おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

DSM-5が「バイブル」になってしまうまで④-DSM-3RからDSM-4まで-

2024-07-25 07:03:49 | 日記
DSM-3RがDSM-3からDSM-4までのつなぎ、どころか、誤りであり混乱のもととなってしまったことからいえることは、
「診断は、研究が追いつくために、それまでその場に留まらなければならない」
ということなのかもしれない。

ごく一部の閉ざされた専門家の思いつきに基づいて、記述精神医学の模様替えを繰り返したり、新しい診断を次々に作ったり、既存の診断のハードルをむやみやたらに変えたりしても、意味がなかったのである。

DSM-3では、必要であった方法は、DSM-3Rでは適切ではなかった。

精神疾患の原因と、それを定義して治療する最善の方法をずっと深く理解できたわけではないのならば、診断の変更はごく僅かにとどめるべきであったのだろう。

やむを得ないことではあったのだが、DSM-3は、もっぱら専門家たちの頭の中から生まれ、スピッツァーによって「マニュアル語」に翻訳された。

DSM-3Rにおいては、いっそう慎重な態度、いっそう厳格な基準、いっそう客観的な意見が必要であり、「変化のための変化」は、必要ではなかったのである。

診断のインフレが、動かし難い現実となるのはまだ何年もさきであったが、危険の気配は漂い始めていた。

DSM-3Rが発表された1987年に、抗うつ薬のプロザックも世に出た。

プロザックの売り上げが急増した理由の少なくとも一部は、DSMによる大うつ病性障害の定義が、ずいぶんと曖昧だったからである。

向精神薬は、巨大な市場を作る可能性があり、売り上げはDSMの決定に大きく左右され得るようになっていたのである。

肝心なことは、診断システムが、知らず知らずうちに、製薬企業のマーケティングの道具になってしまうことのないようにすることであろう。

そのような反省から、DSM-4の作成の目標は、ごく控え目なものに定められた。

DSM-4では、作成委員長がDSM-3Rまでの、スピッツァーではなく、アレン・フランセスが指揮を執ることになった。

フランセスが、定めた目標は、厳密、客観的で透明性のある決定を下すことであり、システムを刷新したり、そこに個性を加えたりすることではなかった。

彼は、科学的な立証責任を厳しく定めたならば、変更はほぼ無くなると承知をしていたようである。

DSM-3とDSM-3RとDSM-4は7歳違いずつで生まれていたが、その間に診断システムの重要な改訂をする根拠になるほどの、説得力のある発見は、なかった。

ちなみに、DSM-3は、1980年生まれ、
DSM-3Rは、1987年生まれ、
DSM-4は、1994年生まれである。(発表=生まれ)

フランセスは、自身の役割を刷新ではなく、洗練と保全にあると考えた。

どんな変更に対しても、厳格な科学的証拠を条件にすれば、個性やリーダーシップにまつわる問題のほとんどを排除できるからである。

また、フランセスは、論争を避けて解決する機械的なシステムを構築した。

意思決定は、対立する個人的見解ではなく、ルールを通じて行われることになった。

それによって、DSM-4の作成作業グループの役割は、何かの主義主張を支持したり、診断の革新的な開拓者を目指したりするのではなく、入手できるデータを黙々と見直すだけの「まとめ役の学者」である、と定められたのである。

DSM-4の作成グループは、DSM-3Rが「バイブル」のようになりつつあった反省をふまえて、DSM-4を「バイブル」ではなく、「ガイドブック」と見なすことにした。

つまり、DSM-4は、「本物」の病気のカタログではなく、現状で有用な診断の概念を集めたもの、として、
DSM-4の序文でひときわこの点を明白にしようと試み、DSM-4ガイドブックでは、さらに詳しく記述をしたのである。

しかし、DSM-4の発表から3年後、DSM-4の理想や理念は、製薬企業との戦いに敗北してしまう。

その結果、アメリカは、消費者に直接宣伝する自由を製薬企業に認める国になってしまったのである。

電波と印刷物は、あっという間に
「日常生活の問題は、実のところ隠れた精神障害によるものである」
という、あからさまに誤解を招く表現で満たされてしまった。

哀しいことに、DSM-4は、製薬企業の強引かつ狡猾な運動に煽られた軽率な欲求の洪水を堰き止めるには、あまりにも貧弱な堤防であったのかもしれない。

DSM-4の作成委員会は、製薬企業を利する提案を一貫して拒んだのだが、そのため製薬企業にどこがどのように宣伝材料にされるか、という予想は出来なかったのである。

さらに敗北から、数年のうちに、製薬企業の勝利と、DSM-4作成委員会の掲げた理念の敗北は明白になっていったのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

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最近は、にわか雨もあるので、折りたたみ傘があると、助かりますよね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。