『フクシマを歩いて~ディアスポラの眼から』(徐京植)は、毎日新聞社から2012年3月に発行された本。
作者の徐京植(ソ・キョンシク)は、1951年、在日朝鮮人(韓国籍)二世として京都市に生まれる。
ディアスポラ(離散の民)のアイデンティティをめぐる諸問題について多様な角度から考察することを研究テーマとしている。
本の帯封の文章を紹介する。
【以下、転載】
☆苦しみへの想像力
戦争や植民地支配によって離散者(ディアスポラ)となった人びとの声を刻み続けてきた著者が、原発事故で生活を破壊された人びとと向き合う。
現代史の様々な苦難との関連のなかで福島の惨事を語る、3・11以後の思想的結晶!
……被害の中心から遠い人々ほど被害の真実にみずからの想像力を及ぼそうと努めなければならず、被害の中心に近い人々ほど勇気をもって苛酷な真実を直視しなければならない。ひどく困難なことだが、目の前で起きている事態がそのことを私たちに要求している。私たちの想像力が試されているのだ。……「地上の有力者よ、新たな毒の主人たちよ」より
(以上、転載おわり)
ミサイル騒動で浮き足立っている人たちにこそ、この本を読んで欲しいと思う。ミサイル・スキャンダルが福島の現実を隠蔽するからというだけの理由からではない。
離散者は内部に存在する外部である。内部に取り込まれてしまわない客観的な眼を持ちやすい。もちろん、これは可能性の問題であって一般化はできないとしてもだ。これも一般論だが、内部にあって想像力で外皮を食い破って外部からの眼を獲得するには、修練がいる。
離散者とは、福島や東日本から西日本への避難者、離散者しかり。
内部とは「近代国民国家」の内部という意味である。想像力において「近代国民国家」からの離散者になることは至難の業と言わねばならない。もちろん、その場合には、「非国民」というレッテルや非難が待ち受けている。
「ガンバロウ! 日本」のスローガンから距離を置ける人たちは、どれだけいるのか……。
現実と非現実の逆転現象ということを長年考え続けている。
きっかけは、1995年だった。もう18年も経過してしまった。
阪神淡路大震災とオウム事件の年。どちらもが、想像を絶する出来事だった。どんなに優れた小説家や脚本家であっても、この現実以上の虚構的真実を創作することができるのか……? それがちっぽけな創作者としての自己への問いかけだった。
そして時代はネット時代、バーチャル・リアリティ爛熟時代へと突入していく。
世紀が改まり2001年。ニューヨーク、ツインタワーへの飛行機突入、崩落。ペンタゴンへの謎の飛行物体の突入。世に言う「同時多発テロ」の発生。ちなみに、この事件の真実はアメリカ政府の公式見解にも関わらず、未だ未解明である。
ある日本の新聞に、一人の映画監督が「映画のような現実」というような表現の寄稿をした。まさに現実が映画(非現実)を模倣したかのようだったのだ。本来、小説や映画などのフィクションは現実の模倣であるはずなのに……。映画が、どれだけ巧みに作られたかで、「リアルだ」とか「リアリティがある」とか評価されてきた。
私は、このとき、何年後かにこの事件が必ずハリウッドで映画化されるだろうと予測し、うんざりした。非現実を現実が模倣し、それを非現実が再び模倣することによって、真実はますます隠蔽されていく。
現実を超えるフィクション、虚構の中で現実の人間と社会の真実を描くことは、最早不可能な時代なのか……。
私は、創作不能者に陥ったままだ。創作は絶望に至る想像力の中からしか生まれ得ないのか……。