ゼロシナリオを支持する。福島原発事故以降、原発の安全性に大きな疑問を持つに至り、早期に脱原発を実施すべきである。今後新規の原発の建設は不可能であり、2030年には一部を除いてほぼすべての原発が40年の耐用年数を超え、実質廃炉になるはずであり、ゼロシナリオ以外には考えられない。
なぜ2020年以前に原発ゼロの早期シナリオがないのか。
新聞などの世論調査によれば、国民の声は、「脱原発」が過半数を占めるにもかかわらず、より早期のゼロシナリオが提示されていない点にまず不信感を覚える。 国内での「再稼働反対」デモの高まりを見ても、国民の多くが早期の脱原発を求めており、それに対しては、たとえば2020年以前に原発ゼロといった選択肢があるべきである。 ドイツでは2022年までにすべての原発を停止することを決めた。 これだけの過酷事故を引き起こし、世界に迷惑をかけた日本にはその選択肢さえも提示されないのはなぜか。政府の当事者としての認識に大いに疑問を覚える。
原発維持が前提の選択肢に疑問
まず「エネルギー選択にあたっての4つの重要な視点」の第一が、「原子力の安全確保」となっており、原発の維持を前提にシナリオが提示されているのはおかしい。2番目の「エネルギー安全保障の強化」というのも原発を促進するためのさんざん使い古された言辞である。 さらに「コストの抑制」も、原発の発電コストが、1kWhあたり9円程度という従来の試算を前提にしている。 確かに稼働時だけを考えればそうかもしれないが、通常30年とも40年ともかかる原発の廃炉費用、事故の場合の住民賠償、使用済み核燃料の処分にかかる費用は、このコストには反映されておらず、再生可能エネルギーに比べて大幅割安という議論は今や説得力を失っている。 現に東電は実質債務超過、国営化の状態であり、国民が事故のコストを払わされている。
原発安全神話は崩壊
地震多発国の日本に原発は危険すぎるし、核燃料廃棄物の処理も確立されていないのに、原発の運転を継続するのは「トイレのないマンション」に住むようなものだ、と今や国民は認識している。 原発が夢のエネルギーともてはやされたのは、すでに50年も昔の話であり、核燃料サイクルはほぼ実現不可能であるのは、六ヶ所村の再処理工場が今だ稼働できず、「もんじゅ」が96年に停止したままであることでも明らかだ。 さらにこの半世紀の間に、79年のTMIの事故、86年のチェルノブイリ事故、そして2011年の福島の事故と、少なくとも3度の炉心溶融(爆発)事故がおこり、放射能が外部に大量に放出された。これを直視せずに何を見るのか。今後世界で200基ともいわれる原発が建設されれば、必ず同じような過酷事故が起こり、その国と周辺国の住民に被害が及ぶであろう。人間は原発を制御できておらず、原発技術者の頼ってきた確率論による原発安全性は完全に崩壊しており、必ず事故は再発するとみるべきだ。
政府には国民の声が聞こえないのか、もしくは聞く気がないのか。
3.11以降、国民の認識は変わった。電気業者の選択ができないにもかかわらず、原発の電気を使い、原発を間接的に容認してきた反省と「脱原発」の意志を多くの国民が示している。 福島の事故に一番責任のある東電と、原子力政策を推進してきた政府は、一番深く反省すべきであるにもかかわらず、原発維持を前提にすべての議論を進めようとしていることに、大きな疑念と不信を抱かざるをえない。 今や安い電気と経済性よりも、「国民の命と健康」を第一に考えて、エネルギー選択をすべきであると多くに人が感じている。 福島県の三分の一近い土地が放射能に汚染されて半永久的に居住不可能になり、警戒区域圏外でも多くの住民が見えない放射能の恐怖に怯えて暮らす現実を、政府はもっと深刻に受け止め、原発政策の今後を判断すべきである。
今回、「国民的議論」のために併行して実施された「意見聴取会」で、電力会社の人間や原子力村の住人が何人も紛れ込んで批判を買った。電力会社や原子力産業の立場は、エネ環や経産省で十分に忖度されているはずであり、一般国民に意見を聞く場にそれらの関係者が出席するのは不適切であることはいうまでもない。 意見聴取委員会やパブコメは、原発稼働維持を前提に、そのアリバイ作りに企画されているという印象を持たざるを得ない。
政府は、今回のパブコメのすべてのコメントを公表するくらいの透明性をもってしかるべきではないか。
一刻も早く脱原発、エネルギー分散型社会の構築を
何もすべての原発を即刻廃止しろと言っているわけではない。老朽化しているものもあれば、稼働してまだ20年たたない比較的新しい原発もある。 活断層やプレート境界地震の危険が高いところと、それほどでもないところもあるはずだ。 一方で、すべての原発を即刻廃炉にすれば、電力会社の経営に深刻な危機が生じるという事情もあるかもしれない。しかし、これまでも廃炉や使用済み核燃料の処理コストなど先送りにしてきたのだし、いまや直面せざるを得ない問題である。
今回の大飯原発の再稼働に関しても、新安全基準なるものを発表してわずか数日で保安院が稼働を了承するといった全く茶番劇を演じて失笑と怒りを買った。 一方、昨年5月の突然の浜岡原発停止は、アメリカの指示だという噂が流れている。 東電に関しても、来年以降には、柏崎刈羽の再稼働を模索しているのは間違いないだろうし、それについても、徹底的に地震や津波のリスクの検証、東電の経営への影響などが、多角的に議論されて結論が導かれるべきである。 実際、この夏、関電管内は夏場の電力が足らないと脅して大飯を再稼働しながら、実際は足りている状況で、火力発電所を止めたと判明している。 国民を欺いたいい加減なプロセスでは、誰も納得しない。リスクと経済性をしっかりと検証し、それを各原発ごとに積み上げていけば、ドイツのように2020年までには脱原発といった、国民が納得できる路程表が描けるはずではないか。
シェールガス革命で化石燃料の市場も変化しており、コンパインドサイクルのガスタービン発電など、既存火力でも原発よりずっとすぐれた発電効率をもつ技術が登場している。
再生可能エネルギーの買い取り価格の設定で、日本でも本格的に太陽光や風力、地熱などの発電に参入する企業も出てきた。脱原発と発送分離によって、地産地消の分散型エネルギーネットワークを構築することに未来があることは確かだろう。そちらに大胆に舵を切ってもらいたい。
以下、パブコメには字数の関係で入らなかった部分。
国民が信頼する政府、国民を信用する政府に
福島原発の事故は、我々に、日本国民一人ひとりが安全に安心して生活できることの大切さを深く刻みこんだ。そのためには、少しくらいエネルギーコストが高くなっても仕方ないというのが、多くの人の認識だと思う。 一円でも安いエネルギーや労務コストを求めてなりふり構わぬ大企業の集まりの経団連が、原発維持の最右翼勢力であるのはなんとも異様である。 かつて日本を牽引するといわれた大企業と、それと共同体となった政府が、国民からかつてないほど遊離していると感じる。
政府は、今回のような原発現状維持の大前提を隠ぺいした選択肢を提示するのではなく、(出すなら、原発はいついつまでは必要だ、理由はこうこうだ、と堂々と言うべき。それでこそ、本当の「国民的議論」が可能になる)、国民に情報を公開し、原発維持と廃止の場合の是是非非をもっと率直にオープンに提示できなかったことを残念に思う。 3.11以降、国民一人一人は、たとえ企業や大組織に所属していても、この問題を真剣に考え、意見を表明する場を求めている。 政府は、惰性や組織の権力に押し流されることなく、国民の声に耳を傾けてもらいたい。
このパブコメのペーパーにもあるように、「国民各層」間に「国民同士の議論」を活発化させ、「それを礎にして政府は責任ある選択を行う」という言葉自体が全く、明治太政官の布告のようで、官の上から目線を象徴しており、国民の知性を信用していない。
消費者の声を聴く力を失った企業は、本来のビジネスでまともな製品やサービスを生み出す力を失うであろう。政府についてもそれは同じ。次の解散では、どこも過半数をとれず、大連立(大野合政権?)が生まれるしかないだろうが、その下で、ほくそ笑むのは霞が関かと国民は途方にくれるだろう。 政治主導が絵空事に終わった民主政権の3年を通じて、国民は政治にますます絶望し、消費税増税やTPP推進の横暴に不信感を募らせている、突破口はまだ見えない。