書きたいことが一杯たまっているのにあまり筆が進まない今日この頃です。
共産党本部に少年が乱入したようで。
刃物持った16歳少年、共産党本部に侵入 (読売新聞) - goo ニュース
>正面玄関から同ビルに入り
誰でも入れるんですよね。人がいない時期だったから逆に良かったのかも。
一般に開放されているときに、ヘンなヤツが乱入してきたらひと騒動です。
共産党にはよくある事なんですが、気をつけなくちゃいけないですよね。
>日本国旗を掲げず、赤旗を掲げているのはおかしい
・・・。
てなワケで、ちょっと関係ない話しからスタートしましたが、今回のエントリーも「社共共闘について」です。
社民党とはどんな政党なのかを知る手がかりは、意外にも「新社会党」にありました。旧日本社会党は1996年に3つの勢力に分裂しました。「民主党」「社会民主党」「新社会党」です。そのうち社会党「左派」の人たちが作ったのが新社会党。「社民党」は実はこの頃は必ずしも「左派」とはいえない状況にありました。それについては後で触れます。
ところで、政党には「綱領」というものがあります。
日本共産党のHPによると「綱領」とは、「『いま』の問題にこたえると同時に、日本の社会の先々の発展についても、しっかりした見通し」を示すものだという説明がされています。政党の存在意義や使命、基本姿勢などが書かれている文書のことです。大抵の政党は綱領やそれ準ずる大方針を持っています。で、「新社会党」の綱領にこんな事が書いてあるんですね。
*************************************
(8)日本社会党の崩壊と憲法の危機
バブルで庶民を犠牲にし、消費税を導入し、農業を切り捨て、しかも利権と汚職にまみれた自民党政治への怒りは高まりました。
この結果、89年参院選では消費税反対の日本社会党が、70年代後半以降の後退から一転して躍進し、自民党内閣は次々に交替し、政局は不安定化しました。膨大な財政赤字と不良債権と過剰資本をかかえ、多国籍企業間の大競争の激化に対応するため、財界は「構造改革」を死活の課題としました。
そのための政治体制再編成の突破口としたのが小選挙区制導入です。旧中間層も対象とした利益誘導型の保守の集票構造を改編し、少数意見を排除して、「国家意思の敏速な決定と執行」をめざすとともに、労働者の政党を解体・吸収しようとするものでした。それは「55年体制」の解体を意味しました。
基本路線を棄てた日本社会党は、保守政党との間の垣根が低くなり、指導部は保守大連合に引き込まれていきました。
財界は自民党を分裂までさせ、93年に非自民の細川連立政権を樹立させました。対抗すべき日本社会党は、財界と保守勢力、マスコミに大労組幹部まで加わった「政治改革」の大合唱に屈し、細川連立内閣への入閣と引き換えに小選挙区制を容認してしまいました。
94年に細川内閣が倒壊すると、日本社会党は村山自社さ連立内閣で自民党の政権復帰を許し、安保条約「堅持」、自衛隊合憲、消費税増税へと変節、財界と保守勢力を驚喜させました。村山内閣には、当初、よりましな政策の期待も寄せられましたが、保守政党の基盤に支えられた連立内閣では、失うもののあまりにも大きい結果となりました。
変節に強く反対した日本社会党の5人の国会議員と全国の仲間が96年に新社会党を旗揚げしました。
しかし財界、保守勢力、大労組幹部は手をゆるめず、日本社会党が名を変えた社会民主党から多数の国会議員を引き剥がし、新保守の民主党に合流させました。残った社会民主党は、橋本・自社さ内閣でも、新ガイドラインや介護保険制度、公費での金融機関救済、独禁法改悪、労基法改悪などに賛成し、これを推進しました。
こうして財界と保守勢力は、日本の政治・経済・社会の大転換を進め、国会は翼賛国会と化し、憲法を公然と踏みにじる悪法が大量に成立する事態となりました。日本社会党の解体にむけ大労組が公然と圧力をかけたことは、諸国の労働者党にも例をみませんが、日本社会党の自滅は、党が主体性と民主主義的精神に欠けていたことや、労組依存体質が強く、市民運動との連携が弱かったことなどにもよっており、私たち自身の反省点でもあります。
*************************************
(「新社会党」綱領)
日本社会党の変質と崩壊、「社会民主党の変節」が実に率直に、かつ厳しく書かれていると思います。これを読んで分かることですが、「新社会党」がこの綱領を起草した当時、社民党は自民党の側にいたワケですね。とでもじゃないけど、「左派」とは呼べない。もちろん社民党に残った、というか残らざるを得なかった人たちも、自分たちが「左派」だなんて思ってなかったと思うんです。「社会民主党」の「社会」という文字を取っ払って「民主党」になりたかった。「日本社会党」が分裂して、菅直人と鳩山由紀夫がつくった「民主党」に多くの社会党議員が合流してしまったわけですが、村山元首相とか土井元衆院議長など、社会党の顔とされていた議員たちは、菅さんたちに民主党への入党を断られます。民主党に入れなかった人たちは、しょうがなく「社会党」に残るわけですが、新社会党の綱領が指摘するように、この当時「社会党」なんかもうボロボロになっているわけです。「社会党」ではもう選挙を戦えない。この様な状況を取り繕うために、とり残された彼らは取りあえず新党を作ったわけですがそれが社民党なわけです。
1996年の総選挙で、社会民主党は旧社会党の議席を当然維持できず、惨敗します。「社会」の名の付く政党が「共産」党よりも小数の議席しか得られなくなった初めての選挙でした。以前の常識では「社会」民主党が共産党よりも議席が少なくなる事なんて考えられなかった。社会党の人たちにとっては衝撃的なことだったのではないかと思います。僕はまだ10代だったのでよく分かりませんけど(爆)。
この選挙の後に社民党は党大会で選挙総括をするわけですが、その議事録の一部が社民党HPに掲載されています。社民党 都道府県連合幹事長会議(1996/12/06)
これを読むと、当時の社民党の混乱ぶりと、「左派」政党とは思えないような発言が目を引きます。
>大前英世(大阪)
阪府連合は民主党一本で戦った。全国連合が、近畿の比例に社民党の候補二人を府連合に相談もなく公認した。これはなぜか。また「社民党は移行期の政党」と自ら位置付けながら、なぜ新党に移行しなかったのか。全国連合には前進の姿勢がみじんも感じられない
>平良長政(沖縄)
沖縄は、いまも米軍基地問題に揺れている。継続的、恒常的な勢力がなければ、反戦運動を闘うことができない。働く人びと、障害者、日本の平和、人権、福祉、環境を考えるとき、日本に社民主義の政党は必要。存在価値は十分にある。社民主義が輝くのは、これからだ
>西村伸一郎(高知)
小選挙区も比例区も民主党で戦った。労組の動きにもよるが、多くの議員や党員が民主党へ移る可能性が高い。ただ社民党の旗を守りたいという議員や党員もいる。なんとか仲良く運動ができるよう着地点を探っている。社民党は「移行期の政党」とした部分は訂正しておくべきだ。
>答弁 伊藤幹事長
「移行期の政党」については、どういう方法がいいのかも含め、よく勉強させていただく。
>小原宣良(岩手)
消費税率引き上げ、コメ輸入、小選挙区制導入、いずれも避けて通れない課題であり、党は責任を持って対応しなければならない。税制改革特別委員会では、党の主張を前面に出してがんばれ。
ここで注目されるのは「移行期の政党」という言葉。いずれは民主党に合流する方向だけど、取りあえず今は社民党で頑張ろう。。。デタラメも良いところですよね。。。平良長政(沖縄)のような発言をする者がいるかと思えば、西村伸一郎(高知)「小選挙区も比例区も民主党で戦った」などという代議員もいる。岩手の代表なんかは言ってることが自民党と同じです。これじゃ当然選挙にも勝てませんし、左派の人たちが票を日本共産党に流すのも当然ですよね。出来た当時の社民党はこんな感じだったんです。
こうやって振り返ってみると、福島瑞穂の社民党がいかに左傾化しているかがよく分かります。
続く。。。
※(写真は日本共産党党本部;社会党の崩壊後、なんだかんだ言われつつも社民党よりは前進している日本共産党。党本部は党員や支持者の募金によって大きくリニューアルされた。特に、党本部のエントランスは「開かれた党」として変わっていこうとする共産党の意気込みが感じられる。とはいえ、建物が変わっただけでは人は変わらない)
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共産党本部に少年が乱入したようで。
刃物持った16歳少年、共産党本部に侵入 (読売新聞) - goo ニュース
>正面玄関から同ビルに入り
誰でも入れるんですよね。人がいない時期だったから逆に良かったのかも。
一般に開放されているときに、ヘンなヤツが乱入してきたらひと騒動です。
共産党にはよくある事なんですが、気をつけなくちゃいけないですよね。
>日本国旗を掲げず、赤旗を掲げているのはおかしい
・・・。
てなワケで、ちょっと関係ない話しからスタートしましたが、今回のエントリーも「社共共闘について」です。
社民党とはどんな政党なのかを知る手がかりは、意外にも「新社会党」にありました。旧日本社会党は1996年に3つの勢力に分裂しました。「民主党」「社会民主党」「新社会党」です。そのうち社会党「左派」の人たちが作ったのが新社会党。「社民党」は実はこの頃は必ずしも「左派」とはいえない状況にありました。それについては後で触れます。
ところで、政党には「綱領」というものがあります。
日本共産党のHPによると「綱領」とは、「『いま』の問題にこたえると同時に、日本の社会の先々の発展についても、しっかりした見通し」を示すものだという説明がされています。政党の存在意義や使命、基本姿勢などが書かれている文書のことです。大抵の政党は綱領やそれ準ずる大方針を持っています。で、「新社会党」の綱領にこんな事が書いてあるんですね。
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(8)日本社会党の崩壊と憲法の危機
バブルで庶民を犠牲にし、消費税を導入し、農業を切り捨て、しかも利権と汚職にまみれた自民党政治への怒りは高まりました。
この結果、89年参院選では消費税反対の日本社会党が、70年代後半以降の後退から一転して躍進し、自民党内閣は次々に交替し、政局は不安定化しました。膨大な財政赤字と不良債権と過剰資本をかかえ、多国籍企業間の大競争の激化に対応するため、財界は「構造改革」を死活の課題としました。
そのための政治体制再編成の突破口としたのが小選挙区制導入です。旧中間層も対象とした利益誘導型の保守の集票構造を改編し、少数意見を排除して、「国家意思の敏速な決定と執行」をめざすとともに、労働者の政党を解体・吸収しようとするものでした。それは「55年体制」の解体を意味しました。
基本路線を棄てた日本社会党は、保守政党との間の垣根が低くなり、指導部は保守大連合に引き込まれていきました。
財界は自民党を分裂までさせ、93年に非自民の細川連立政権を樹立させました。対抗すべき日本社会党は、財界と保守勢力、マスコミに大労組幹部まで加わった「政治改革」の大合唱に屈し、細川連立内閣への入閣と引き換えに小選挙区制を容認してしまいました。
94年に細川内閣が倒壊すると、日本社会党は村山自社さ連立内閣で自民党の政権復帰を許し、安保条約「堅持」、自衛隊合憲、消費税増税へと変節、財界と保守勢力を驚喜させました。村山内閣には、当初、よりましな政策の期待も寄せられましたが、保守政党の基盤に支えられた連立内閣では、失うもののあまりにも大きい結果となりました。
変節に強く反対した日本社会党の5人の国会議員と全国の仲間が96年に新社会党を旗揚げしました。
しかし財界、保守勢力、大労組幹部は手をゆるめず、日本社会党が名を変えた社会民主党から多数の国会議員を引き剥がし、新保守の民主党に合流させました。残った社会民主党は、橋本・自社さ内閣でも、新ガイドラインや介護保険制度、公費での金融機関救済、独禁法改悪、労基法改悪などに賛成し、これを推進しました。
こうして財界と保守勢力は、日本の政治・経済・社会の大転換を進め、国会は翼賛国会と化し、憲法を公然と踏みにじる悪法が大量に成立する事態となりました。日本社会党の解体にむけ大労組が公然と圧力をかけたことは、諸国の労働者党にも例をみませんが、日本社会党の自滅は、党が主体性と民主主義的精神に欠けていたことや、労組依存体質が強く、市民運動との連携が弱かったことなどにもよっており、私たち自身の反省点でもあります。
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(「新社会党」綱領)
日本社会党の変質と崩壊、「社会民主党の変節」が実に率直に、かつ厳しく書かれていると思います。これを読んで分かることですが、「新社会党」がこの綱領を起草した当時、社民党は自民党の側にいたワケですね。とでもじゃないけど、「左派」とは呼べない。もちろん社民党に残った、というか残らざるを得なかった人たちも、自分たちが「左派」だなんて思ってなかったと思うんです。「社会民主党」の「社会」という文字を取っ払って「民主党」になりたかった。「日本社会党」が分裂して、菅直人と鳩山由紀夫がつくった「民主党」に多くの社会党議員が合流してしまったわけですが、村山元首相とか土井元衆院議長など、社会党の顔とされていた議員たちは、菅さんたちに民主党への入党を断られます。民主党に入れなかった人たちは、しょうがなく「社会党」に残るわけですが、新社会党の綱領が指摘するように、この当時「社会党」なんかもうボロボロになっているわけです。「社会党」ではもう選挙を戦えない。この様な状況を取り繕うために、とり残された彼らは取りあえず新党を作ったわけですがそれが社民党なわけです。
1996年の総選挙で、社会民主党は旧社会党の議席を当然維持できず、惨敗します。「社会」の名の付く政党が「共産」党よりも小数の議席しか得られなくなった初めての選挙でした。以前の常識では「社会」民主党が共産党よりも議席が少なくなる事なんて考えられなかった。社会党の人たちにとっては衝撃的なことだったのではないかと思います。僕はまだ10代だったのでよく分かりませんけど(爆)。
この選挙の後に社民党は党大会で選挙総括をするわけですが、その議事録の一部が社民党HPに掲載されています。社民党 都道府県連合幹事長会議(1996/12/06)
これを読むと、当時の社民党の混乱ぶりと、「左派」政党とは思えないような発言が目を引きます。
>大前英世(大阪)
阪府連合は民主党一本で戦った。全国連合が、近畿の比例に社民党の候補二人を府連合に相談もなく公認した。これはなぜか。また「社民党は移行期の政党」と自ら位置付けながら、なぜ新党に移行しなかったのか。全国連合には前進の姿勢がみじんも感じられない
>平良長政(沖縄)
沖縄は、いまも米軍基地問題に揺れている。継続的、恒常的な勢力がなければ、反戦運動を闘うことができない。働く人びと、障害者、日本の平和、人権、福祉、環境を考えるとき、日本に社民主義の政党は必要。存在価値は十分にある。社民主義が輝くのは、これからだ
>西村伸一郎(高知)
小選挙区も比例区も民主党で戦った。労組の動きにもよるが、多くの議員や党員が民主党へ移る可能性が高い。ただ社民党の旗を守りたいという議員や党員もいる。なんとか仲良く運動ができるよう着地点を探っている。社民党は「移行期の政党」とした部分は訂正しておくべきだ。
>答弁 伊藤幹事長
「移行期の政党」については、どういう方法がいいのかも含め、よく勉強させていただく。
>小原宣良(岩手)
消費税率引き上げ、コメ輸入、小選挙区制導入、いずれも避けて通れない課題であり、党は責任を持って対応しなければならない。税制改革特別委員会では、党の主張を前面に出してがんばれ。
ここで注目されるのは「移行期の政党」という言葉。いずれは民主党に合流する方向だけど、取りあえず今は社民党で頑張ろう。。。デタラメも良いところですよね。。。平良長政(沖縄)のような発言をする者がいるかと思えば、西村伸一郎(高知)「小選挙区も比例区も民主党で戦った」などという代議員もいる。岩手の代表なんかは言ってることが自民党と同じです。これじゃ当然選挙にも勝てませんし、左派の人たちが票を日本共産党に流すのも当然ですよね。出来た当時の社民党はこんな感じだったんです。
こうやって振り返ってみると、福島瑞穂の社民党がいかに左傾化しているかがよく分かります。
続く。。。
※(写真は日本共産党党本部;社会党の崩壊後、なんだかんだ言われつつも社民党よりは前進している日本共産党。党本部は党員や支持者の募金によって大きくリニューアルされた。特に、党本部のエントランスは「開かれた党」として変わっていこうとする共産党の意気込みが感じられる。とはいえ、建物が変わっただけでは人は変わらない)
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他意はありませんが、
TBさせていただきました。
失礼ならばいけないと思い、
報告させていただきます。
こちらとリンクするブログだと思います。
今後も末永いお付き合いができれば幸いです。