流行はもっともらしい概念と、真似をしたがる私たちの群居本能が組み合わさったときに生まれる。
株価の高下と同じで、不安定、不確実、変化の時期に付き物なのであろう。
流行の原因は、根が深く、人間のあり方そのものに関わっている場合もあれば、かなり特殊ではあるが、歴史の流れ、ヒットした本や映画、新しい治療法に関わっている場合もある。
また、千年単位で続くときもあれば、十年単位でしかつづかないときもある。
前者の例が、悪魔憑きであり、後者の例が、多重人格障害(MPD)であろう。
悪魔憑きは、異常な情緒や思考や行動を実にもっともらしく説明でき、説得力に富んでいるので、古今東西を通じて繰り返し持ち出される。
MPDは、ずっと説得力に乏しいので、急に流行るときがたまにあるだけで、決して長くは続かないのである。
悪魔憑きは、最古の流行であり、最新の流行でもある。
太古の文章に記録されており、今日の新聞でも報道されている。
悪魔を信じるのは、無知故なのかも知れない、しかし、それは人間の宗教から消え去るにはあまりにも魅力的なモデルであり、合理的な思考や主流派の宗教や精神医学が与える心もとない慰めの強力なライバルになっており、これからも、何らかの形で残り続けるであろうし、今でも、時折、爆発的に流行して、場合によっては甚大な被害をもたらしている。
悪魔憑きの真の利点は、問題にレッテルを貼るだけではなくて、納得がいくように原因を説明してくれ、治療法をただちに提示してくれることである。
その人物には悪魔が取り憑いている。
悪魔が思考や情緒や行動を支配している。
そしてDSMならば、10
以上の異なる精神疾患に分類してもおかしくない、もろもろの症状のすべてを引き起こしている。
今日の精神科医は統合失調症にレッテルを貼ることは出来ても、説明することは到底できないだろう。
しかし、呪医や神官はずっと強い立場にいるようである。
なぜなら、呪医や神官たちは、症状の原因と、患者を病気から切り離す特定の治療法について確実な知識を持っているようだからである。
確かに、悪魔払いは、エクソシストと患者の双方が効果があると信じていれば、実際に効果はあげられるだろう。
実は、悪魔の支配という考え方は、多くの人々にとって、非常に筋が通ったものであるため、あらゆる文化に見られ、時代を超越して受け継がれている。
それは、人間の心理の根本にあるものを上手く利用して、人間の経験の大部分をもっともらしく、単純に説明してくれるのである。
悪魔との戦いは、神学的な考え方に訴える。
私たちを苦しめるほとんどの症状をなおしてくれる、魂を満足させてくれる、さらには、部族を団結させるなど、と。
悪魔は、精神科や内科の病気が、さらにはドラッグや夢やトランス状態が引き起こす変化を理解する上で、前科学的であるにせよ、完全に理に適った方法ではあるのだ。
啓蒙時代の申し子であり、異常な行動には生物学的な原因があると信じる私たち「だけ」が、それを馬鹿げたものと見做しているのかもしれない。
しかし、この便利に見える診断のカテゴリーにも、避けられない問題がひとつある。
それは、歴史的に、精神障がい者を、迫害、拷問、殺害する格好の口実にされてきたことである。
この上ない非人道的な扱いも、「悪魔に対する聖なる戦いの一環」だということを怪しげな根拠にしてしまい、たやすく正当化してまうのである.....。
現代の精神科の診断と悪魔憑きは、問題行動の原因を正反対のかたちで説明しているといえよう。
一方は、脳の病気だと言い、他方は霊が引き起こした病気だと言うのだから。
先進国の住民はたいてい、現代科学に満足している。
しかしながら、全員ではないのである。
アメリカ人の3分の1以上が、日々の生活に悪魔や天使が積極的に関わっていると信じており、現代のエクソシストは、悪魔に取り憑かれた人が精神科医に統合失調症である、と誤診されることを懸念して、インターネットに詳細な診断のマニュアルを載せ、病気に潜む悪魔を見つける方法を教えている。
カトリック教会は悪魔に関してそれほど過激な思想は持っておらず、症状が明らかに神を冒涜するものであって、精神病の可能性が除外されたときに限って、悪魔払いを推奨している。
戦争に疲弊したアフリカでは、悪魔憑きの大流行がしょっちゅう起こっている。
前回取り上げた、タラント病と聖ウィトゥスの踊りが、飢饉、疫病、戦争、略奪が繰り返された死と隣り合わせの時代である「小氷期」に起きたことを想い出してほしい。
「私たちは、物事をありのままに見ないし、自分の見たいように見る」傾向があるが、苦しいときには、特に、その傾向が強まるようである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
クーラーを入れたら本当に違うなあ......と、最近よく思います( ^_^)
冷えすぎには注意したいですが^_^;
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。