本日の福音書(マルコによる福音書1:14-20)の舞台である
カファルナウムという村は、ヘロデによってギリシャ化された
人工的な都市であるティベリアスから程近いところにありました。
しかし、そこに住んでいたのは、伝統的なユダヤ教を守る人々でしたから、
対岸のティベリアスを苦々しく眺めていたに違いありません。
そのような純粋なユダヤ人の会堂である安息日に
イエス様は教えを述べておられました。
残念ながら、そこでイエス様がどのような教えを述べたのかということには
マルコは触れていません。
マルコ福音書の特徴として、イエス様がどのような教えをなさったかというより、
そこでの教えがもたらす人々へ、今日の箇所で言えば、人々の「驚き」という点に
ポイントがあるのではないでしょうか。
なぜかといえば、イエス様がユダヤ教のラビ=教師や律法学者たちとは
全く違うということに気が付いたからなのです。
彼らは、イエスが権威ある者として教えたのです。
すなわち、イエス様は当時のユダヤ教の教師=ラビたちの教えとは、
自分たちの先達の教えを基にモーセの律法の解釈を解き明かす
という方法であったのです。
いわば、先祖伝来の口伝を基に聖書(旧約)の特に律法を解釈することでした。
「昔から、誰それによってこういわれている」式の
いわば人間の教えの引用に過ぎなかったのです。
しかし、イエス様の教えの特徴は、他の誰にも権威を求めることなく、
ご自身の権威において語っているというところにあります。
このような教え方は、当時のユダヤ人たちに
新鮮な驚きを与えたに違いありません。
また、教え方の方法や形式だけでなく、イエス自らが語る言葉に説得力があり、
そして、その言葉を聞いた者たち誰もが、
そのことを肌で感じたということなのではないでしょうか?
執事 マタイ金山昭夫 《2006.1.22 週報より》
カファルナウムという村は、ヘロデによってギリシャ化された
人工的な都市であるティベリアスから程近いところにありました。
しかし、そこに住んでいたのは、伝統的なユダヤ教を守る人々でしたから、
対岸のティベリアスを苦々しく眺めていたに違いありません。
そのような純粋なユダヤ人の会堂である安息日に
イエス様は教えを述べておられました。
残念ながら、そこでイエス様がどのような教えを述べたのかということには
マルコは触れていません。
マルコ福音書の特徴として、イエス様がどのような教えをなさったかというより、
そこでの教えがもたらす人々へ、今日の箇所で言えば、人々の「驚き」という点に
ポイントがあるのではないでしょうか。
なぜかといえば、イエス様がユダヤ教のラビ=教師や律法学者たちとは
全く違うということに気が付いたからなのです。
彼らは、イエスが権威ある者として教えたのです。
すなわち、イエス様は当時のユダヤ教の教師=ラビたちの教えとは、
自分たちの先達の教えを基にモーセの律法の解釈を解き明かす
という方法であったのです。
いわば、先祖伝来の口伝を基に聖書(旧約)の特に律法を解釈することでした。
「昔から、誰それによってこういわれている」式の
いわば人間の教えの引用に過ぎなかったのです。
しかし、イエス様の教えの特徴は、他の誰にも権威を求めることなく、
ご自身の権威において語っているというところにあります。
このような教え方は、当時のユダヤ人たちに
新鮮な驚きを与えたに違いありません。
また、教え方の方法や形式だけでなく、イエス自らが語る言葉に説得力があり、
そして、その言葉を聞いた者たち誰もが、
そのことを肌で感じたということなのではないでしょうか?
執事 マタイ金山昭夫 《2006.1.22 週報より》