おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

ソウル・アリンスキーの『過激派のルール』(1971)が教えてくれること-私たちが直面していることについて考える⑲-

2024-02-21 06:35:16 | 日記
人柄や戦略の点で、ソウル・アリンスキーとマーティン・ルーサー・キングほど、かけ離れて見えるリーダーも珍しいかもしれない。

アリンスキーはどちらかというと強引で、人を苛立たせるような対決姿勢をとり、
一方、キングは、何でも受け入れるような包容力があった。

しかし、2人とも、不利な状況でも勝利を収め、真実によって権力を打ち破るユニークな才能に恵まれていた。

また、2人とも、自分の民衆運動に幅広く人々を迎え入れようとした。

キングは、黒人の公民権を要求する運動家として活動を始めたが、最終的にはあらゆる人々の人権を求める運動家として活躍した。

一方、アリンスキーは、白人のコミュニティから活動を始めたが、人生のかなりの部分を黒人のコミュニティでの運動に費やした。

2人とも弱者を守り最前線で汗を流した。

また、2人とも、個人的・政治的危機に恐れることなく立ち向かいながらも、状況を多角的に捉え、短期的な戦術と長期的戦略のどちらを考えることも同じくらい得意であった。

アリンスキーもキングも、モーセのように遠くから約束の地を見ることは出来たが、
そこに辿り着くことはできなかった。

そして、2人は多くの小さな闘争には勝ったが、なかなか大きな戦いでは勝てなかった。

2人に共通の悲劇とは、
アメリカの様相を一変させ、偽のポピュリズムの支配を防ぐことが出来る幅広い連合を打ち立てる前に亡くなってしまったという事実である。

キングは、雄弁な人格者で、広い心を持ち、名声を得ていた。

しかし、暗殺によって未来の時間が奪われてしまった。

アリンスキーが及ぼした影響は、彼の生存中もその後も大きかったが、より限られた状況と狭い領域にとどまり、その手法は、アリンスキー自身が1番嫌っていた有力者たちに最も活用されたのである。

ところで、
ソウル・アリンスキーは、マーティン・ルーサー・キングより、ずっと知名度は低かったが、もっと広範囲にわたって、現在の政界に(ただし、アリンスキーの心を挫くような歪んだかたちで)影響を及ぼしてきた。

アリンスキーによるコミュニティ組織化の素晴らしい手法は、弱者が強者から公平な扱いを受けられるように考えられたものだったのたが、
実際は、強者によって、弱者の位置を現状のままに留めておくために取り入れられたのである。

私は、アリンスキーの手法が正しい理由で正しい人々に確りと用いられたとき、非常に効果的だと思っている。(→コミュニティにおける精神保健プログラムなどは良い例である。)

アリンスキーは

「マキャベリの『君主論』は、いかに権力を保つかについて、「持てる者」に向けて書かれている。
だが、『過激派のルール』はいかに「持てる者」の権力を奪うかについて、「持たざる者」に向けて書かれている」
と述べた。

1971年、アリンスキーは亡くなる直前に、『過激派のルール』と題した書籍を出版した。

これは、コミュニティを組織する者に向けた10章から成る手引き書で、彼の30年にわたるコミュニティの組織作りの手法、つまり、ボトムアップで少しずつ世界を変える方法、の詳細を凝縮したものである。

アリンスキーの非凡さは、人々に自分の運命は自分で決めるよう後押しをしたことにある。

そのために必要な前提条件について、アリンスキーは、

「戦術がいくら独創的であっても、また戦略がどれほど抜け目のないものであっても、人々の信頼と尊敬を勝ち取らなければ、戦いを始める前に負けが決まってしまう。
それらを勝ち取る唯一の方法のは、
あなた自身が人々を信頼し、尊敬することである。」
という明確で説得力のあるアドバイスをしている。

コミュニティに力を与えるアリンスキーの取り組みは、暴力は用いなかったものの、きわめて対決的な姿勢をとっていて、多くの点において、キングの取り組みとは正反対だったともいえる。

アリンスキーは、集団意識によって、コミュニティを団結させ、メンバー間の類似点と、敵対するものとの大きな違いを強調した。

一方キングは、敵との共通点を見つけようとした。

アリンスキーは、共通の敵に対する敵意を通じて、コミュニティの団結力を強めるような争いを引き起こす方法を模索していた。

それに対して、キングは、そうした挑発を認めず、争いを減らす方法を求めていた。

アリンスキーは敵を倒すことを目指していた。

一方、キングは敵と協力したいと思っていた。

アリンスキーはコミュニティの意識をひとつにするために悪者を必要とした。

しかし、キングは、悪者はいないとし、彼らは一時的に間違った方向に導かれただけで、今後友人になれるかもしれない人々である、と考えた。

2人とも広く周知された非暴力のデモを展開し、デモに対する暴力的な過剰反応を利用した。

しかし、キングの目的が敵に羞恥を覚えさせ、善良な仲間に引き込むことであったのに対して、
アリンスキーの目的は、敵に屈辱を与えて降参させることであった。

アリンスキーの『過激派のルール』は、確かにマキャベリの説に似た雰囲気もある。

しかし、アリンスキーのアドバイスは、君主ではなく一般市民のためになるように書かれたものである。
以下は、アリンスキーのアドバイスをまとめたものである。

1.あなたは、実際に持っている力だけではなく、敵が想定するだけの力をも持っている。

2.人々の力は、金の力と戦える。

3.あなたの得意分野で敵と戦え、敵の得意分野で、敵を戦わせるな。

4.嘲りによって敵を小さくすることができる。

5.楽しんで実行できる戦術なら皆が従い、うまくいく可能性が高い。

6.敵に圧力をかけろ

7.敵は、防御の方法を変え、戦略を変えてくるものであるから、敵より一歩先を行け。

8.敵の暴力によってあなたには友人が出来る。

9.ターゲットを選び、孤立させて戦いを挑め。

10.人は組織より喪速く倒れる。

アリンスキーは、力の無い者が、力を持つ者の略奪から、身を守れるようにするという正義に人生を捧げた。

力を持つ者が、力の無い者に対する支配をさらに強めるために、アリンスキーの方法を組織的に採用してきたことは、実に、悲しい皮肉である、と、私は、思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

なんだか、またまた、暑苦しくい長文になってしまいました......すみませんm(_ _)m

昨日は、異様なまでに暑かったのに、今日は冬に戻るようです、なんて最近の気候変動はおそろしく、気温変動はいそがしいのでしょうね^_^;

体調管理に気をつけたいですね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

包容力のある愛情に根ざしたキングのポピュリズム-私たちが直面していることについて考える⑱-

2024-02-20 07:08:00 | 日記
現在における偽のポピュリズムに対する唯一の解毒剤は、
未来における本当のポピュリズムであろう、と思う。

私は、恥ずかしながら、トランプが登場するまで、ポピュリズムについてまともに考えたことは、1度もなかった。

しかし、トランプによって世界が表情を変えるさまを眼の前にして、私のように傍観者を決め込まず、むしろ自ら動いた過去の人々について尊敬の念を抱くとともに、まず彼ら/彼女らについて知ろう、と思うようになった。

知れば知るほど、彼ら/彼女らは、踊らされるどころか、むしろ自ら美しく踊っていた。

密になり、速くなる世界のなかでは、私たちに、ゆったりと傍観者を決め込んで、誰かが助けに来てくれることを待つ時間はあまりないのかもしれない。

また、政治プロセスを退化させる二極化を覆すことが出来るプログラムによって、
私たちを惑わす安易なスローガンに対抗しなければならなくなってきたのかもしれない。

ところで、
マーティン・ルーサー・キングは、ワシントンが18世紀に、リンカーンが19世紀に果たした役割を、20世紀に果たした。

キングは
平和を愛する者は、戦争を愛する者と同じくらい効果的な組織づくりを学ばなければならない」
と言った。

彼には、ものを見る目、聞く耳、感じる心を持つ人に訴えかけるような力が備わっていた人である。

キングは、黒人の公民権を要求する運動家として活動を始めたが、最終的にはあらゆる人々の人権を求める運動家として活躍した。

また、彼は、個人的・政治的危機に立ち向かう際、状況を多角的に捉え、短期的な戦術と長期的戦略のどちらを考えることも、同じくらい得意であった。

キングは、差別を助長するレイシズムという悪と戦ったが、
レイシストたちを、理解も、今後、協調も出来ない相手だと決めつけていなかった。

むしろ、レイシズムを実践する者は、ある意味でその被害者であるとも言えることから、キングは、レイシストたちがターゲットとする人々を解き放つと同時に、レイシスト自身をもレイシズムという偏見から解放したいと願っていた。

敵に対する憎しみは、運動だけでなく、憎しみを抱く人自身をも破壊してしまうからである。

キングは、早すぎる死を迎える前に、経済、社会、性別に関わるあらゆる形の不平等を無くし、ベトナム戦争を終わらせることを目的とした、きわめて幅広い連合を作ろうとしていた。

だが、労働運動の強力な支援者であったキングは、メンフィスで清掃労働者のストライキ支援に参加しようとしたところを銃撃されてしまったのである。

今、キングが生きていたら、社会の不合理で不条理な幻想に対抗しながら、やはり民衆の幸福や未来のために戦っているであろう、と、私は、時折、想像してしまう。

キングが移民のためにデモ行進をし、ウォール街占拠運動にも加わっているだろう。

また、銃の被害者家族を慰め、NRA(全米ライフル協会)を恥じ入らせるかもしれない。

さらに、住宅差し押さえに遭っている人々を守り、彼ら/彼女らの苦境に救いの手を差し伸べるように銀行に呼びかけるかもしれない。

多国籍企業から環境を守ろうともするだろう。

そして、国民に発言の機会を与えるだろう。

キングが生きていたら、という私の想像にはキリがないのでこのあたりにしておくのだが、
キングが生きていたら、
今や聞き慣れてきてしまった自らの利益を図るような言葉とは違う国民の声が、聞けるはずである。

確かに、キングの
「愛は敵を友人に変えることのできる唯一の力である。
憎しみに憎しみで応じていては、決して敵を一掃することは出来ない」という言葉は、現実的ではないように思える。

しかし、キングは実践的なノウハウや心理面の理解、組織化のスキルと理想主義を組み合わせ、その運動は効果を発揮した。

彼の基本的な手法は非暴力の大規模な民衆デモで、その様子は、全米のテレビ画面に映し出された。

眼の前で繰り広げられる受難劇のような行進の様子は、アメリカに潜む人種意識を刺激したのである。

キングは当初から自らが道徳的に正しいことを主張し、その主張を決して捨てることはなかった。

白人の差別扇動家たちは、彼の人間としての尊厳を揺るがすことはできなかったし、短期で攻撃的な若い黒人の活動家たちも、キングに対して明らかに挑発的な戦術を採るように迫ることはなかった。

マーティン・ルーサー・キングは特別な存在だと、私は、思う。

彼の誠実さは、偽善に切り込むことを恐れず、その高潔さは、欺瞞をあらわにした。

また、彼の善良さは悪を辱める、彼の明快な表現は政治の世界だけで通じる意味をなさない言葉たちに打ち勝ったのである。

だが、キングは、彼がいなければ一致することがなかった人々の信条を、本来の意味でのポピュリズムというひとつの幕屋のもとにまとめ上げることが出来たために、エリートと「呼ばれる」一部の人々には特に危険な存在であった。

数の上でも、共同する取り組み方においても、相乗的な力が発揮されていたからである。

キングの暗殺は歴史の転換点となった。

それは、さらに重要となるはずだった、彼のライフワークの第2章が道半ばで終わることになったからである。

キングの道徳的な力は、アメリカのあらゆる領域に存在する不正に及んでいた。

多数の人々を動員する彼の実践的なスキルは、アメリカをもっと違った、より生産性の高い方向に導いたかもしれない。

また、健全で思い遣りのある彼のポピュリズムは、今日のアメリカをある意味支配しているティー・パーティーによる逆行的な偽のポピュリズムに打ち勝って広まっていたことであろう。

包容力のある愛情に根ざしたキングのポピュリズムの影響を受けた世界に、憎しみと搾取、そして分断など入り込む余地はない。

マーティン・ルーサー・キングのような人物の登場は待ち遠しいが、待つだけにしてはあまりに長い時間を浪費してしまいそうである。

なぜなら、彼の登場は1世紀に1度(あるかないか)しかない現象だったからである。

しかし、私たちは、キングを思い出すことで、ふたたび、気持ちを奮い立たせ、彼の手法に学ぶことが出来るのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

朝から暖かい、いやいや、温かすぎるよね......(・_・;)という気温に、驚いています^_^;

何かは着なければならないのですが(→当たり前)、
本当に今年は(→去年も?毎年??、気温のせいにしていますが、今年は特に)服のレパートリーが狭すぎる私は、いきなり気温に変わられても、何を着るのかに困ります^_^;

明日は、また気温が下がるというので体調管理に気をつけたいですね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

ダーウィンも「不適切にもほどがある!」と言われたのかもしれない-私たちが直面していることについて考える⑰-

2024-02-19 06:59:46 | 日記
今も昔も、多くの人にとって、ダーウィンの実証論的な心理学を受け入れるのは、やはり、難しいようである。

確かに、全生命の受難劇でステージの中央で主役を演じているわけではないと知らされ、
実は、私たち人間が生きることと増えることに苦労する霊長類の一種としての役であることを認めることは、あまり面白くないかもしれない。

また、人間には確りとした自由意志があり、行為すべてを意識がコントロールしているという幻想を失うことも、不愉快に感じる要因かもしれない。

しかし、ダーウィンは、
生命の木の言いようもない複雑な進化に、万物に宿る神のようなものの偉大さを見出してもいたのである。

人間が持っている動物の心を理解することは、
人間の生存に今、必要とされるものに向かうための潜在的な力になる。

急速に変化する人類生存の問題を抱え、機転を利かせた素早い行動が求められる世界で、
「知らぬが仏、知るが煩悩」と私たち人間の裡に在る動物の心を見て見ぬふりをすることは、幸せなことでも、喜ばしいことでもないのである。

パウロ・コエーリョは
「幸福とは、私たちの遺伝システムが、その唯一の役割である種の存続を果たすために、私たちに仕掛けるひとつのトリックにすぎない」
とさえ述べている。

ところで、1838年、ダーウィンはほぼ同時に2つの偉業を成し遂げた。

進化の仕組みを突き止めたのとほぼ同時に、進化が人間の心理に与える影響を発見したのである。

ダーウィンの理論は、素晴らしく明快な理論であり、驚いたことに、彼より前に誰1人として、バラバラのピースをつなぎ合わせた者はいなかったのである。

多様性豊かな生命の姿は、自然選択と性選択の相互作用によってもたらされる。

偶然に発生した、環境に対する適応性と増殖する能力の高い変異体は、優先的に次の世代に進み、やがて優位を占めるようになる。

ダーウィンもドラマのタイトルのように「不適切にもほどがある!」と言われたのかもしれない、いや、言われたであろうし、言われたなどというものではない。

今も昔も、この世界のどこかで、は、袋叩きレベルの扱いを受けているだろう。

(私も、いかにダーウィンの言葉であれども、大まかに理論がわかれば良いとし、今の時代、「不適切にもほどがある!」と評されそうな部分は以下、(中略)とする、ことにする。
また、ダーウィンの理論の解説を真面目にしているだけなので、誤解なきよう......。)

ダーウィンによれば、人間の存在は、神の介入を受けてすでに予定されていたものでも、目的を持ったものでも、導きを受けたものでもないようである。

自然選択が進化を促す仕組みについては、今や多くの人が知るところとなった。

一つの種に存在する変異体の中で最も環境に適応したものが最終的に繁殖の競争に勝ち、その子孫が地球上での小さな居場所を受け継ぐ。
また、彼ら/彼女らが生きられるのは、少なくともさらにうまく環境に適合した変異体に居場所を奪われるまでの間である。
......(中略)......
......要はダーウィンは、環境によく適応した遺伝子が残るということを言いたいらしい。

また、自然選択は一様であることが好まれる。

例えば、ある一つの種に属する鳥はすべて、ほぼ同じ長さの翼を持つ傾向にある。
それは、その鳥の飛び方にちょうど合った長さだからだ。

また、嘴が同じ形をしているのは、その鳥特有の獲物を食べるのに最も効率が良いからである。

一方で、性選択が、ひとつの種の中で、いかに幅広く変化に富んだ違いを生み出しているかについては、あまり知られていない。

このことを説明したのは、ダーウィンが初めてだった。

ダーウィンは、
「性選択の原則を認める者は、神経系が身体の既存の機能の多くを整えるだけではなく、
さまざまな身体構造と、ある種の精神的気質の漸進的発達に間接的な影響を及ぼしてきたという、注目すべき結論に達するだろう。
勇気、好戦性、忍耐力、体力、体格、あらゆる種類の武器、発声および器楽的な音楽器官、明るい体色、装飾的な付属器はすべて、雌雄のどちらか一方が相手を選ぶことによって、愛情や嫉妬の影響を受けることによって、また音や色、形の美しさに魅せられることによって、その相手が間接的に獲得することになったものだ。
そして、そうした心の能力は、明らかに脳の発達に依存している」
と言った。

ダーウィンの洞察は、動物の心が進化の産物であるだけではなく、それが進化の最も重要な原動力のひとつであるという点にある。

人間の精神的特質のある部分は、
環境上の問題に対処する自然選択という戦いを、私たちが競えるようになるために進化した。

その他の精神的な気質は増殖をめぐる戦いの方に役立つもので、
確実に個人が生き残るためと言うより、生きて増えてゆくことを促すものである。

人間が、言語や喜劇、音楽、芸術的能力を進化させてきたのは、ある面では、それらが、贅沢な健全さの指標だったから、であろう。

相反しているように見えるがそうではない。

私は、進化の驚くべき点は、変化に対する愛情と、多様性に対する寛容さだと思うのである。

何兆回も繰り返し進化のサイコロを転がした結果、
シェークスピアやレオナルド・ダ・ビンチが生まれるとともに、ヒトラーのような人間も生まれた。これもまた、事実である。

ある一つの種の生存期間や、その種が最終的に避けられない消滅を迎えるタイミングと原因は、予め厳密に決められたものではなく、むしろきわめて多くの変異の間に生じる複雑で、偶発的な相互影響によって生まれてくるのである。

サイコロの転がり方によって、人類がどのような進化をしてゆくのか、誰にもわからない、から、進化は神秘的なのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

最近、私は、「不適切にもほどがある!」というドラマの存在を知り、昨日少し、見てみたのですが、
「えっ、今、これ言っちゃダメなの!?」
「えっ、今、これやっちゃダメなの!?!?」
と、勉強になってしまいました^_^;
えっ!?(;゜ロ゜)の連続でした。

急に、ダーウィンが、発見してから35年間、「今までの常識に著しく反する」進化論を引き出しにしまい続けた気持ちがわかった気がし始めました。

そして今日のタイトルとなりました^_^;

読んで下さりありがとうございます( ^_^)

今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

精神療法家に政治家が学べること(後編)-私たちが直面していることについて考える⑯-

2024-02-18 06:28:42 | 日記
トランプの台頭は、世界にとって、まったく予測できなかったことではないだろう、なぜなら、彼の台頭は少なからず、私たちの精神を映し出したものであるからだ。

フリードリヒ・ニーチェは、

「狂気は個人にあっては稀有なことである。
しかし、集団・党派・民族・時代にあっては通例である」

と述べている。

私たちが、トランプの大統領としての適格性に疑問を投げかける議論をすることは、思いのほか簡単であるかもしれない。

しかし、トランプを大統領に選び、さまざまな問題が指摘されながらも、再び、トランプを大統領に選ぼうとする社会に対して、私たちはあまりにも議論をしようとしていないように、私は、感じる。

ところで、
精神療法家が、最初に行う最も重要なことは、患者の立場に身を置いて考えることである。

「自分がこの人の状況にいたら、私もこの人のように行動し、考え、感じるかもしれない」
という前提に立つことから始めるのである。

私たちは、各々、細かい部分に違いがあるとはいえ、大まかなところでは基本的に皆同じ人間なのであるから、
似たようなニーズや不安、欲求不満を抱え、似たような形で人生の危機に対処している。

また、認知と神経科学の研究から、政治的保守派の人々は、恐怖を感じる状況により強い反応を示す傾向があることがわかっている。

トランプの支持層が、(例えば、銀行員や実業家に)限られていたならば、彼は、勝利を収めることは困難だったであろう。

しかし、トランプは一般市民の熱烈な支持を得て勝ったのである。

確かに、彼ら/彼女らの利益を満たすという点では、民主党の方が優れているかもしれないが、
共和党の方が、彼ら/彼女らの心理をよく理解していた。

民主党がもともとの支持者を失ったのは、彼ら/彼女らを理解し、理会する努力を怠ったからである。
一方、共和党は、民主党より優れた心理学者となり、巧みなセールスパーソンになり、もともと共和党支持ではなかった有権者を獲得したのである。

つまり、どちらも選挙に勝って、国を治めるためには、
「自分がこの人と同じ状況にいたら、私もこの人のように行動し、考え、感じる」かもしれないという前提に立てる政治家、心理学者、セールスパーソンにならなければならないようである。

精神療法において、精神療法家と患者の協調に必要なことは、
政治家と私たちの効果的な協調に必要なことでもある。

以下は、精神療法における基本的なルールなのであるが、
一通り読んだ後、「精神療法家」を「政治家」、「患者」を「有権者」に置き換えて読み直してみてほしい。

・精神療法家は誠実であること、また患者にも誠実であるように促すこと。

・精神療法家は患者との強い絆を築かなければ、患者を助けることはできない。

・精神療法家は患者の言葉づかいで話をする。

・精神療法家は患者の話をよく聞き、患者が精神療法家から学ぶのと同じくらしい多くのことを患者から学ぶように努める。

・精神療法家の努力すべてが患者本人に向けて行われていることを、患者にわかってもらう。

・共感と信頼が治療に最も必要な要素である。

・痛みや恐怖、怒り、落胆を自由に表現するように、患者を励ます。

・患者のニーズと、患者がそれをどのように満たしてほしいと感じているかを確認する。

・現実的な目標と期待について語り合う。

・性急な判断をしない。

・徐々に希望を持たせる。

・事実や数字を示すよりも、比喩やイメージ、例え話を用いる方が有効である。

・精神療法家が自分の感情を意識し、それを効果的に活用する。

・治療中の何もかもが、同じ重みを持つわけではない。
精神療法で語られた内容の10
%に満たないことが、患者の変化の90%以上に貢献することもある。

精神療法家は、患者が潜在的に持つ変化への転換点に常に注意し、変化を起こすためにできることは何でもする。

これらのルール(の構造)と置き換えからわかることは、
確かに、ごく一部の偉大な政治家は、生まれながらにしてこのルールを本能的に体現できる素質があるのかもしれないが、
大部分はそうではないはずだ。

しかし、よい政治家が、精神療法のアプローチ(このルールが良い例である)を役立て、精神療法のアプローチから多くを学び、得て、有権者との日々の取り組みに活かせば、さらによい政治家になると、私は、考えている。

ただ、精神療法のアプローチは役立つヒントではあるが、それ以前に、
まず、同じ人間として、
有権者が、政治家にニーズや不安を無視をされたり、何も聴かずに誤解されたり、平気で嘘をつかれたり、したときに政治家自身ならどう感じるか、を想像してほしい、と、思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

アレクセイ・ナワリヌイ氏が、2024年2月16日、収監先の刑務所で亡くなりました。

ナワリヌイ氏は、
「もしあなたが、暗殺されてしまったら?」と問われた際、

「あきらめないで」

という趣旨のメッセージを英語とロシア語でのこしていたようです。

ナワリヌイ氏死亡のニュースを知ってからの2回「精神療法家から政治家が学べること」を前編と後編に分けて描かせていただきました。

世界がかつてないほど、密に繋がった今、
トランプが再選されて、アメリカが孤立すると、その結果、
世界の政治と経済、そして国際秩序に極度の混乱が生まれることは、想像に難くなく、また現実味を帯び始め、世界に緊張が走っています。

その混乱に、私たち日本人も否応なく巻き込まれていっています。

誰しもが、今すぐに、解決することなど無理ですが、まずは、「あきらめずに」問題に対峙するために、問題を認識することが大切なのではないかなあ、と、私は、思っています。

前編、後編と2回にわたりお付き合い下さりありがとうございました。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

精神療法家から政治家が学べること(前編)-私たちが直面していることについて考える⑮-

2024-02-17 06:36:53 | 日記
国連事務総長のアントニオ・グテーレスは、精神分析者の妻から、心理学が持つ政治的な価値を学んだ。

グテーレスは
「妻は、私の政治活動すべてに、きわめて有益なことを教えてくれた。
2人の人間が一緒にいるとき、そこにいるのは、2人ではなく6人である。
おのおの自分に加え、おのおのが自分考える自分、そしておのおのが考える相手の6人である。

人間に当てはまることは、国や組織にも当てはまる。

それぞれのシナリオにおいて、鍵となるさまざまな関係者と関わる際、
事務総長が果たす役割のひとつは、こうした6人を2人にすることである。

すなわち、誤解と間違った認識が消えるようにすることだ。

認識は政治において核心を成している。
政治においては、6人を2人にするということにとどまらない。
難題に対処するためにひとまとまりとなって活動出来るように、何百人という人々を取りまとめる仕事が多いのである」
と述べている。

未来において決定的に重要な政治家の仕事は、
人々が国の問題を解決するためにひとまとまりとなって活動できるように各国内で人々を団結させること、
また、世界中の国々が、世界の問題を解決するために、ひとまとまりとなって活動出来るように国々を団結させることであるのではないだろうか。

ところで、精神療法家と政治家には、多くの共通点があり、
影響を及ぼす範囲は大きく違っていても、
目標や手法は、極めてよく似ている。

両者とも、明言されることも隠されることもある動機を理解し、それらに訴えかけることによって相手の態度や行動を変えようとするのである。

精神療法家が1度に1人の患者に働きかけるのに対して、政治家は何百万という人々に影響を与えるが、両者が持つスキルはよく似ている。

さまざまな問題が表面に現れ、悪化をしている現在の世界を治そうとする政治家には、精神療法的アプローチが有効かもしれない。

精神療法家が、妄想(→精神医学において「妄想」とは、「強固に維持された揺るぎない誤った信念であり、決定的な証拠や理性的議論による修正にも抵抗するもの」と定義されている)を抱く患者に対して、その患者の信じているものが間違いで自滅的であることを証明しようとして、事実に基づいた議論を行うことは、まず、ない。

いかにその妄想が荒唐無稽で、有害だとはたから見えたとしても、
その妄想は、患者がつらい現実の埋め合わせをする手助けをしてきたのである。

妄想が、間違いで、害を及ぼすものだからといって、患者は容易に妄想を捨て去ることができるものではない。

先走って患者に現実を押しつけようとすると、患者は怒りや不安、困惑を感じ、さらに強固に妄想を抱いて、精神療法家と共に治療に取り組む意欲を無くしてしまう可能性がある。

真実は、人を自由にすることもあるが、患者の側にそれを聞き入れられる準備ができていなくてはならないのである。

そしてその真実は、正しいタイミングと方々で伝えられなければならない。

良くない状態にある社会を、ゆっくりと穏やかに、世界の現実に直面させるために、政治家は精神療法家と同様の戦略が必要になる、と、私は、思う。

社会が抱く幻想や妄想(→先に挙げた、精神医学における「妄想」の意味で用いている)は、それを広め信じる者にとっては、有益な目的を果たすことがある。
そして、それが世界にとって誤ったものであるからという理由だけで、捨て去れるものではない。
社会が抱く幻想や妄想にも、原因や理由があるからである。

また、勇気を持って事実に向き合うように有権者(→社会∋有権者、有権者は社会に属する、または含まれる≒社会∋有権者と以下、用いる)
に素直に呼びかけたとき、政治家は選挙に負けることがある。
ジミー・カーターの「社会の沈滞(malaise)」と呼ばれたテレビ演説がその例だ。(→この演説の正式なタイトルは「A Crisis of confidence(信頼の危機)」である。)
1979年、カーターは、この演説の中で、
アメリカ国民は、エネルギー危機の中で、自信失い、共通の目的を失っていると指摘してしまったのである。(→もちろん、エネルギー問題の解決策も提示はしているのだが......やはりいつの時代も人間は誰しも、つらいときに、残酷な現実や真実ばかり突きつけられたくないものなのである。)

それに対し、トランプがかつて勝利した際の秘密兵器は、
現実や真実を見せることではなく、政治的に社会の幻想や妄想を訂正せず、むしろ育ててしまう手法だった。

トランプは不安や恐怖を巧みに利用し、さらに社会∋有権者の長年の不満を汲み取って、自らが救世主の再臨であるかのようなイメージを人々に売り込んだ。

つらい時代のなかにある人々は、不安と恐怖から、トランプを見はじめた。
そして、トランプに期待する人は増え、前回の勝利があったという側面は否めない、と思う。

ただ、社会∋有権者の心を利用する政治家たちに私たちはどうすれば良いのか、
また、政治家と有権者はどうあれば良いのかについて、確たる答えは出ないであろう。
しかし、精神療法のアプローチは役に立つヒントを必ず与えてくれると、私には、思える。(ので、次回に、続く。)

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

私たちが直面していることについて考えるシリーズの中ですが、
精神療法家に政治家が学べること、というタイトルで、前編と後編で描きたいと思います。(中編はない、と思います......。)

いつもながら、ご存知の通り、私は、要領が悪いので、またまたややこしくてすみません......^_^;

良かったら読んでやっていただけると嬉しいです(*^^*)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。