小袁治の本名は関根誠と申します。
家族より『マック』と呼ばれています。
コメントはエッチ系対策で時間差有り。
日刊マックニュース
平成18年6月11日(日)
仕事先で見習い前座のころの知人と会い旧交を温めたよ♪
《旧暦5月16日》
※船橋儀式殿の落語会の高座は普段は葬儀会場なんだ。
屏風の裏は葬式用の祭壇があるんだよ(^^ゞ
★朝から激しい雨が降り続く、これじゃ天気予報と少々違うのでは
ないか?予報では曇り所によりにわか雨と聴いたような気がした。
朝早くに起きて堀切菖蒲園駅前で待ち合わせをした。友人の勤めて
いる葬祭会館のPR落語会に出かけるためだった。朝9時出発とは
少々早過ぎだね。出演者はヤツガレと声帯模写の鯉川のぼる先生、
前座の古今亭駒次君の三人連れ。
船橋儀式殿という葬祭会館の内覧会を催しそのアトラクションで我
々の演芸を聞いてもらうというご趣向だ。午前11時開始で12時
に終わる。土砂降りだというのにお客様は沢山来ていたよ(^ム^)
★開演前にマジに古い昔の知り合いのヤスさんが楽屋を訪ねてきた。
ヤツガレがまだ前座になる前の見習いの頃の知り合いだ。
ヤツガレが五代目小さんに入門したのは昭和42年の2月3日だっ
た。その頃は入門希望者が多く雨後のタケノコ状態でやたらと前座
が増えた時期だった。いわゆる戦後のベビーブームの余波なんだろ
うね♪入門者が余りに多く楽屋に入りきらないので、見習いは楽屋
に入れることを禁止して、師匠宅で修業をするように方針を決めた
らしい。だから入門して約2年間楽屋で働くことが出来ない、毎日
師匠宅で掃除、洗濯、炊事の修業をしていたんだ。
その頃、さすがのヤツガレも親元に居づらいことがあり、見習いに
なって二年目に師匠には内緒で錦糸町のキャバレーでバイトのボー
イをやったんだ(^^ゞ
夕方、5時から始めてラストまでバイトのボーイをやったんだよ。
★錦糸町のグランド大興というキャバレーだった。ヤツガレは新聞
の求人広告を見て予備校生ということで採用してもらったんだ。
本採用のボーイはそれらしいコスチュームだけど、バイトは白衣だ
ったなァ。初日にホールへ出て働いている内にショータイムになる。
『グランド大興ゴールデンショーッ♪』という聞きなれた声がした。
ありゃ?!この声は兄弟子の柳家さん吉さんだ(驚)。どうやらア
タシャ兄弟子が毎晩、ショーの司会をしているキャバレーでバイト
を始めてしまったようだ \(>。<)/ギャ-
★先輩のボーイさんにお願いをして、楽屋に行ってさん吉兄さんに
あいさつをしたら‥‥、ビックリしていたよ\(◎o◎)/!
『どうしたんだ?マコト』
「えゝ、親元に居るのも大変で…、バイトで少しは収入がないと、
大変なんですよ」
『そうか‥‥、無収入はつらいよなぁ、分かった俺で出来ることが
あったら協力してやるよ』
それからというものは、さん吉兄さんには本当に世話になったなァ。
何かつらいことはないかと聞かれたときに真っ先に言ったのは腹が
減ってつらいという事だった(^_^;)本採用のボーイには軽食とか夕
食は出るが、バイトには一切、何も出ない、空腹状態で思わず残り
物のオードブルを隠れて食ったところを見つかってボコボコに殴ら
れたバイトのボーイが居た(^^ゞ
つらいけど残飯であっても盗み食いだけは出来なかった。
さん吉兄さんは支配人に自分の後輩であることを伝えて調理場の皿
洗いにしてもらえないものか交渉してくれた。調理場の松本チーフ
は手が足りないので大歓迎となりヤツガレは皿洗いとしてキャバレ
ーで働くことになった。ボーイの時と段違いで待遇が良いんだ♪
食物でひもじい思いをしなくて済む、単純作業だけど皿洗いはボー
イの時よりも体力を使わずに済むので江東楽天地(洒落)だったね。
★グランド大興の隣に系列の大興飯店という中華料理店があって、
夕飯は大興飯店のじゃぁじゃぁ麺を良く食ったなァ、独特の味付け
でミートソースのようなじゃあじゃあ麺ではなくスープがたっぷり
入っていて、麺も自家製で、もの凄く美味かったよ♪
大興飯店のヤスさんというコックさんが、こさえる料理がバカウマ
で良く食わしてもらったんだ。
その、ヤスさんが楽屋に訪ねてきてくれた。何年ぶりなんだ?30
年以上経っているよ、お互いに齢を重ねておじさんになったけども
懐かしい♪思わず僅かな時間だったけど思い出話になっちゃた。
岡千秋さんもボーイの先輩として一緒に大興で働いた時期があった
んだ。あの大作曲家は意外やヤツガレより年下だったよ。
岡さんがボーイをやめて新宿の札幌ラーメン屋で働いているときボ
ーイ仲間とラーメンをご馳走になりに行ったことがあった(笑)。
岡さんもちゃんと覚えていた、『あゝ、あの時ね、小袁治さんも居
たの?あのときは本当に迷惑だった(笑)』だってさ(>_<)
★青春の思い出というか、ヤツガレには良い体験だった。
その頃知り合った人で未だに付き合っている友人が居る、ちゃんと
ヤツガレの後援会へ入会してくれている(^J^)
★わが愛するジャイアンツは負けました\(>。<)/ギャ-
しかも、前代未聞のシクジリをやりやがって不名誉この上なしであ
りますよ。テレビの放送はテレビ東京だった、アナウンサーがお騒
ぎするけどベースを踏んでいないシーンがないままの放送だった。
そうだろうなァ、まさか3塁ベースを踏まないなんて‥‥。
冗談じゃないッ!いい加減にしろよ(怒)!
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私は、72年に西林一成さんのハワイアン・バンドで大興にお世話になり、バンマスの名は失念しましたがビッグ・バンドに移籍、7年間ほどお世話になりました。
柳家さん吉さんも、岡千秋さんも出る入るだったように記憶します。
グランド大興は、70年代の末になくなったように憶えています。数年前、久しぶりにあの辺を訪れてみましたが、大興飯店もなくなっていました。
礎石だけが、なぜか残されていたように思います。そのとき、私もジャージャー麺を思い出しました。
ちなみに、私はE.ベースを弾いていました。
懐かしいですよねェ、約40年以前のはなしです。
オーナーは木材会社の経営をしてました。
さん吉師匠はご贔屓になっていたようです。
ラストの「照明部:小笠原さん」という合図がマジに思い出しました。