おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

フィリップ・グラスの作品のなかの「反近代」の思想

2024-06-14 06:52:47 | 日記
20世紀の歴史がそうであるように、20世紀の音楽の歴史も複雑であり、そして絶望的である。

マーラーが切り拓いた道を、シェーンベルク、バルトーク、ショスタコーヴィチといった偉大な作曲家たちが歩んでいったが、2つの世界大戦、とりわけアウシュヴィッツと広島が音楽にも暗い影を投げかけた。

哲学者T・アドルノが指摘したように「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」、
なぜなら、アウシュヴィッツとは、理性によって為されてしまった虐殺なのであり、そうした理性への批判なしに能天気に詩を書くことは罪とさえ思われたのである。

ここで言う詩は、文化一般を指しており、当然音楽も指弾されている。

つまり、作曲家たちはもはや、思想とは無縁でいられなくなった、のである。

音楽とは何か思想的なメッセージを込めていなくてはならず、人間の理性を告発したり、人類の共生を訴えたり、簡単に言えば、左翼思想を体現したものでなくてはならなくなったのである。

大衆文化の発達と共に、いわゆるクラシック音楽というジャンルはそのマーケットをジャズやロック、ポップスに次々と奪われていく一方で、「現代音楽」という、なにか小難しく、何か高級な思想が表現されているらしいが、とどのつまりは不可解で、場合によっては耳障りに思われるものが大量生産されていったのである。

伝統の破壊こそが新しく、独創的なのだと考えられ、ジョン・ケージは「沈黙の音楽」を提唱し、クセナキスは五線譜に橋の図面を書いてみた。

そして、その結果、大雑把に言うと、クラシック音楽はますます愛されなくなっていった。

さて、こうした途方もない現代音楽の思想的混乱、絶望的混沌のなかで、新しい動きが、出てくる。

それが、スティーブ・ライヒや先日、「MISHIMA」で取り上げたフィリップ・グラスに代表されるミニマリズムである。

60年代~70年代は、さまざまな左翼活動が活発化した時代であるが、この頃にアメリカを席巻した「反近代」の思潮のなかにミニマリズムという思想も位置づけられる。

それは、簡単に言えば、余計なものはとことん排除する、ということであり、シンプル・ライフなどという運動もこのミニマリズムの亜種と言えるであろう。

ミニマリズムの影響は、服飾、建築、絵画、デザインなど、広範囲に渡っている。

音楽におけるミニマリズムとは、旋律を拒否し、音楽の最小の構成単位、つまり、リズムと和声のみによって音楽を作り上げる、という、理念としては、先鋭なものである。

事実、初期のミニマリズム作品の特徴は、単純な和音やリズムを延々と反復することにあった。

本来ならば、5分で終わるべき曲を、平気で、繰り返しのみで、50分に引き延ばしたりもする。

すると、不思議なことに、聴いているうちに催眠状態にかかり、トリップする人まで出て来たりもして、このようなコアなファンたちは、後にテクノ・ミニマルという、一家を成すジャンルを作り上げた。

初期のグラスも、もちろん、延々と繰り返しの続く曲を書きまくっていた。

延々と、何時間でも同じ和音、同じリズムを繰り返していたものである。

この頃の代表作が、オペラ「浜辺のアインシュタイン」であり、実質的なデビュー作でもある。

これは5時間近く分散和音を繰り返すという、絶望的にミニマリスティックな作品であった。

しかし、グラスは、禁欲的なミニマリズム、つまり同じことを延々と続けるような模範的ミニマリズム音楽から、だんたんと音楽表現の幅を広げてゆく。

つまり、いったんは放棄した「旋律」や「ドラマ性」へと、再び向かってゆくのである。

おそらく、これは、グラスが、舞台音楽や映画音楽に深く関わっていたことも影響しているのであろう。

こうした
「ドラマ性を持ったミニマリズム」
あるいは
「拡大したミニマリズム」
という傾向は、ガンジーを主人公にして全編サンスクリット語で歌われるオペラ「サチャ・グラハ」やヴァイオリン協奏曲に結実している。

もちろん、これを、堕落と呼ぶ人もいるが、普通の聴衆にとっては偉大なる堕落なのかもしれない。

なぜなら、ドラマ性を取り戻したおかげで、強烈なドライブ感を生み出す明確なリズムと和声とが、聴く者を否応なしに感情の高ぶりへと駆り立てるからである。

結局、人の心を動かすことが出来るのは、人の心だけなのであり、グラスの音楽は、余計な思想性やメッセージ性を排除し、必要不可欠な最小単位として、人間の心、喜びもし、悲しみもする、不断に揺れ動く人の心を抽出することに成功したのである。

もしかしたら、
現代音楽というものが、一般的に、止める魂、絶えず落ち着かない魂のうめき声、不眠症的な思想的緊張、思想というよりはむしろ曖昧な苦痛による叫び声であるのに対し、
グラスのこの作品は、思想やイデオロギー、実験音楽、観念的苦痛といった余分な要素を排除し尽くして、知性という病毒におかされた精神とは無縁の、
憂いは感じはするが、結局のところは健康で、無垢の心の輝きを獲得することに成功したのだ、と、言えるのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

明日からまた、数日間不定期更新となりますが、またよろしくお願いいたします( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。