小林秀雄が、ベルクソン論である「感想」のなかにおいて、ベルクソンのことばで、
「君達には何もわかっていない」と言うとき、その傍らには、亀の子のように、黙々と資料の収集に歩き回る大岡昇平の姿が見えてくるような気がすることがある。
「わかる」とか「わからない」というような批評的言説に絶望した大岡昇平という作家の作業は、小林秀雄を神格化すると同時に、脱神話化しているように見える。
そして、その問題は、小林秀雄のベルクソン論のテーマと複雑に絡み合っているのではないだろうか。
戦後、フィリピンの俘虜収容所から復員してきた大岡昇平を小林秀雄は、よろこんで迎え、「従軍記」の執筆を勧め、大岡昇平は、その勧めにしたがって『俘虜記』の第1章にあたる「捉まるまで」を書いたようである。
そこで、作家大岡昇平が誕生するのであるが、小林秀雄は大岡昇平に「従軍記」の執筆を勧めたとき、
「とにかくお前さんにはなにかある。
みんなお前さんを見棄ててるが、お前さんのそのどす黒いような、黄色い顔色はなんかだよ」
と言ったそうである。
大岡昇平の地道な資料の収集や回想録なくして、批評家小林秀雄を語ることはできないのかもしれない。
小林秀雄自身はほとんど自己を語らないひとであり、いわゆる回想録の類も、必要最低限のものしか残していないからである。
それらの短い、形式的な回想録から、小林秀雄の全体像を作り上げることは、不可能に近いと私には、思われる。
小林秀雄自身の残したテクストだけで十分だと言う人もいるが、私は、作品がすべてではないし、作品を生み出した背景を抜きにして文学者は語れず、また、作品はその背景なしに抽象的には成立するわけではないと、考えている。
小林秀雄以来、すぐれた批評作品は、ほとんど「評伝」的要素を含んでおり、作品より作者に分析の比重が置かれていることもしばしばあるだろう。
もし、小林秀雄によってはじめて批評が確立されたとするならば、それは、小林秀雄によってはじめて「作品論」という文学主義的批評のかわりに「作家論」という存在的批評がそれにとってかわったからかもしれない。
小林秀雄について知るためには、大岡昇平の手を借りなければならないのだが、大岡昇平の過去への非常なこだわりは、富永太郎と中原中也に関しての文献的な基礎資料の収集から評伝の執筆、作品の分析にいたるまで完璧にまとめ上げたようである。
これに比して小林秀雄については、1冊の書物というかたちでは残していないのだが、「小林秀雄の世代」 という、小林秀雄のベルクソン論である「感想」に対する優れた注釈的な評論をはじめとして、数多くのエッセーを残している。
私たちが、これからも小林秀雄を知ろうとするとき、大岡昇平の書き残した回想録や、彼が収集した基礎資料は重要な意味を帯びるだろう。
江藤淳の『小林秀雄』は、大岡昇平が貸与した資料にもとづいており、大岡昇平は、「江藤淳『小林秀雄』」というエッセーのなかで、
「江藤氏にこの論文をすすめ、資料を提供したのはわたしである。(中略)
わたしは小林の無名時代の断片を偶然持っていたので、その一部を氏にまかせた。
わたし自身、いつか小林論を書くつもりであったが、ほかに仕事を持っているので、いつのことになるかわからない。
資料をいつまでも死蔵しておくのは、小林秀雄が共通の文化財産になりつつあるこんにち、公平ではないのではないか、という自責を感じることがあった。
江藤氏に使ってもらうことができ、むしろほっとした感じがあった」
と述べている。
勿論、江藤淳の『小林秀雄』は、江藤独自の分析と解釈によって成立しているのであるが、大岡昇平の資料の収集と保存がなければ、今のようなかたちとは違ったものになっていたであろう。
大岡昇平の資料の収集と保存という行為それ自体もまた、ひとつの厳然とした批評的行為たりえているように、私には、みえる。
大岡昇平という作家は、なぜこれほどまでに、青春時代の一時期の人間関係にこだわり続けたのであろうか。
冒頭にも述べたように、大岡昇平は、戦後、小林秀雄の勧めによって『俘虜記』を書き始めるのであるが、それとほぼ平行して、中原中也論と富永太郎論の執筆にとりかかっている。
たとえば、大岡昇平の『疎開日記』の昭和21年10月3日の頃に、
「中原中也論ノートを書いている。(中略)散文はつまらない。
現代では興味があるのは詩だけだ。
だから詩人だけを考える。
富永太郎論七十枚。中原中也論百五十枚」
という記録がある。
以後、大岡昇平の『疎開日記』には、富永太郎と中原中也の名がたびたび登場し、富永太郎論と中原中也論の執筆や、その資料収集が、大岡昇平にとって、やがて作家大岡昇平のデビュー作となり、また代表作ともなる『俘虜記』に勝るとも劣らないような重大な価値を有する仕事であったことがわかるのである。
大岡昇平は、一種のライフワークとでもいえるようなかたちで、 これらの詩人論を執筆しており、『疎開日記』には、
「フィリピンで立哨中、雨の野をながめながら、僕は十七歳の頃の感情を思い出し、いかにそれに逆らって生きてきたかを知った。
これが僕の底ならば、まずそこを耕すことから始めねばならぬ」
という一節が在る。
大岡昇平が小林秀雄と知り合ったのは、19歳のときであり、大岡昇平が「17歳の頃の感傷に逆らって生きてきた」というのは、小林秀雄と知り合って以降のいわば、批評的な時代の生き方を指しており、言い換えれば、小林秀雄的批評への訣別が自覚されているということができるのかもしれない。
大岡昇平は、このとき、はじめて批評的な思考から解放され、ここに、大岡昇平の「資料」や「人間関係」へのこだわりが始まるといってよいのかもしれない。
戦後、復員すると同時に、中原中也や富永太郎に関する資料の収集や調査が、精力的に進められたのだが、大岡昇平を非常なまでに資料の発掘に駆り立てたのは、批評への反抗であったようにも思われる。
「資料」や「人間関係」という、極めて即物的で、非文学的な事実に固執する大岡昇平の構えは、明らかに小林秀雄に始まる「批評的なもの」への批判の構えであったように見える。
そして、それは、批評家大岡昇平との訣別の意味をも含んでいたのだろう。
大岡昇平の『中原中也』のなかの、まるで裁判記録のような事実関係への執着と、資料収集への大岡昇平の熱意、そして、事実や資料への熱意とは真逆に、その分析や解釈に対する無関心ぶりには驚かざるを得ない。
大岡昇平の内部では、分析や解釈にが価値を有していないかのように見える。
ここには、批評への絶望が隠されているように思われる。
大岡昇平は、ある時点できっぱりと、批評することを断念し、現実を尊重するという道を選んだようである。
大岡昇平の資料の収集と資料の提示だけで十分だとするような姿勢には、「解釈や意味に対する絶望」と「現実や生活に対する深い信頼」があるように思われる。
批評とは分析であり、分析の限りを尽くして、もはやそれ以上分割不可能なものを見出すことではないだろうか。
たとえ、究極的には、その最終的な分析不可能なものが、もはや1個の無であったとしても、その分析の道を進まないかぎり、批評に到達することはできないだろう。
小林秀雄もまた、どれだけ分析的な認識にかえて、直感的、経験的な認識を主張したとしても、まずやらなければならなかったことは、分析することであり、反省することであったのかもしれない。
これに対して、大岡昇平は、ある時点から、分析や反省という行為に対して、ある決定的な訣別を行っているようである。
無論、大岡昇平は、分析や解釈という反省的な思考を完全に放棄したわけではなく、大岡昇平の分析や解釈は、『俘虜記』や『野火』にみられるように、あまりにも過剰とさえいえるだろう。
しかし、それらは、あくまでも分析や解釈の向こうにある現実や生活を浮かび上がらせる手段でしかないのであろう。
大岡昇平の内部で、現実の生活に対する素朴な、そして強固な信頼が生まれてきた。
それは、分析や解釈という理論的作業によっては、決して汲み尽くせない現実の多様性への信頼であろう。
それは、いつ、どこで獲得されたのかについては、次回に考えてみたいと思う。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。