ウラとオモテの日記

私が見た裏と表の話を紹介する。今話題のニュースよりもあまり取り上げることの少ないニュースに注目します。

地域版・地方紙甲子園2017年夏1

2017年08月06日 20時36分20秒 | Weblog

半月以来のウラオモです。私自身が忙しかったことで書けませんでした。8月最初は恒例の地方紙甲子園です。今回も夏の話題を中心にお届けします。今日は広島に原子爆弾が投下された日です。記事の中にある原爆に対する思いは多いでしょう。初日はこれを中心に取り上げていきます。

 あの日多くの人が亡くなりました。夫婦だった人もその後の人生を送ってきました。産経新聞では子供たちに語り継いでいく夫を紹介しています。兵庫県に住む夫はあの日爆心地から1.7キロの中学校の校庭にいました。「熱い」「家に連れて帰ってくれ」。血まみれで目が覚めると、顔が判別できないほど大やけどを負った級友らの無残な姿がありました。女学校生だった奥さんも爆心地から2.3キロの軍需工場で被爆し、倒壊した建物の下敷きとなりました。
 2人は戦後、就職先の銀行で出会いました。「背中に大きな傷があるんよ」。3歳年上の奥さんは声をひそめ教えてくれました。33年に結婚、九州を訪れた新婚旅行では、「米寿まで一緒にいようね」と翁の博多人形を買って帰ったそうです。36年には長女が誕生し2人で泣いて喜びました。仕事柄、全国を転々とし、最終的に宝塚市に居を構えました。奥さんは平成14年にC型肝炎を患っていることが判明、「原因が原爆にあることを国に認めてほしい」。夫が原爆症認定に奔走する中、奥さんは肝臓がんで22年3月に亡くなりました。認定が下りたことを知った5日後だったそうです。死後、遺品を整理していた夫は日記を見つけ、そこには感謝の言葉がつづられていました。
「お嫁には行けないと諦めていたけど、お父ちゃんが結婚してくれてよかった。ありがとね」「いつもいつも2人で原爆の話を笑いながらでもできたね。それが楽しかった」。
闘病生活の苦しみをほとんど口にすることがなかったが、日記では「負けてはならじ原爆の子よ」と強がる一方、「淋(さび)しいよ」「やせ我慢」と心の内も吐露していたそうです。
「原爆に遭わなければもっと違う人生だったはず。原爆は死んだ者も、生き残った者も苦しめる」
奥さんの死をきっかけに、地元の被爆者の会の世話役や小学校などでの語り部活動を始め、今年は兵庫県代表として平和記念式典に初めて出席することになりました。ただ、夫婦で郷土を訪れることができたら、奥さんはどれほど喜んだだろうとも思うそうで、生きていれば89歳。
「私は88歳よりもっと長生きして、1人でも多くの人に話をしていくからな。それまで見守っていてくれよ」。
奥さんと二人三脚で戦後を生き抜いてきて、原爆と戦ってきた夫でした。奥さんを亡くしてから原爆のことを語って、後世に語り継いできました。奥さんの分まで活動して、頑張って生き抜いてほしいです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170806-00000074-san-soci

 昨年8月6日はちょうどリオオリンピックの開幕でした。開会式では日本のダンサーも含めて平和に関する踊りを行っていました。しかし大会組織委員会が「今日は広島の原爆の日」との場内アナウンスを流す計画だったと朝日新聞が伝えました。記事では組織委で広報責任者を務めたマリオ・アンドラダさんによると、バッハIOC会長のあいさつの後、「未来のために平和はとても大切なものです。今日は71年前に広島に原爆が落とされた日。戦争の悲劇を忘れてはいけません」とアナウンスする計画だったそうで、「広島の原爆に触れることで、反戦のメッセージを込めるはずだった」と語ったそうです。組織委はオバマ前米大統領の昨年5月の広島訪問や、次の五輪開催都市が東京であることを踏まえ、開会式の1カ月半前から、式の中に「広島」「原爆」などの言葉を盛り込むことを検討していたそうです。だが式直前になってIOCが「政治的なメッセージはない方がよい」と指摘、五輪憲章が五輪の政治利用を禁じていることも考慮し、関連するナレーションを全て削除したそうです。リオ五輪の開会式を巡っては、ブラジル在住の被爆者や松井一実広島市長が1分間の黙禱(もくとう)をするよう求めていたそうで、アンドラダさんはアナウンスを計画した理由の一つとして、こうした要請の存在もあったとしたようです。ただ黙禱については「時間が長すぎ、開会式の雰囲気にもそぐわないため、難しかった」と明かしたそうです。五輪ではこれまでも紛争やテロの犠牲者について開会式などで追悼を求める動きがあったが、IOC側は「政治的な意味を持ちかねない」などとして認めていないそうです。IOCのルールとはいえ、平和の祭典に黙とうなどは向いていないこということなんでしょう。平和に対する強い多いをアナウンスする提案はいいかもしれませんが、そのようなメッセージを伝えるのが難しくなってきているのでしょうか。なかなか難しい問題です。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170806-00000012-asahi-soci

 千羽鶴を折って病気と闘う人に送るのはこの広島の原爆で亡くなった人が折り続けたのに由来しています。NHKによると、広島市の平和公園にある「原爆の子の像」のモデルになった佐々木禎子さんが病床で折った折り鶴が、アメリカ・ユタ州にある原爆を投下した爆撃機にゆかりのある博物館に寄贈されることになり記念の式典が行われました。この折り鶴は広島市の平和公園にある「原爆の子の像」のモデルで幼い時に被爆した佐々木禎子さんが病床で折り続けたもので、禎子さんの死後、平和への祈りを込めて世界各地に贈られています。そのうちの1羽がユタ州ウェンドーバーにある原爆を投下したアメリカ軍の爆撃機「エノラ・ゲイ」の乗組員が訓練を行った空軍基地跡地の博物館に寄贈されることになり、現地で記念の式典が行われました。式典には地元の住民や軍の関係者らおよそ100人が出席し、禎子さんのおいの佐々木祐滋さんが「この折り鶴が日本とアメリカの平和を作っていくことを心から祈っています」とあいさつし、博物館の責任者、トーマス・ピーターソンさんにケースに入った小さな黄色い折り鶴を手渡しました。これに対してピーターソンさんが、「この争いの絶えない世界で、いつの日か平和が訪れることを祈っています」と応じると会場からは大きな拍手が送られました。「禎子の鶴」が寄贈されるのは、アメリカ国内で6か所目で、さらに年内には戦時中、原爆が開発されていたニューメキシコ州のロスアラモスにある博物館にも寄贈される予定だということです。6か所にも送られている鶴ですが、平和の使いとしてこれからも多くの街で鶴が寄贈されることを願っています。そういえば私はうまく折れません。
https://news.goo.ne.jp/article/nhknews/world/nhknews-10011089441_20170806.html

 韓国にも原爆資料館が開館したと聯合ニュースが伝えました。広島原爆の被爆者が多く暮らし、「韓国の広島」と呼ばれる南部の陜川郡で「原爆資料館」の開館式が行われました。被爆者の遺留品や証言録、写真、映像などが展示されているそうで、郡守(日本でいう市長のような人)は開館式で、「全国で生存している原爆被害者約2500人の念願だった資料館がついに完成した。二度と原爆による被害がないよう非核化運動に皆が参加する契機になってほしい」とあいさつしました。開館式後は、朝鮮人被害者約7万人(被爆当時)を追悼する記念式典が行われたそうです。広島で被害を受けた韓国の人は相当多く、原爆公園内にも慰霊碑はありますが、韓国にも資料館ができたというのは意外かもしれません。韓国旅行の際には一度訪れてもいいかもしれません。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170806-00000020-yonh-kr

 最後は姫路であった空襲です。姫路空襲は1945年7月3日に起きました。市内に住む男性が体験を語ったと毎日新聞(兵庫版)が伝えました。男性は警報のサイレンを聞き、駅に落ちる照明弾を見ました。「駅周辺に焼夷(しょうい)弾が雨あられのように降ってきた。火の海となり、姫路の空を真っ赤に染めた」と話します。自宅で祖母を連れて母と逃げようとすると、祖母は「どこにおっても死ぬ」と拒みましだ。母が「先に逃げえ」と叫び、家を出て水田沿いの溝に隠れました。しばらくして「シュシュシュ」と鋭い音を聞きます。目の前に焼夷弾が落ちました。「やばい」。だが発火せず、助かりました。 焼け落ちた家で祖母が死に、やけどした祖父もその後亡くなりました。街は強烈な焦げ臭さに包まれました。
「空襲で祖父母も家も街も、みんななくなってしまった。北を見ると、姫路城だけが残っていた」
 姫路城はなぜ空襲を逃れたのか。戦後50年の95年、米軍爆撃機の元搭乗員の姫路城訪問に同行し問いました。「ただの偶然だ。もしかしたら、神の意思だったのかも」。元搭乗員はそう答えたといいます。祖父母をなくしてまでも空襲から逃れていった男性で、姫路城も空襲から逃れて世界遺産があるわけです。戦争は多くのものを失われます。体験した人も数少なくなってきます。貴重なことを次世代に語り継いでいくことが私たちの願いです。
https://mainichi.jp/articles/20170806/ddl/k28/040/314000c


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