配だから」
近所で使える電話はそこだけだったようで、何人も並んでいたので押し問答も出来ず
私)「できるだけかけますが、遠いし混んでるのでかけられない日もあると思いますから」
と、言って切りました。
翌日は電話できず、その翌日に電話したら
上)「一回会社に出てきなさい。顔を見て話したいから」
その日はまだ大阪までの交通機関は何一つなく、歩いていくしかありませんでした。
私)「え?歩いてってことですか?」
上)「まぁ、話も聞きたいし、援助物資も用意しているから、取りにおいでよ。神戸の他の社員のところにはこっちから持っていったんだけどさ、君の家は遠いから、持っていけなかったんだよね」
私)「・・・・・・・。わかりました。行けたらいきます。」
地震から一週間後か10日後、会社へ行くことにしました。
家から三宮まで歩き、偶然その日、神戸から大阪への途中のどこかまでの代替バスの運行が始まったので、それに乗ることが出来ました。
線路を歩いていくのかなぁと思っていたので、助かりました。。。でも、5時間以上かかりました。バスから見た光景は、多分、一生忘れません。
会社に行ったら、上司と、もう一人、人事部長だったか誰かが出てきて
「いや~、大変だったね。元気そうで何よりだよ。」
それだけでした・・・・
物資も帰路のことを考えると、重いものは持ちたくなくて、ほとんど持たずに帰りました。
日帰りは無理だと思っていたので、帰りは大阪の親戚の家に泊まりました。
震災後はこわくて、毎晩一晩中電気をつけて、TVをつけて寝ていたので、久々に真っ暗な中で寝るがこわくて、ほとんど眠れませんでした。
何のための呼び出しだったのか・・・・・バカヤロー!
《叩ききられた電話》
呼び出されて会社に行く途中、三宮にある神戸市役所の新庁舎に、臨時の災害電話が設置されていて人だかりでした。
三宮まで無事ついたことを実家に電話しようとしましたが、混線していたのか、まったく違う家に、3回続けてかかってしまいました。
しかも、相手はものすごく感じの悪いおばさんで、そりゃたしかに3回も続けて雑音だらけの間違い電話がかかってきたら腹が立つだろうけど。。。
「神戸の災害電話からかけているので、混線しているのかもしれません。すみません」と謝ったのですが、無言で叩ききられました・・・
結構悲しかったです。
《うーん・・・》
同じく、神戸市役所の新庁舎で。
新庁舎も避難している人がたくさんいて、廊下やあちこちに、人が寝ていました。
どこかのおばさんが
「ここ、トイレ、水が出んねんで!おねえちゃん、トイレ使っとき!」
と教えてくれました。
(こういう細かな情報は人づてが頼りでした。
ガセ&デマの恐れもありますが、人の繋がりの大切さもいっぱい見に染みました)
市役所の水洗トイレはピッカピカでした。
「避難所だから」優先的に水道が復旧していたのか?
たまたま水道がやられなかったのか・・・?
どっちなんでしょう・・・
水道がやられなかったんだったらよかったね~!だけど、前者だとなんとも不公平感が残ります。
《人間て・・・》
地震の後、大阪の親戚の家に行くまで、お風呂には入れませんでした。
親戚の家から戻った後、いつ初めてお風呂に入れたのか、覚えていません。
どのくらいたった頃か、神戸市西区にある温泉施設がボランティアで無料でお風呂に入れてくれると聞き、家族で出かけました。
大混雑でしたが、ゆっくりお風呂に入ることが出来る幸せをしみじみ味わいました。
でも・・・
みんなシャワーをジャージャー流しっぱなしで髪を洗ったり、身体を洗ったり・・・。
無料で入れてもらってるんだし、こんなきれいなお風呂に入れない人もいっぱいいるのに、みんな、ちょっと節水しようよ・・・。
人間て、すぐ忘れちゃうもんなんだなぁ・・・
いもの子を洗うような広いお風呂で、無数のジャージャー勢いよく流されっぱなしのシャワーの水を見ながら、これまた、むなしかったですよ・・・
地震のことを書くと、いつにもまして、長くなります。
地震雲、でてたんですね。
地も空も、水も、動物も、植物も、鉱物も、太陽も月も星もみんな、自然は全部まるくつながっていますよね。
人間だけがはみ出しているようで・・・。
福岡のほうは大丈夫そうだなと思っていましたが、無事が確認できるとやはりほっとしました
コメント、ありがとうございました!