夕方から雨が降り続いております。
雨にうたれても、ヒットは打たれないしゅういちです。
最近はヒット、打てなくなりました。
ボールを人にヒットさせてデッドにすることは良くあります。
さて、
横田ゼミでは3期生のインド研修(feat.腹痛)、4期生のベトナム研修が終わり、一段落といったところでしょうか。
いえいえ、まだまだこれからが本番ですね!!
3期生は卒論、4期生はインゼミ、そして、就活が本格化!そしてそして、卒業生の方々は・・・12月に控えているOBOG会を指折り数えて待っていることと思います。
僕たち現役生もOBOGの方々とお会いできる日を楽しみに待っています!
そう、このOBOG会、今回が初開催なんです!今までは、ゼミ納会という形で先輩の方々に声を掛けさせていただいたのですが、今回からは正式にOBOG会という名のもとに“YOKOTA Family”が集まることになります。
うーん、今から戦々恐々、、、じゃなくて楽しみですね!!
しかし、現役生はその前にやることが山積みです。。
で、僕の困ったときの打開策は、「とりあえず野球をやる」なので、今日も昨日も野球をやってました。
人生、困ってばかりいるのですね。
つくづく思うのは、なんでこんなに野球が好きなんだろう、ということです。
そう、こういうこと、就活の面接でも聞かれました。
で、僕はドヤ顔交じりにこう答えました。
「団体球技スポーツで、パスの概念がないのが野球なんです。サッカーもバスケもラグビーもバレーボールも自分が不利な状況だったら他の人にボールを回す権利が与えられてますよね。野球はねー、違うんですよ、その都度勝負なんです。個人の。」と。
うん、なかなかの答えだと思う。
で、更に「ボール捕るとき、打つ時、投げる時。コンマ数秒の勝負の積み重ね。その良し悪しが決定的に勝負を分ける。だから、その一瞬のために何年も練習するんですよ。」と。
でも、これは考えてみれば他の競技も同じである。
パスの精度もシュートの精度もその時一瞬の技量で決まる、当然の話ではあるが、その背後にあるのは何年も積み重ねてきた努力と汗と涙と、時には血であったりするわけだ。
で、そこから少し離れて、文章の精度なるものを考えてみよう。
文章に精度があるのか?これは、かなり難しい問題だと思う。
文章にまず、精度という言葉が合うのかどうかも微妙だ。
文章ではなくて、文体か?いやそれとも、言葉の精度というべきなのか。
問題発見、問題解決能力を何よりも大切と謳っている人はこの質問に明確な答えを出せるのだろうか・・・。
要するに、「問題」っていうのは自分の中にある、ある種のセンサーが、「問題」と認識するかどうかが問題であって、問題発見・解決能力を鍛えましょうって言う考え方が一番問題だったりすると思うんだけど・・・。
人は見たいものを見て聞きたいものを聞く。空耳、空目の話のところで福岡伸一さんが(確か)言っていた言葉を思い出します。
「問題」だって、似たようなもんですよね、きっと。
フェルマーの最終定理が問題だと感じる人と、明日の星座占いの順位が問題だと感じる人、それはどっちが良いとかそういう問題ではないんですよ、きっときっと。
で、文章の精度というものが仮にあったとして、その精度は何を基準に決まるのか。
確かに、スポーツと同じで、精度の裏に汗と涙と血と努力があることは否定できない。
が、多分それだけではない。大体、文章の精度を高めるための血と汗ってなんなんだ。
多分、決定的に大事なのは自分の考えているモヤモヤっとした何かを身近な言葉で表す必死の姿勢だったりする。
トライといってもいい。ラグビーの話ではない。だから、そこらへんに走って行って滑り込まないで欲しい。血が流れるだけだ。それは努力ではあるかもしれないが、間違った形と言わざるを得ない。
必死のトライの先に精度がある。何よりも言葉は運用するためにあるのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
で、トライをすると、自分の知っている言葉によってでしか自分の考えていることを知ることができないという、至極当然な事実と向き合うことになる。
本気を出せばいつだって日本語は操れるんだよ!という傲慢な態度は文章の精度向上に全く寄与しない。
自分のボキャブラリーに対する一抹の不安と自分の言葉に対する不信感。
大切なのは、文章を書いた後の「やっちまった」感と、「あ、こんなこと思っていたんだ」という微かな発見だったりする。
その発見とちょい滑り感が、もう少し文章上手くならんかなーという欲望を掻き立てたりする。
この感覚が文章の精度を高めるなんて、少し素敵なお話ではあるまいか。
この感覚を与えてくれるのは、文章の神様である。
トイレ掃除のベッピンさん希望でない男子諸君も、文章の神様には出会える。
ばあちゃんではなく、私がそのことを教えよう。
なに、心配はいらない。文章の神様は私をべっぴんにはしなかった。
いや、べっぴんにしようにも手遅れだったのかもしれない。どちらにしろ、奴はだめだ。
それを考えれば、トイレの神様よりもハードルは低い。格落ちだ。
で、ここまで長々と書いて、何が言いたいのかと。
ゼミ生の皆さん、ブログ、書きましょう笑
雨にうたれても、ヒットは打たれないしゅういちです。
最近はヒット、打てなくなりました。
ボールを人にヒットさせてデッドにすることは良くあります。
さて、
横田ゼミでは3期生のインド研修(feat.腹痛)、4期生のベトナム研修が終わり、一段落といったところでしょうか。
いえいえ、まだまだこれからが本番ですね!!
3期生は卒論、4期生はインゼミ、そして、就活が本格化!そしてそして、卒業生の方々は・・・12月に控えているOBOG会を指折り数えて待っていることと思います。
僕たち現役生もOBOGの方々とお会いできる日を楽しみに待っています!
そう、このOBOG会、今回が初開催なんです!今までは、ゼミ納会という形で先輩の方々に声を掛けさせていただいたのですが、今回からは正式にOBOG会という名のもとに“YOKOTA Family”が集まることになります。
うーん、今から戦々恐々、、、じゃなくて楽しみですね!!
しかし、現役生はその前にやることが山積みです。。
で、僕の困ったときの打開策は、「とりあえず野球をやる」なので、今日も昨日も野球をやってました。
人生、困ってばかりいるのですね。
つくづく思うのは、なんでこんなに野球が好きなんだろう、ということです。
そう、こういうこと、就活の面接でも聞かれました。
で、僕はドヤ顔交じりにこう答えました。
「団体球技スポーツで、パスの概念がないのが野球なんです。サッカーもバスケもラグビーもバレーボールも自分が不利な状況だったら他の人にボールを回す権利が与えられてますよね。野球はねー、違うんですよ、その都度勝負なんです。個人の。」と。
うん、なかなかの答えだと思う。
で、更に「ボール捕るとき、打つ時、投げる時。コンマ数秒の勝負の積み重ね。その良し悪しが決定的に勝負を分ける。だから、その一瞬のために何年も練習するんですよ。」と。
でも、これは考えてみれば他の競技も同じである。
パスの精度もシュートの精度もその時一瞬の技量で決まる、当然の話ではあるが、その背後にあるのは何年も積み重ねてきた努力と汗と涙と、時には血であったりするわけだ。
で、そこから少し離れて、文章の精度なるものを考えてみよう。
文章に精度があるのか?これは、かなり難しい問題だと思う。
文章にまず、精度という言葉が合うのかどうかも微妙だ。
文章ではなくて、文体か?いやそれとも、言葉の精度というべきなのか。
問題発見、問題解決能力を何よりも大切と謳っている人はこの質問に明確な答えを出せるのだろうか・・・。
要するに、「問題」っていうのは自分の中にある、ある種のセンサーが、「問題」と認識するかどうかが問題であって、問題発見・解決能力を鍛えましょうって言う考え方が一番問題だったりすると思うんだけど・・・。
人は見たいものを見て聞きたいものを聞く。空耳、空目の話のところで福岡伸一さんが(確か)言っていた言葉を思い出します。
「問題」だって、似たようなもんですよね、きっと。
フェルマーの最終定理が問題だと感じる人と、明日の星座占いの順位が問題だと感じる人、それはどっちが良いとかそういう問題ではないんですよ、きっときっと。
で、文章の精度というものが仮にあったとして、その精度は何を基準に決まるのか。
確かに、スポーツと同じで、精度の裏に汗と涙と血と努力があることは否定できない。
が、多分それだけではない。大体、文章の精度を高めるための血と汗ってなんなんだ。
多分、決定的に大事なのは自分の考えているモヤモヤっとした何かを身近な言葉で表す必死の姿勢だったりする。
トライといってもいい。ラグビーの話ではない。だから、そこらへんに走って行って滑り込まないで欲しい。血が流れるだけだ。それは努力ではあるかもしれないが、間違った形と言わざるを得ない。
必死のトライの先に精度がある。何よりも言葉は運用するためにあるのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
で、トライをすると、自分の知っている言葉によってでしか自分の考えていることを知ることができないという、至極当然な事実と向き合うことになる。
本気を出せばいつだって日本語は操れるんだよ!という傲慢な態度は文章の精度向上に全く寄与しない。
自分のボキャブラリーに対する一抹の不安と自分の言葉に対する不信感。
大切なのは、文章を書いた後の「やっちまった」感と、「あ、こんなこと思っていたんだ」という微かな発見だったりする。
その発見とちょい滑り感が、もう少し文章上手くならんかなーという欲望を掻き立てたりする。
この感覚が文章の精度を高めるなんて、少し素敵なお話ではあるまいか。
この感覚を与えてくれるのは、文章の神様である。
トイレ掃除のベッピンさん希望でない男子諸君も、文章の神様には出会える。
ばあちゃんではなく、私がそのことを教えよう。
なに、心配はいらない。文章の神様は私をべっぴんにはしなかった。
いや、べっぴんにしようにも手遅れだったのかもしれない。どちらにしろ、奴はだめだ。
それを考えれば、トイレの神様よりもハードルは低い。格落ちだ。
で、ここまで長々と書いて、何が言いたいのかと。
ゼミ生の皆さん、ブログ、書きましょう笑