小林秀雄にはじまる近代日本の「文芸評論」という文学的ジャンルは、単に文芸のひとつのジャンルというカテゴリーには収まりきらないなにかを持っているように、私には、思われる。
それは、文芸という枠組みを大きくはみ出し、文芸評論という用語で呼ぶことが奇妙に感じられるほど、小林秀雄以後の文芸評論は、いわゆる文芸評論的な場所から遠ざかっているようである。
私たちが、小林秀雄や吉本隆明や江藤淳たち文芸評論家の文章を読むとき、いったい何に期待して読むのだろうか。
私たちは、小林秀雄、吉本隆明、江藤淳、秋山駿、柄谷行人のテクストに、単なる文学論や作家論を期待してはいないだろう。
私たちが、何を期待しているのかについて、柄谷行人は安岡章太郎との対談「アメリカについて」のなかで、
「日本の批評には、原理的にものを問うという姿勢があまりないでしょう。
批評というのは、ぼくは今文芸評論をやっていますけれども、こういうものをぼくは、べつに批評だと思わないのです。
批評という仕事は、何も小説なら小説というものには、限定されないものだと思うのです。
たがら、ぼくにとってマルクスをやることもやっぱり文学批評なんです。
といっても、文学的にマルクスを論じるという意味じゃない」
と述べている。
日本の批評に原理的にものを問うという姿勢がない、と柄谷が言うのは、柄谷が「文芸時評」的なものが文芸評論であるという前提に立っているからである。
無論、小林秀雄以降の文芸評論の良いところは、文芸評論それ自体が「文芸時評」的なものや「文学研究」的なものを越えて、原理的にものを問うという姿勢を持つようになった点であることを柄谷自身がもっともよく知っているだろう。
ただ、いまだに、文芸評論とは、「文芸時評」や「文学研究」の中にしかないと考えている文芸評論家たちは、多いように思われる。
そのような文芸評論家の文芸批評には、文壇のなかの役割としての文芸批評に自足して、批評を排除しようとすらしているところがあるため、批評が欠如しているのではないだろうか。
文芸評論とは何で、文芸評論家とは何者であるのかということについて、柄谷行人は廣松渉との対談「共同主観性をめぐって」のなかで、
「ぼくの偏見では、西田幾多郎を例外にすると、日本の哲学はむしろ文芸批評家にあったのではないかと思うのです。
西欧ではけっしてそうではない。
哲学者の方がすぐれた批評家だったといってよいかもしれません。
たとえば、ニーチェは、
『真理によって破滅しないために、われわれは芸術をもっている』といっている。
ぼくは自分の仕事を、その対象がどんなものだとしても、文芸批評の延長として考えています。
実際また、マルクスについて考えることにおいても、ぼくは批評家から学んできたのです」
と述べている。
ここで、柄谷行人は、日本の文芸批評は、原理的にものを考える、いわゆる哲学的な作業であるということを言いたいのであろうが、哀しいことに、私たちは、西洋哲学史上の有名人の名前を頻繁に引用したり、またそのような哲学者の思想にしきりに言及したりするような、いわゆる「哲学好き」の文芸評論家を思い浮かべがちである。
しかし、原理的にものを考えることと、哲学者の名前を引用することは、全く別のことではないだろうか。
秋山駿は、エッセイ「批評は芸術か」のなかで、
「批評とは何か。
私もかつてそのように尋ねたことがある。
指差して尋ねたが、答えを得ることはできなかった。
まだ、考えている。
だから、私は、自分が書いている文章を、批評文だとは考えないことにしている。
では何と考えるのか。
単なる一人の感想を述べたもの、と思っている」
と述べている。
秋山が、ここで「批評」ではなくて「感想」だというのは、「批評」ということばによって意味される、文字通りの文芸の評論としての批評を、そのまま受け入れることができないからであろう。
秋山は、別の場所で、自分は文学史に関する問題を扱うことが苦手だというようなことを言っていたが、実はそうではなく、批評というものの名において、文学史的問題に関わり合うこと自体が嫌いなのではないか、と思われる。
やはり、秋山駿という文芸評論家もまた、文芸のみに専心するような評論や、評論を拒絶しているといってよいのではないだろうか。
このことについて、秋山は、処女作であり、代表作である『内部の人間』の初版の「あとがき」のなかで、
「ここに収めたのは、私がこの3年間に書いた文章の三分の一、正確に言えば、昭和38年の夏から40年の夏にかけて書いたものの約半分にあたる。
ここに収めていないそれらの文章において、私は、文学の問題を考えた。
しかし、何故かそういう自分には滑稽を感じたので、見本だけ残して後は全部除外してしまった。
文学のことだけを考える文学というものが、私には奇妙に感ぜられる」
と述べているが、それから5年後の「新版あとがき」のなかに、
「この新版からは、以前の本の内容から『小説に何を求めるか』と『小説とは何か』という文学に関するエッセイの二篇を除いた。
その方が、最初に抱いた自分の意図というものを明らかにするからである。
最初の本の場合、私は、何か文学に関するものを、といわれ、さしたる理由もないままに異質なものを混じてそこに置いた」
と興味深い文章を付け加えている。
秋山が、自分の処女作か代表作である著書のなかから、文学論的な文章を頑強に排除しようとするのは、やはり、小林秀雄以後の文芸評論が、文字通りの文芸の評論というものでは、なくなっているからである。
文芸評論、あるいは批評とは、思考一般を指したことばであり、その思考の対象や素材は、何も文学に限定されるべきものではないのだろう。
しかし、大江健三郎がそうであったように、作家たちは、文芸評論家や批評家に対して、(主として小説であったのだが)文芸作品の解説や分析や研究のみを期待しがちであり、その挙げ句、「批評家無用論」といった理論すら出てきてしまったのである。
無論、秋山駿がそうであるように、文芸評論家の方は、必ずしもそう考えておらず、現に、小林秀雄以後、吉本隆明、江藤淳、秋山駿、柄谷行人といった
文芸評論家たちは、文芸作品の解説や分析や研究のみに専心してきたわけではなかっただろう。
大江健三郎の考える批評家像は、小林秀雄以前の評論家に対してはあてはまるかもしれないが、小林秀雄以後の評論家にはあてはまらないように、私には、思われる。
批評家小林秀雄の誕生は、「文芸」の評論としての批評からの離脱にあるのではないだろうか。
文芸評論は、小林秀雄の出現によって、文学論から世界論、ないしは存在論としての批評へと変容したようである。
そして、それと同時に文芸評論家も、文字通りの「文芸」の評論家から「思想家」あるいは「哲学者」と呼んだ方が相応しいような存在へと変容したようである。
そのような「考える」ということの具体的な実践の場所を小林秀雄は作り上げたのだろう。
それは、「学問」でもなければ、「ジャーナリズム」でもない、文字通り、「文芸評論」というジャンルだろう。
現に存在している哲学や思想のなかにもまた、文学や文芸評論と同じように、ある種の専門領域に閉じ込められ、それ自体が、非哲学的、非思想的な在り方をしているものもあるように見える。
文芸評論家が、「思想家」になったというとき、その「思想家」とはどういう思想家なのかについて、柄谷行人は『ソシュールと現代』のなかで、
「ぼくがソシュールに興味を持ったのは、言語学に関心があるからではなくて、ソシュールが言語について言語学という科学がもたないようなつきつめた考えをもっているように見えたからです。
マルクスの経済学についてもそう思うのですが、『資本論』のほかにマルクスの「哲学」があるのではないと同様に、ソシュールの言語学はそれ自体、言語についての学問などという意味以上のものをはらんでいるように思われるのです。
つまりソシュールはマルクスやニーチェと同様に思想家なのだと思うのです」
と述べている。
私は、小林秀雄以後の文芸評論家が「思想家」に変貌したというのは、柄谷行人がソシュールについて言っているのとほぼ同じ意味で考えられた「思想家」のことである、と、思う。
小林秀雄以後の文芸評論家たちが、「思想家」と呼べるような存在へと転換したのは、彼ら/彼女らが、文学作品の分析を通じて、文学という問題を越えた、ある基礎論的な問題を問うような存在へとと変身したからではないだろうか。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。