精神医学のきわめて大きな弱点のひとつに、
「生物学的検査の欠如」
がある。
インフルエンザやさまざまな内科疾患などと違い、精神疾患かそうでないかを線引きするバイオマーカー(生物学的標識)は今の時点ではない。
これは、精神疾患に関するどんな診断も、どうしても誤りがちで二転三転しやすい主観的な判断に基づくことになることにつながっている。
例えるなら、精神疾患の診断は、いろいろな種類の肺炎を引き起こすウイルスや細菌についての検査をせずに、肺炎を診断することに近い。
つまり、本来、精神疾患の診断は医師のかなり高度な知識とかなり熟練した経験を要するものなのだ。
ロジャー・スペリーもノーベル賞授賞式のスピーチで
「学べば学ぶほど、ひとりひとりの知性はどれも独自の複雑さを備えているという認識が強まるし、脳内ネットワークに固有の個性に比べれば、指紋や顔立ちの個性などは大雑把で単純なものだという結論がたしかなものになる」
と表現している。
精神疾患の根底に在る渾然とした仕組みを探り出すのは、生涯を費やす仕事なのであろう。
ひとりのひとが統合失調症に到る道は、ひとつではなく、何十も、もしかしたら何百、何千もあるのかもしれないのだから。
さて、私は、生物学の全歴史で最もめざましい発展をふたつ挙げるとき、遺伝子暗号を解読できたこと、と、人間の脳の活動を明らかにできたことをいつも選ぶ。
人類はすごい!!
しかし、手放しで喜べないのは、私たちは脳の機能の多くを学んだが、
基礎科学を臨床精神医学へと応用する方法を未だに見つけていないのだ。
さらに、分子生物学や遺伝学や画像化技術は、認知症やうつ病や統合失調症や双極性障害や強迫性障害をはじめとする精神疾患の検査室実験には、未だに繋がっていない。
ただ、どんな精神疾患でも、たったひとつの遺伝子なり、神経伝達物質なり、そして神経回路なりで説明できるという期待がただ単なる時期尚早な思い込みだ、と、私たちがしたたかに分かっただけであるのだ。
繰り返しになるが、精神医学では、検査室実験がまだ1度も行われてはいないといっても言い過ぎではないのが現状だ。
なぜなら、ひとつの精神疾患のカテゴリー内でも常に結果に差があり、
この差はその疾患とそうでない状態との差や、他の疾患との差よりも大きいため、
どんな有望な生物学上の発見も診断検査の段階にまで至っていないのである。
確かに見込みのありそうなバイオマーカーについでは、何千もの研究がなされてきたが、今のところ成果は出ていない。
知識は極めて多いが、実益が極めて少ないというのは、なんと大きな断絶であろうか......。
ところで、カフェインへの依存がニコチンへの依存と同列のカテゴリーに含めるべきか、を、巡って、DSM-5の作成者たちにより熱い議論が交わされたことをご存知だろうか?
(このシリーズでよく登場する作成者のひとりであるアメリカの精神科医によると実に真剣な議論であったらしいのだが.....。)
さんざん、カフェインにはニコチン並みの依存性があり、中毒を引き起こして、不安障害や心臓の不具合をもたらす恐れがある、などと議論した結果、
DSM-5作成者たちは、DSM-5にカフェインの依存を載せなかった。
理由は、そのただひとつの理由は、
「カフェインへの依存はきわめてありふれているし、(アメリカ国内だけで)6000万人以上の人々に対して、毎朝起きるたびに『この朝の楽しみの1杯が精神疾患なのだ』と自覚させる意味は無いと思えたから」
だ、そうである。
......。......えっ、それだけ!?
......カフェインへの依存をDSM-5から外すという、ひとの行動や思いに心を配る姿勢が常にあればDSMから外すことが出来たかもしれない精神疾患はどれほどあったのだろうか......考えるにつけ、私は、悲しいというより、暗澹たる気分になる。
さらにカフェインへの依存のように謙虚で慎重な姿勢が在れば、そもそも「行為嗜癖」のカテゴリー自体が不採用になったであろう。
少し前に、インターネット嗜癖について描いたが、インターネット嗜癖に代表されるような「行為嗜癖」は有用な概念かもしれないが、実際は下手な案に他ならない。
なぜなら、適切に限定された範囲をはるかに超えたところにまで、ただちに拡大されてしまうからだ。
実際、DSM-5が「行為嗜癖」の概念を導入して以来、嗜癖のまやかしの流行がきわめて深刻な問題になっているのである。
つまり、本来的な意味から精神疾患と正式に認められるのは、病的賭博だけであるにもかかわらず、
インターネット、買い物、仕事、ゴルフ、ジョギング、美白、日焼け、チョコレート、果てはスポーツ観戦まで、メディアの注目を集めるものなら何でも対象となっているのである。
そのリストは長大で、人気の活動なら、どんな分野のものであれたやすく追加されてしまい、そして、ライフスタイルの選択を精神疾患に変えてしまうのである。
この過激な考え方は、強迫性な行動は強迫的な薬物乱用に等しく、どちらも脳の快楽中枢が原因となっていることを根拠にしている。
研究構想としては興味深いかもしれないが、精神疾患の診断の大幅な拡大を正当化するにはあまりに先走り過ぎた考え方である、と、私は、思う。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
私が、日々せっせと貯めていたのは、お金や知識(だったらよかった......)ではなく、不満だったのかもしれないなあ......と、
私たちに線など引けるのか?、のシリーズをなかなかノリノリで続きで描いている自分に、ふと、思いました^_^;
だって、だって、やはりMAX闘病中は、まとまらなくて、
それからもなかなかうまく言えなかったことが悔しくて、
まとまるようになってきてから、
ずっと、まとまり方が途中経過でも、
とりあえず言いたかったんだもん......(;^_^A
こんなことを考えているヤツ=私が描いていますが、
読んで下さること、
皆さまのご投稿にいつも励みをいただけること、
楽しく拝読させていただいたり、学ばせていただくばかりであること、
いつも感謝しております。
次回も、たぶん、私たちに線など引けるのか?シリーズだと思います。
よかったら、また、よろしくお願いいたします。
今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。