私たちは、小林秀雄の文体を模倣しても、小林秀雄になることは、できない。
その理由のひとつに、私たちには、小林秀雄が物理学の中に見出した理論的なものの徹底性が欠如していることが、挙げられるだろう。
小林秀雄の思考の基礎的な部分には、物理学が在り、その批評の強さの秘密もそこにあるのではないだろうか。
ただ、小林秀雄は、物理学の知見を持ち出せば、読者を説得することが容易であることを知り抜いていたからこそ、文学解釈においては、極力、物理学的知見を使うことを避けていたようである。
しかし、小林秀雄は、ドストエフスキー論で、「物」的世界観から、「場」的世界観への転換いう「物理学の革命」(→ここ数回の日記で触れています)のモデルを使って、ドストエフスキーの文学的行為の意味を解釈しようとしているようである。
たとえば、小林秀雄は、昭和9年に、「『罪と罰』について」のなかで、
「ここに現れた近代小説に於ける世界観の変革は、恰も近代物理学に於ける実体的な『物』を基礎とした従来の世界像が、電磁的な『場』の発見によって覆ったにも比すべき変革であった」
と『罪と罰』という小説の構造の変化について書いている。
小林秀雄の批評作品に占めるドストエフスキーの比重は極めて大きい。
小林秀雄が、ドストエフスキーを論じながら、「物理学の革命」のモデルを用いていることは注目に値するし、小林秀雄における理論物理学の問題の大きさを表しているようにも見えるのである。
ところで、戦後の小林秀雄は、昭和23年の湯川秀樹との対談『人間の進歩について』をはじめとして、昭和40年の岡潔との対談『人間の建設』、および『感想』などにおいて、物理学について直接的に、しかも具体的に語っているが、戦前の小林秀雄は、物理学について、直接的には、ほとんど語っていない。
小林秀雄と理論物理学とのつながりは、すでに『様々なる意匠』による文壇へのデビュー以前の、大正13年のアインシュタインの来日まで遡る。
小林秀雄と理論物理学について、大岡昇平は、『小林秀雄の世代』のなかで、
「彼がエディントン『物的世界の本質』を読んだのは昭和7年だったらしい。
霧ヶ峰で小林はマイケルソン=モーレーの実験や「フィッツジェラルドの短縮」から、どういう風に相対性原理が出てきたかを講義してくれた。
熱力学の第二法則とエントロピーの増大の話を聞いたのもその時である。
小林にはエントロピーの増大という事実は、エネルギー恒存の法則を破るものと映り、宇宙の死を意味したらしい。
これは上記の『現代文学の不安』に窺われるが、霧ヶ峰の薄暗い山小屋で講義する小林の真剣な顔を、私は思い出すことが出来る」
と書いている。
霧ヶ峰というのは、小林秀雄と大岡昇平が昭和10年に霧ヶ峰でひと夏を過ごしたときのことであろう。
このとき、小林秀雄も大岡昇平も既に大学を卒業しており、小林秀雄は33歳になっていた。
文芸評論家として文壇にデビューしてからも既に6年が経過しており、目新しい流行思想に浮かれている状態ではないであろう。
小林秀雄にとっては、物理学という問題は一時的に熱中したものなどではなく、物理学への関心は、戦後まで一貫して持続しており、小林秀雄自身は明言はしていないが、小林にとって、物理学という問題が、本質的な意味を持っていたことは明らかであると思われるのである。
また、昭和10年は、霧ヶ峰だけではなくて、小林秀雄が雑誌「文学界」を創刊し、その編集責任者になった年でもあり、そして、同誌に『ドストエフスキーの生活』の連載を開始した年である。
小林秀雄は昭和4年に、「様々なる意匠」で文壇にデビューしているので、昭和10年といえば、いわば小林秀雄の初期の文芸時評的な仕事が、一応の完成をみせた頃であろう。
言い換えてみると、昭和10年は、中期の小林秀雄の出発のころ、ということになろう。
このような小林秀雄が文芸批評に力を入れ、『ドストエフスキーの生活』という極めて重要な仕事をしながら、理論物理学にかなりの関心を持っていたことは、小林秀雄にとって、理論物理学の問題がドストエフスキーの問題、またはそれ以上に切実な問題であったということを示してはいないだろうか。
大岡昇平は、霧ヶ峰で、小林秀雄から、理論物理学の講義を受けた翌年の昭和11年のことについて、『昭和十年前後』のなかで、
「その翌年から私は鎌倉の小林の家の近所へ下宿して、毎日のように交際ったのだが、どうも文学の話をした記憶はあまりない。
物理学やベルクソンの話ばかり記憶に残っている。
後で『文学界』の同人になった佐藤信衛と三人で、鎌倉の裏山を散歩し、佐藤から物理学者としてのデカルトの講義を聞いたこともある」
と書いている。
佐藤信衛は、小林の勧誘で「文学界」の同人となった人であり、昭和12年に『近代科学』という、デカルトから量子力学までの物理学の発展と革命をわかりやすく書いた本の著者でもある。
小林秀雄が、昭和10年前後、理論物理学に非常な関心を示し、相当に専門的なレベルまでの勉強をしていたことは、明らかではないだろうか。
小林秀雄はなぜ、理論物理学に非常な関心を持ったのであろうか。
おそらく、小林秀雄は、「物理学の革命」のなかに、小林秀雄自身が体験してきた文学革命と同じものを見出したからではないか、と私には思われる。
また、理論物理学は、小林秀雄がおぼろげにしか対象化できなかった革命のドラマをより、具体的に、より客観的に、またより徹底的に究明しつつあったからではないか、とも思われるのである。
さらに、小林秀雄が物理学に熱中したのは、物理学の研究を通じて、「科学とは何か」という問題を追及し、物理学という科学を相手にすることにより、科学的な思考の本質に触れようとしたようである。
それは、小林秀雄がマルクス主義という「科学」と対決するために必要としたことであったのかもしれない。
小林秀雄は、物理的知見を、文学や批評の世界に導入してはおらず、ましてや、物理学を上に置き、文学を下に置いて、物理学という高い場所から、文学を啓蒙しようとはしていないのである。
小林秀雄は、物理学の問題は、物理学の問題として語っている。
たとえば、文学や芸術と物理学を対比して語るときでも、決して価値の優劣を前提に語ってはいない。
ただ、その類似性や共通点を語るだけである。
しかも、戦前の小林のテクストのなかには、物理学の問題は、殆ど出てこない。
しかし、小林は、科学や物理学について、ひそかに独自の思考をめぐらせていたことが、昭和7年発表の『現代文学の不安』のなかにある、
「エントロピーの極大はわが身の死に等しく明瞭だ」ということばや
「あらゆる原子の足元はふらつき、時空の純粋な概念も全くその意味を失ってしまった。
われわれ素人が垣間見ただけでも、これら科学の高級理論は夢に酷似している」
という相対性理論や、量子物理学の知見が書きとめられたことば、からもわかるのである。
昭和10年から11年にかけて書かれた「『地下室の手記』と『永遠の良人』」と題するドストエフスキー論のなかで、小林秀雄は、
「ファラデー、マックスウェルの天才以来、実体的な『物』に代わって、機械的な『電磁的場』が物理的世界像の根底を成すに到ったのは周知の事だが、この物理学者等の認識に何等神秘的なものが含まれていない様に、ドストエフスキーが、人間のあらゆる実体的属性を仮構されたものとして扱い、主客物心の対立の消えた生活の『場』の中心に、新しい人間像を立てた事に、何等空想的なものはないのである」
と述べている。
小林秀雄が、これほどにむき出しのかたちで、物理学に言及するのは極めて稀なことであろう。
冒頭にも「『罪と罰』についての引用とともに触れたが、小林秀雄は、物理学の知見を持ち出せば、読者を説得することが容易であることを知り抜いていたからこそ、文学解釈において物理学的知見を使うことを避けたかったのであろう。
しかし、小林秀雄は、ドストエフスキー論で、「物理学の革命」のモデルを用いて、ドストエフスキーの文学的行為の意味を解釈しようとしているのである。
小林秀雄は、ドストエフスキーを論じながら、「物理学の革命」を「物」的世界観から、「場」的世界観への変換としてとらえているのではないだろうか。
そして、このことは、小林秀雄が、20世紀の「物理学の革命」を正しく、かつ深く理解していることをも、示してはいるのではないだろうか。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
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今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。