おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

ヨーロッパ文化圏で「哲学者」が担っている役割を「文芸評論家」が担ってきた日本近代-小林秀雄以降とは-

2024-09-22 07:17:00 | 日記
江藤淳は『小林秀雄』のなかで、
「小林秀雄以前に批評家はいなかった」
と述べた。

小林秀雄の出現によって、多くの作家が沈黙を余儀なくされたといわれるが、それは、小林秀雄の批評が、小説という表現の形式を壊し、文学という形而上学をその根底から覆すような要素を持っていたからであろう。

小林秀雄の批評は、文学という形而上学の前提としての近代的世界了解の認識論的構図への批判であったのではなかろうか。

そもそも、「批評」とは、文学研究や作品の解釈を内包してはいるものの、文学研究や作品の解釈とは異なり、文学研究や作品の解釈にとどまるものではない。

研究や解釈は、批評のための予備作業とはなり得ても、批評そのになることはできなく、また、「文学」を前提としており、決して文学そのものの「根拠」を問うことはしない。

それに対して、批評とは、まさにその文学の「根拠」を問うという作業によってはじめて成立した文学的表現形式に他ならないだろう。

確かに、小林秀雄以前にも以降にも、批評家「らしき」人物も、文学研究や作品の分析や解釈、あるいは文学的位置づけなどを業とする人物も無数にいたはずである。

しかし、彼ら/彼女らは、単に新しい文学理論や解釈学を外国から輸入し、普及させることを使命としており、
あまりそれらを自身の裡で日本のものと折衷したり、日本のものと接ぎ木することをしていないため、批評家とは呼べないように、私には、思われる。

特に小林秀雄以前の批評家と呼ばれた人たちが、単に新しい文学理論や解釈学を外国から輸入し、それを普及させることを使命とし、文学という近代物語のなかで安心して眠りを貪ることが出来たのはなぜだろうか。

それは、彼ら/彼女らに、文学というものに対する根本的な懐疑や文学に対する危機意識というものが欠如していたからではないだろうか。

彼ら/彼女らは、文学というものの成立根拠や、その存在基盤の普遍性をあまりにも疑わなかった。

そのことは、今日の文学研究者や文学愛好家たちにもいえるかもしれない。

さて、「批評家」小林秀雄の誕生によって、はじめて批評という問題が近代文学の言説空間に出現したことは、小林秀雄の批評が文学批判にほかならなかったことを示してはいないだろうか。

つまり、近代文学の成立根拠としての近代的世界認識の地平に対する危機意識の自覚こそが、「批評家」小林秀雄を生み出したのではないだろうか。

小林秀雄の出現により、日本の近代文学は、はじめて、その存立の危機に直面することになったのであるが、やはり、小林秀雄は、近代文学の理論的イデオローグではなく、また、近代文学の研究や解釈を行った人でもない。

ヴァルター・ベンヤミンのことばを借りれば、
小林秀雄は、コメンタールの人ではなくて、あくまでもクリティークの人なのである。

小林秀雄は『伝統と反逆』のなかで、自身の「批評」が生まれた背景を
「僕らは、現実をどういう角度から、どういう形式でもって眺めたらいいかわからなかった。
そういう青年期を過ごしてきた。
僕なんかが小説が書けなくなったその根本的理由は、人生観の形式を喪ったということだったらしい。
例えば恋愛をすると、滅茶滅茶になっちゃったんだよ。
こんな滅茶滅茶な恋愛は小説にならねえから、諦めたんだよ。
諦めてね、もっとやさしい道を進んだのかどうかは何だかわからないけれど、もっと抽象的な批判的な道を進んだのだよ。
抽象的批評的言辞が具体的描写言辞よりリアリティが果たして劣るものかどうか。
そういう実験に取りかかったんだよ。
これは僕らの年代からですよ。
それまでには、ありはしません。
その前のリアリズムというものは、僕らの感じた暴風雨みたいなリアリズムじゃないよ」
と述べている。

小林秀雄の批評が、解釈や研究と違うことは明白だろう。

小林秀雄の批評は、言語表現上の危機意識であり、近代的な認識論的配置の解体と転換の自覚である。

小林秀雄が、
「小説が書けなくなった」というのは、
それまでの文学的な表現形式をそのまま模倣、反復することが出来なくなった、ということである。

やはり、小林秀雄の批評は、文学という形而上学の前提としての近代的世界了解の認識論的構図への批判であったのではなかろうか。

例えば、柄谷行人は、日本近代においては、ヨーロッパ文化圏においは「哲学者」が担っている役割を「文芸評論家」が担ってきた、と主張している。

確かに、少なくとも小林秀雄以降の批評的伝統は、単に文学というひとつのジャンルに限定できるようなものではなく、文学というジャンルを超え出ているようである。

もし、日本に哲学がなく、また哲学者が存在しないとすれば、それに相当する存在として批評家(文芸評論家)が存在するということが出来るだろう。

ところで、小林秀雄によって批評として自覚された問題は、文学や文学作品の問題でありながら、単にそれにとどまるものではなく、言ってしまえばそれは「認識の問題」であったのではなかろうか。

小林秀雄の場合、文学的問題の追及を通して、その結果としての認識の問題に触れたのであろうが、それは極めて大きな出来事であったのである。

さらに言ってしまえば、日本の近代史において、小林秀雄が果たした役割は、喩えるなら、中世スコラ哲学を批判したデカルトや、経験論と合理論を共に批判したカントのそれに近いものであるように思う。

デカルトもカントも、いわゆる伝統的な形而上学を批判し、解体した人である。

カントの形而上学批判をふまえて
「カント以後において形而上学はいかにして可能であるか」
という問題が、カント以降の哲学界のテーマとなったが、
同じく小林秀雄の場合にも、小林秀雄の文学批判をふまえて、
「小林秀雄以降において文学はいかにして可能であるか」
という問題が、小林秀雄以降の文学界のテーマとなったのではないだろうか。

そして、それがたとえ十分に認識されていなくとも、私たちが、
「小林秀雄以降において文学はいかにして可能であるか」
という問いから、自由になることはないだろう。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

ことばの「意味」にこだわると読めない三島由紀夫の恋愛小説にみるもの-「意見」や「思想」を持たない論理的な恋愛劇の登場人物たち-

2024-09-21 07:28:37 | 日記
三島由紀夫は、「思想」や「意見」を持たない人であったのかもしれない。

そのように考えると、「思想」や「意見」がないからこそ、逆に、いつでも、その時代の思潮に反対するような、逆説的な、反社会的な「思想」や「意見」をものの見事に操ることが出来たとも言えるだろう。

三島由紀夫が、自決する1週間前の『戦後派作家対談』のインタビューで、
「私は、十代の思想に立ち戻ってしまった。
『敗戦より妹の死のほうが、ショックだった』と書いたのは、ウソで、敗戦は非常にショックだったのです。
どうしていいかわからなかった。
政治のことはわからないので、芸術至上主義に逃げ、そこから古典主義に移行し、行きづまると、十代の思想にかえったのです」
と、述べている。
ここに、三島にとっての「思想」や「意見」が語られているようだが、三島は同じ対談でさらに、
「まず、天皇があって、それに忠誠を違ってゆくのではなく、自分に忠誠心が始めに在って、そのローヤリティーの対象としての天皇が必要なんだ」
と述べている。

これらの発言から、三島の天皇観について議論するつもりはなく、私が注目したいのは、これらの発言から、三島由紀夫が主体であって、天皇は客体であるという思惟構造である。

つまり、天皇、美学、美意識、芸術至上主義といった、いわゆる「思想」は、三島由紀夫にとって、正しいか正しくないかといった「内容」の問題として考えられているのではなくて、ただ単に「役割」の問題として考えられているのではないだろうか。

正しい思想や、間違った思想が在るのではなく、ただ思想を必要とする人間がいるという「だけ」だということが、三島由紀夫にはよくわかっていたように見える。

三島由紀夫の恐ろしさは、そのことを知り抜いていたというところに在るのではないだろうか。

三島由紀夫は、『反革命宣言』というエッセイを書いているが、このエッセイのタイトルが象徴するように、三島由紀夫の「思想」なるものは、すべて「反」(→前々回の日記で触れていますが)なのであり、それは、思想的なものに対する挑戦としての「反」なのであろう。

また、三島由紀夫に「思想」がないということは、言い換えれば、三島由紀夫が「論理」の人だということではないだろうか。

論理的思考が衰弱したとき、人はよく「思想」を作り出す。

「思想」とは、「論理的思考の挫折」であることも多いだろう。

三島由紀夫の小説が、無味乾燥な印象を与えるとすれば、それは、三島由紀夫のテーマが「論理」に在り、いわゆる生活や現実の問題には無いからである。

例えば、三島由紀夫は、好んで恋愛を小説の題材として使っている。

それほどドラマチックな恋愛ではなく、どちからといえばプラトニックラブに近い恋愛が多い。

しかし、その恋愛を記述する場合にも、三島由紀夫の主たる関心は、恋愛心理メカニズムの論理的分析にのみ向けられており、いわゆる恋愛のもたらす生活や現実の問題はほとんど最小限に抑えられている。

三島の最初の長編小説である『盗賊』のなかの登場人物たちは、ことばの「意味」を誰も信じていない。

登場人物たちは、ことばの「論理」だけで生きているため、ことばの「意味」こだわる人は忽ちのうちに、三島の論理的な恋愛劇に敗れるほか、ないのである。

「意味」を信じないということは、「内面」を信じないということであり、また、「自己意識」を信じないということではないだろうか。

ただ、三島由紀夫も「思想らしきもの」を主張しているようではある。

しかし、それはあくまでも、対抗思想であって、いわゆるテーゼではない。

つまり三島由紀夫の思想は、テーゼに対するアンチテーゼとしての思想でしかないのだろう。

だから、あくまでもテーゼを前提とした上の思想であって、それ自体が自立した思想体系たり得ているわけではなく、三島の思想とは、いわば、「反対のための反対」の思想でしかないのだろう。

だから、三島由紀夫を「反戦後」という思想や、晩年の「右翼思想」や「反革命思想」のみに拠って語ったり、三島由紀夫の問題を捉えることは出来ない、と私は思うのである。

問題は、三島由紀夫の思想の内容ではなく、
なぜ、三島由紀夫は単なる「反対のための反対」の思想ではなくて、「自立した思想」を語ろうとはしなかったのか、ということである。

三島由紀夫の小説の主人公たちもまた、自分の「意見」や「思想」を持っていない。

一見して「意見」や「思想」のように見えるものも、実は相手との関連性のなかに発生した、役割としての「意見」であり、「思想」でしかないのである。

このように、三島由紀夫に「思想」がないことは、三島由紀夫にとって批判されるべきことではない。

三島由紀夫が思想をその「内容」によってではなく、「役割」においてとらえているという意味からいうならば、思想を構築すること自体のなかに、批判され、否定されるべき自己欺瞞が在ると言わなければならないだろう。

危険な思想家が危険だというよりは、思想を持たない思想家が危険なのだ、と私も、思う。

それに、もし三島由紀夫が危険な思想家であり、危険な文学者であったとするならば、それは、三島由紀夫がファシズムやテロリズム、あるいは美や殉教の思想と関係していたからではないだろう。

それは、三島由紀夫がいかなる思想も相対化し、思想を単なる役割として捉える視点を獲得していたからでは、ないだろうか。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

見出し画像は、ある経済学者の先生が「良いと思います」とオススメされていた本を、
「経済のことはわからないので、芸術に逃げ、そこからも移行し、行きづまると、もともとの場所にかえってみた」のです、が楽しく拝読し始めている本です😊

......今回の日記の冒頭の三島のことばのパロディーですが😅


まだまだ、暑い日が続きますね😓

体調管理に気をつけたいですね☺

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

三島由紀夫が待っていた「告白」するに足る内容の挫折の到来-三島由紀夫の『檄』の一文から-

2024-09-20 07:13:38 | 日記
「待った」ということばが、なんと多く使われているのだろうか。

三島由紀夫の『檄』のなかに、

「われわれは4年待った。
最後の1年は熱烈に待った。
もう待てぬ。
自らを冒涜する者を待つわけには行かぬ。
しかし、あと30分、最後の30分待とう、共に起って義のために共に死ぬのだ」
という一文がある。

三島由紀夫の自決に際して、公表されたこの『檄』のなかの数行の文章で、三島由紀夫は、はじめて思い切り「告白」し、あれほど依拠してすらいた「告白の不可能性」をも捨てているようである。

(前回、前々回の日記のなかで)三島由紀夫や江藤淳が太宰治の魅力を認めながら、それを激しく嫌悪するのは、太宰治における自己欺瞞的な倒錯の論理を、許さないからであるが、この倒錯は、太宰治にのみあるのではなく、むしろ近代文学の存在根拠であるのではないか、ということや、
三島が『仮面の告白』で「告白」という形式への批判や作中人物と作者自身を同一視する者たちへの批判であることについて触れた。

しかし、三島はこの『檄』ではじめて心情を「告白」し、ある意味では、「告白」という近代文学の装置に屈服したといってよいようにも思われるのである。

その意味で考えるならば、この『檄』は、三島由紀夫にしてはめずらしい哀切な響きをともなっている。

その理由は、この『檄』のなかには「仮面の告白」ではなくして、単なる「告白」があるからではないだろうか。

告白とは、言語表現のなかに「私」が登場することである。

つまり、言語表現のなかに「私」が登場したことによって、言語表現それ自体が、論理的な自己矛盾を抱え込むことになった。

言い換えるならば、自己を語ること、つまり自己告白という表現形式は、常にその語り手の意志を超えたところで、自己矛盾を起こしているため、近代文学≒私小説は、この自己矛盾を内包したままに成長、発展してきたところがある。

また、この矛盾を徹底的に追求することが、近代文学のであり、私小説であった、といっても言い過ぎではないであろう。

そして、それを、批判することは容易であるが、それを克服することは、決して容易ではないのである。

三島由紀夫の生涯は、「批評」との闘いの生涯でもあった。

「批評」が「文学批判」に他ならないとするならば、三島由紀夫の文学的営為は、その批評を克服することが中心であった。

「三島由紀夫は、作家としてよりも、むしろ評論家としての方が一流である」という考え方があるが、このような考え方が、三島由紀夫の問題の、ひとつの傾向を捉えていることは確かであろう。

小林秀雄以降の作家たちは、小林秀雄の批評、つまり文学批判を避けることは難しいはずである。

しかし、実際には、多くの作家たちが、小林秀雄の批評とは無縁なところで、文学という形而上学に耽り、「批評の恐ろしさ」など知り得なかった。

当然、そのような作家と三島由紀夫は対立するのであるが、三島由紀夫は、小林秀雄以降の、小林秀雄の批評を模倣、反復しているに過ぎない、いわば「小林秀雄擬き」の批評家とも対立している。

なぜなら、三島由紀夫は、小林秀雄の「批評」、つまり「文学批判」を乗り越えて、文学の再建を試みる側の人だからである。

だからこそ、三島由紀夫は、かつて近代文学が依拠したであろう近代的な知のパラダイムに依拠するわけにはいかなくなった。

さらに、単に、小林秀雄的な文学批判を模倣し、反復するのはないとすれば、近代的な知のパラダイムを批判し、否定するだけで満足するわけにもいかないのである。

つまり、
「告白は不可能だ」という自覚の下で、つまり『仮面の告白』として、もういちど「告白」を行うことは、三島由紀夫の直面したパラドックスであったのだ。

三島由紀夫における「告白」から『仮面の告白』への視座の移動は、三島由紀夫の「文学批判」としての小林秀雄的な批評の地平から、それを内在的に反批判し、再度、文学の形而上学の構築に向かおうとする構えを示しているのではないだろうか。

しかし、結果的に、三島由紀夫もまた小林秀雄的な批評を乗り越えることは、できなかったのではないだろうか。

冒頭の「待った」という動詞をいくども反復する『檄』のなかの数行の文章を思い出してほしい。

三島由紀夫は、「待つ人」であった。

それは、三島が「主体性」の人ではなく、「関係」の人であったことを意味するのではないだろうか。

三島は、自立的存在ではなく、あくまでも他者との関係のなかでしか、存在しえない人ではないだろうか。

三島は、主体性が関係性のなかでしか存在しえないことを、言おうともしていた。

むしろ、三島由紀夫ほど強烈な「意志の人」はいないだろう。

つまり、三島由紀夫ほど主体的であり続けた人はいないだろう。

そして、主体的、意志的であり続けることが、いかに空虚であるかを、三島は思い知らされていたはずである

冒頭の
「われわれは4年待った。
最後の1年は強烈に待った。
もう待てぬ。」
という三島のことばを文学的コンテクストに置き換えれば、それは、三島由紀夫が、
「告白」のできる状況の到来、もっと言うならば、「告白」するに足る内容としての挫折の機会の到来を待っていたということである。

そのとき、作者三島由紀夫は、作中人物たらんてしていただろう。

しかし、作中人物になることの不可能を自覚したとき、三島由紀夫は、作品の内部においてではなく、実生活のレベルでそれを果たそうとしたのではないだろうか。

三島由紀夫の問題は、「美学」の問題でも、「倫理」の問題でもなく、「論理」の問題だったのであろう。

三島由紀夫の小説のなかの作中人物たちは、感情や生活に拠って生きるというよりも、論理によって生きており、論理によって破滅するようである。

だからこそ、私たちは、三島由紀夫を手放しで批判したり絶讃したりする前に、まずは、三島の強靱な論理思考のプロセスを追跡することからはじめなければならないのかもしれない。

三島由紀夫の死は、私たちに、今もなお、論理や思想を徹底的に突き詰めたとき、何がその先に待っているのかということを厳然と象徴しているようである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

原点を思い出して、ここ数回日記を描いています😊

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

「告白」という形式に依拠する近代文学への批判を込めた『仮面の告白』というタイトル-三島由紀夫の「仮面」の下-

2024-09-19 06:42:00 | 日記
三島由紀夫は『仮面の告白』の書き出しの一節なかで、主人公が、

「自分の生まれたときの光景を見たことがある」
と言い張り、周りの大人たちに笑われ、疎まれる場面を描いている。

しかし、言い張っている主人公自身も「自分が生まれたときの光景を見たことがある」という意見の事実問題にこだわっているわけではなく、むしろ自分自身の主張は正しくないことをわかっているようである。

『仮面の告白』の主人公は、自分の告白が正しいか、正しくないかを議論したいのではなく、このような突飛な意見が、周りの他人に対してどのような反応を惹起するのか、という役割の問題に拘泥しているようにもみえる。

三島由紀夫は、さらに続けて主人公に
「笑う大人は、たいてい何か科学的な説明で説き伏せようとしだすのが常だった。
そのとき赤ん坊はまだ目が明いていないのだとか、たとえ万一明いていたにしても記憶に残るようなはっきりした観念が得られたはずはないのだとか、子供の心に呑み込めるように砕いて説明してやろうと意気込むときの多少芝居がかった熱心さで喋り出すのが定石だった。
ねえねえ、そうだろう、とまだ疑り深そうにしている私のちいさな肩をゆすぶっているうちに、彼らは私の企みに危うく掛かるところだったと気がつくらしかった」
と語らせている。

この大人たちの過剰反応こそが、『仮面の告白』の主人公の告白であり、意見の目的である。

つまり、この主人公の突飛な意見の目的は、これら大人たちの過剰反応によって、十二分に達成されたわけである。

ところで、三島が、タイトルを『告白』ではなく、『仮面の告白』としたところに、三島由紀夫の視座が在るのではないだろうか。

三島は、「告白」を嫌っていた。

つまり、自己を語ることを嫌悪していたのである。

しかし、他方で、三島もまた、ともすると誰よりも、自己を語ることの好きな作家であった。

無論、ここには矛盾が在るが、この矛盾は、単に批判や否定をすれば済むという問題ではないことは明白であろう。

三島由紀夫が『告白』ではなく、『仮面の告白』としたのは、『仮面の告白』というタイトルを付けることによって、告白という形式に依拠する近代文学を批判し、否定したかったのであろう。

この告白批判は、小林秀雄の「批評」という名の文学批判とその問題意識を共有するもののようである。

小林秀雄は、「告白」というものについて『批評家失格Ⅰ』のなかで、
「どんな切実な告白でも、聴衆は何か滑稽を感ずるものである。
滑稽を感じさせない告白とは、人を食った告白に限る。
人を食った告白なんぞ実生活では、何の役にも立たぬとしても、芸術上では人を食った告白でなければ何の役にも立たない」
と述べている。

小林秀雄は、「告白」という形式それ自体が、必然的に滑稽になってしまうし、滑稽でない告白がどこかに在ると述べているわけではないのである。

ちなみに、小林秀雄以前の批評家たちは、「告白が正確であるかどうか」を問題にしており、「告白という形式それ自体を問題にしたわけではない」のである。

つまり、「正直に、そして正確に告白しているかどうか」という点に、文学価値の基準を置いていたのである。

田山花袋の『蒲団』などにはじまる「私小説」という近代文学の基本構造を否定したり、批判するだけでは済まなかった「告白」という形式それ自体の行き詰まり、という問題が、小林秀雄にいたってはじめて自覚されたということなのであろう。

文学批判としての小林秀雄の「批評」の意味は、要するに「告白」の不確実性の自覚以外の何物でもないのだろうから。
......。

さて、三島由紀夫は『仮面の告白』の月報ノートに
「肉にまで喰い入った仮面、肉付きの仮面だけが告白をすることができる。
『告白の本質は不可能だ』ということだ」
と書いている。

三島は「仮面」を被ることによって「素顔」を隠したのであろうか?

三島由紀夫の「仮面」の下には、はたして素顔が隠されていたのだろうか??

おそらくそうではないのだろう。

はじめから「素顔」などというものなど、どこにも存在していないにもかかわらず、私たちは、近代的な認識論的布石が作り上げた幻想にすぎないものを「素顔」だと思い込んでいるようである。

三島由紀夫が、
「告白の本質は不可能だ」
と述べているのは、「素顔」などというものはどこにもないと意味ではないだろうか。

私たちの『仮面の告白』の読み方を嘲笑するかのように、三島は、「私の文学を語る」というインタビューのなかで、
「自分に対するこだわりだけを『誠』と思っているのでしょう。

一度ぐらいこだわってみせないと、だれも信用しないですね。
僕の場合は『仮面の告白』でちょっとこだわってみせたら、たちまち信用を博したのです。
後はどんな絵空事を書いても大丈夫だ。

ところが、それを一生繰り返している人がいるから実に神経がタフだと思って感心している」
と語っているのである。
......。

三島由紀夫が『仮面の告白』で企図したことは、「告白」という形式への批判なのであり、作中人物と作者自身とを同一化する者たちへの批判なのであろう。

三島由紀夫が、「自分」に関心を持ちすぎる文学に生理的な嫌悪感を抱いていたのは、「告白」という行為につきまとう自己欺瞞が耐え難かったからではないだろうか。

それは、自分にこだわっているフリをすることへの嫌悪でもある。

確かに、「告白」という行為のみでは、人は、自分自身に直面することなどないのだから。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

日仏哲学会のあと、もう一度日本からベルクソンを考え直そうと思い始めています😊

(→日仏哲学会に参加して☺ in 南大沢)

まだまだ残暑が厳しいですね😅
体調管理に気をつけたいですね☺

今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。



三島由紀夫と江藤淳の太宰治批判からみる近代日本文学の存在基盤の問題

2024-09-18 06:37:12 | 日記
三島由紀夫は、『小説家の休暇』のなかで

「私が、太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ。
第一私はこの人の顔がきらいだ。
第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらいだ。
第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらいだ。
......(中略)......生活で解決するべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。
いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない」
と述べている。

このような太宰治批判を三島由紀夫がしたのは、太宰が(「病人」であるかどうかを別にして)、
ただ、「病人であること」の文学的価値を前提にして、病人であることを目指し、またそれを自慢しているからであろう。

私は、三島の文学を読むとき、彼の太宰へのこのような厳しい批判、さらに言うなれば、太宰への拘り方を、想起してしまう。

なぜなら、三島由紀夫の太宰批判のなかには、単に、太宰治という作家に対する好き嫌いを越えた、太宰治によって明らかになる三島自身の問題が含まれていたようにも思えるからである。

さらに言うなれば、三島の激し過ぎる太宰の批判には、太宰治に代表される近代日本文学の存在基盤の問題を明らかにしようとする意図があるのかもしれない、とも思う。

太宰治が、「治りたがらない病人」を演じ続けたのは、少なくとも文学の世界においては「病人」が価値であったからであろう。

読者は、太宰の文章に、しばしば、「病気そのもの」を見てしまいがちであるが、太宰の書く病気は「記号」であり、「実態」ではない。

言うなれば、太宰治の病気は、「演技としての病気」であり「本来の病気」とはかけ離れていたのである。

太宰も『人間失格』のなかで「ワザ、ワザ」ということばに、戦慄する主人公を描いているので、自らの「演技としての病気」を、どこかでは認識していたのかもしれない。

三島由紀夫が、太宰治を嫌うのは、太宰治のなかにある自己矛盾、そして、自己欺瞞を嫌うからであろう。

また、太宰治ほど自己矛盾を極限まで追求した作家は稀有であることは、事実である。

三島由紀夫の太宰批判と並べて、検討したいのは、江藤淳による太宰批判である。

このふたつの太宰批判に差異があるとするならば、ひとつが三島という「作家」の手によるものであるのに対して、もうひとつが江藤という「批評家」の手によるものであるというところだけである。

江藤は、『太宰治』のなかで、
「彼のなかには、甘ったるい悪い酒のようなものがあった。
あるいは『ふざけるな。いい加減にしろ』と言いたくなるものがあった。
『ホロビ』の歌を歌っていられるのは、まだ贅沢のうちである。
『ホロビ』てしまっても人は黙って生きていかなければならぬ。
『ホロビ』た瞬間に託される責任というものもあるからである。......(中略)......『暗ク』生きるのもまた贅沢のうちであり、どこかに他人が声をかけてくれないかという薄汚れた期待を隠している。
私が自分を見出した状態は、甘えるのも甘えられるのも下手な芝居のように思えて来るようなものだったので、私は結局『アカル』く生きることにした。
『アカルサ』を演じるというのではない。
深海魚のように自家発電をして生きるのである。
そのためには、太宰は役に立たなかったから、私は彼の作品を読むのをやめて語学をやり始めた」
と述べている。

太宰を嫌悪し、激しく批判した文学者は、三島由紀夫と江藤淳のふたりのように思う。

このふたりの批判には、近親増悪に近いものすら読み取れるのだが、三島由紀夫も江藤淳も、太宰治の魅力を十分認めているのではないだろうか。

認めた上で批判するからこそ、三島と江藤の太宰批判は、おのずと相当に厳しいものとなり、やや、感情的、生理的な反発となってしまうのではないだろうか。

気をつけたいのは、三島由紀夫が
「治りたがらない病人には病人の資格がない」
と言い、
江藤淳が
「私は図々しい弱者が嫌いである」
と言うのは、決して「病人」や「弱者」を批判しているのではないということである。

ただ、彼らは、
「思想としての病人」や「思想としての弱者」を批判しているだけ、なのである。

確かに、近代日本文学のイデオロギー体系のなかでは、「病人」や「弱者」が価値であった。

だからこそ、作家たちも好んで「病人」や「弱者」を描き、それを賛美した。

太宰治もまた、この近代文学的なパラダイムの中では、極めて優れた優等生では、あった。

しかし、問題はそこにあったのである。

太宰治は、「病人」や「弱者」を好んで描き、また、同時に彼自身も「病人」や「弱者」を演じ、そして、多くの太宰ファンは、「太宰作品のなかの作品人物」と「太宰治」を同一視したのである。

三島由紀夫や江藤淳が、太宰治の魅力を認めながら、それを激しく嫌悪するのは、太宰治における自己欺瞞的な倒錯の論理を許さないから、ではないだろうか。

しかし、この倒錯は、決して、太宰治だけにあるのではなく、むしろ近代文学の存在根拠にあると言っても過言ではないのかもしれない。

やはり、ふたりの文学者の太宰治批判は、太宰治によって代表される近代日本文学の存在基盤の問題を暗示しているのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日からまた日記を定期更新してゆきたいと思います。

また、よろしくお願いいたします😊

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

*見出し画像は、少し前に近所でたぶん撮影ロケ?をやっていた前後の光景です。