「来たれ 創造主なる聖霊よ」BWV667
2つ目の出し物、一曲目は「来たれ 創造主なる聖霊よ」BWV667だ。
この曲は題名からもわかるとおり、聖霊を呼び求める曲、聖霊なる神がテーマとなっている。
で、この楽譜を調べていくと、バッハが聖霊をどう認識しているかがよく判って面白い。
音楽による「聖霊論」となっている。
で、キリスト教で言う「聖霊」について知ろうとするなら、最もよい資料は新約聖書の「使徒行伝」だ。ヴァージョンによっては「使徒の働き」とか「使徒言行録」とも呼ばれている。
この使徒行伝の記事とこの曲とを照らし合わせながら調べていくと、すごく一致してるんだ。メッチャ面白いよ。
まず、ソプラノに聖霊を表わすコラール旋律が奏されるのだが、その下でアルト、テナーパートが非常にリズミックな、ダイナミックな動きを見せる。
それは使徒行伝の第二章に描写されている情景、
すなわち、聖霊が天から降ってきた時、人々が驚愕して大騒ぎになった様子を描写していると言えるだろう。
そしてバスパートはなぜか一拍目と二拍目を抜いて三拍目に短く咆哮する。
これは、人々の大騒ぎの元になっているのが「第三位の神」である聖霊の降臨によることをあらわしている。
この冒頭を聴いた人々は、
コラールのメロディによって、主題が聖霊とその降臨であることを、
アルト・テナーによって、それが大事件であったことを、
そして、バスパートによってその事件が三位一体の第三の神である聖霊によるものであることを認識する。
聖書とコラールをよく知っている人(つまりバッハ当時の聴衆)なら、条件反射的に使徒行伝の第二章を想起するだろう。
次に8小節目に入ると、今度は長く引き延ばされたバスのG音の上に三声部がめまぐるしく動く。
この動きのモチーフの特徴はタイで導き出されたり、シンコペーションとなっている部分が非常に多いことだ。
それは、この聖霊降臨という大事件によって、人々が突き動かされるように「なんだ、なんだ、どうした、どうした?」と現場に引き寄せられ、集められて来る様子を思わせる。
そのベースとなっているのはもちろん神の働きだ。(バスパートGの保続音、Godの頭文字Gだ。グローリア、すなわち神の栄光をあらわすG と解釈することもできる)
で、13小節目からまた聖霊のテーマが現われる。
しかし、今度はこのテーマ、ソプラノではなくバスパートに現われる。
バスパートであるから、当然、それほど目立たない。メロディーと言うより、低音の支えのように聞こえてしまうかもしれない。
実は、これが重要なことだ。
新約聖書「使徒行伝」の主人公は「使徒言行録」との名のごとく、使徒たち、人間たちだ。
しかし、その人間たち、使徒たちを導き、教え、育て、用いてみわざをなさるのは、
すなわち、陰の主人公、真の主人公は・・・・実は「聖霊」なのだ。
13小節目以降、テーマがバスに潜って奏され続けるように、
聖霊も人の影に回って、人を通して働かれる。
だから、バスパートのメロディー、そんなに目立つ必要はないのだ。
「わかる人にはわかる。知っている人には分かる」そんな程度に聞こえれば十分だ。
表向きの主役はやはり、上三声、つまり人間たちなんだ。
で、曲が進み終わりが近づくと、
最初、壮大に、ダイナミックに、劇的に始まった音楽なのに、だんだん暗く、もの悲しい雰囲気になってくる。
これは、聖霊の働きの中でも最重要なものの一つが、人間にその罪を示し、悔い改めに導くという事であるということだ。
そして、最後にはハ長調の属和音であるGの和音で曲が終わる。
ハ長調におけるGの和音ってのは、期待感や緊張感、解放へのエネルギーが充満する和音だ。
この和音はどうしても解決、解放を要求する。
だから、本来ハ長調の曲はGの和音がCの和音で解決して終わらなければならない。
しかし、この曲では「Cへ、Cへ!」というエネルギーがたまりにたまった状態で解放されることなく終わってしまうのだ。
聴き手の思いは否応なくCへの期待で、Cに到達したいという思いで満たされる。
演奏していても、この最後の和音を弾き終わって後、Cの音を弾きたい思いでウーッとなっちゃう。
これは聖霊の働きが最終的に人々をキリストに導く事であることを示している。
だって、聴き手の期待する「C」ってキリストのことなんだ。
キリストの頭文字はKではない。Cだ。
そう、メリークリスマスの「C」、キリスト「C] だ。
このわずか26小節、一分にも満たない小曲の中でバッハは
神が三位一体であり、聖霊は第三位の神であること、
その降臨は人類史上をゆるがす大事件であったこと、
その事件が多くの人を動かし、導き、変えたこと、
その後、多くの使徒たち、キリスト教徒たちが聖霊に導かれてローマ帝国中を駆けめぐって伝道したこと、
その影の主人公は聖霊であったこと、
聖霊の働きは人々に罪を示し、悔い改めに導き、最終的にキリストを指し示しすこと
等々を見事に描ききっているわけだ。
これは本当にすごい音楽だと思う。
バッハって本当にすごい人だ。
こんな音楽をバッハに書かせてしまう聖書って書物はすごいと思う。
そんなすごい聖書を生み出した神・キリストはすごいと思う。
しかし、演奏は結構むつかしい。
こんなに様々な要素が凝縮して詰め込まれているので、それぞれの要素をきちんと音にしていくのがとてもむつかしいわけだ。ともすると、内容があまりに豊かでわけが分からなくなって混乱してしまいがちだ。
実は、今のところ最も苦戦しているのがこの曲だ。
ウーン、なんとかせねば・・・・・。
(~ヘ~;)ウーン・・・・・。
あと一ヶ月半、がんばるぞ!
どう整理して描いていくかが課題だ。
2つ目の出し物、一曲目は「来たれ 創造主なる聖霊よ」BWV667だ。
この曲は題名からもわかるとおり、聖霊を呼び求める曲、聖霊なる神がテーマとなっている。
で、この楽譜を調べていくと、バッハが聖霊をどう認識しているかがよく判って面白い。
音楽による「聖霊論」となっている。
で、キリスト教で言う「聖霊」について知ろうとするなら、最もよい資料は新約聖書の「使徒行伝」だ。ヴァージョンによっては「使徒の働き」とか「使徒言行録」とも呼ばれている。
この使徒行伝の記事とこの曲とを照らし合わせながら調べていくと、すごく一致してるんだ。メッチャ面白いよ。
まず、ソプラノに聖霊を表わすコラール旋律が奏されるのだが、その下でアルト、テナーパートが非常にリズミックな、ダイナミックな動きを見せる。
それは使徒行伝の第二章に描写されている情景、
すなわち、聖霊が天から降ってきた時、人々が驚愕して大騒ぎになった様子を描写していると言えるだろう。
そしてバスパートはなぜか一拍目と二拍目を抜いて三拍目に短く咆哮する。
これは、人々の大騒ぎの元になっているのが「第三位の神」である聖霊の降臨によることをあらわしている。
この冒頭を聴いた人々は、
コラールのメロディによって、主題が聖霊とその降臨であることを、
アルト・テナーによって、それが大事件であったことを、
そして、バスパートによってその事件が三位一体の第三の神である聖霊によるものであることを認識する。
聖書とコラールをよく知っている人(つまりバッハ当時の聴衆)なら、条件反射的に使徒行伝の第二章を想起するだろう。
次に8小節目に入ると、今度は長く引き延ばされたバスのG音の上に三声部がめまぐるしく動く。
この動きのモチーフの特徴はタイで導き出されたり、シンコペーションとなっている部分が非常に多いことだ。
それは、この聖霊降臨という大事件によって、人々が突き動かされるように「なんだ、なんだ、どうした、どうした?」と現場に引き寄せられ、集められて来る様子を思わせる。
そのベースとなっているのはもちろん神の働きだ。(バスパートGの保続音、Godの頭文字Gだ。グローリア、すなわち神の栄光をあらわすG と解釈することもできる)
で、13小節目からまた聖霊のテーマが現われる。
しかし、今度はこのテーマ、ソプラノではなくバスパートに現われる。
バスパートであるから、当然、それほど目立たない。メロディーと言うより、低音の支えのように聞こえてしまうかもしれない。
実は、これが重要なことだ。
新約聖書「使徒行伝」の主人公は「使徒言行録」との名のごとく、使徒たち、人間たちだ。
しかし、その人間たち、使徒たちを導き、教え、育て、用いてみわざをなさるのは、
すなわち、陰の主人公、真の主人公は・・・・実は「聖霊」なのだ。
13小節目以降、テーマがバスに潜って奏され続けるように、
聖霊も人の影に回って、人を通して働かれる。
だから、バスパートのメロディー、そんなに目立つ必要はないのだ。
「わかる人にはわかる。知っている人には分かる」そんな程度に聞こえれば十分だ。
表向きの主役はやはり、上三声、つまり人間たちなんだ。
で、曲が進み終わりが近づくと、
最初、壮大に、ダイナミックに、劇的に始まった音楽なのに、だんだん暗く、もの悲しい雰囲気になってくる。
これは、聖霊の働きの中でも最重要なものの一つが、人間にその罪を示し、悔い改めに導くという事であるということだ。
そして、最後にはハ長調の属和音であるGの和音で曲が終わる。
ハ長調におけるGの和音ってのは、期待感や緊張感、解放へのエネルギーが充満する和音だ。
この和音はどうしても解決、解放を要求する。
だから、本来ハ長調の曲はGの和音がCの和音で解決して終わらなければならない。
しかし、この曲では「Cへ、Cへ!」というエネルギーがたまりにたまった状態で解放されることなく終わってしまうのだ。
聴き手の思いは否応なくCへの期待で、Cに到達したいという思いで満たされる。
演奏していても、この最後の和音を弾き終わって後、Cの音を弾きたい思いでウーッとなっちゃう。
これは聖霊の働きが最終的に人々をキリストに導く事であることを示している。
だって、聴き手の期待する「C」ってキリストのことなんだ。
キリストの頭文字はKではない。Cだ。
そう、メリークリスマスの「C」、キリスト「C] だ。
このわずか26小節、一分にも満たない小曲の中でバッハは
神が三位一体であり、聖霊は第三位の神であること、
その降臨は人類史上をゆるがす大事件であったこと、
その事件が多くの人を動かし、導き、変えたこと、
その後、多くの使徒たち、キリスト教徒たちが聖霊に導かれてローマ帝国中を駆けめぐって伝道したこと、
その影の主人公は聖霊であったこと、
聖霊の働きは人々に罪を示し、悔い改めに導き、最終的にキリストを指し示しすこと
等々を見事に描ききっているわけだ。
これは本当にすごい音楽だと思う。
バッハって本当にすごい人だ。
こんな音楽をバッハに書かせてしまう聖書って書物はすごいと思う。
そんなすごい聖書を生み出した神・キリストはすごいと思う。
しかし、演奏は結構むつかしい。
こんなに様々な要素が凝縮して詰め込まれているので、それぞれの要素をきちんと音にしていくのがとてもむつかしいわけだ。ともすると、内容があまりに豊かでわけが分からなくなって混乱してしまいがちだ。
実は、今のところ最も苦戦しているのがこの曲だ。
ウーン、なんとかせねば・・・・・。
(~ヘ~;)ウーン・・・・・。
あと一ヶ月半、がんばるぞ!
どう整理して描いていくかが課題だ。
