読者の一人から、「コラール、コラールって何やねん?意味わからんわ。それがわからんから結局全部わからんわ」と質問があった。
なるほどそれはそうだ。コラールって言葉の意味って知らない人がほとんどだと思う。
実はぼくも長いこと知らないままだった。
何となく、「宗教的な雰囲気をもったハーモニーのきれいな音楽」という程度の理解しかなかった。
あたりまえのように使っている言葉の意味を実際にはよく知らないってことよくあるよね。
でも、それって本当はよくない。 よね?
で、コラールって音楽ってどんなのものかを、山本風に解説しておこう。
正確な定義ってのは音楽事典でも引いて自分で調べて欲しい。
インターネットでもすぐに出てくる。ヤフーとかで検索したらあっという間にわかる。
以下は、あくまでぼくなりの説明です。
コラールとは
プロテスタント教会ってのがルターによって始まったってことは中学とか高校の歴史の授業で誰でも習ったことだろう。宗教改革って呼ばれてる。
この時にルターさんが着手した改革の中には教会音楽の改革もある。
そのころのカソリック教会、基本的に教会音楽はラテン語で専門家が演奏したり歌ったりしていた。
それを教会に来ているみんなで歌うものへと変革したのだ。
メロディーは単旋律。歌詞はドイツ語ってわけだ。
これなら、誰でも歌える。
でもって、そこにいる人たちは王様でも貴族でも、騎士でも、農民でも、商人でも誰でも声を合わせて一つになって歌うってことになった。
これは当時としてはものすごく画期的なことだった。 ハズだ。
そのために、造りだされた歌(今で言えば讃美歌とか聖歌、ゴスペルソングだね)をコラールって言うんだ。
このコラールって音楽、当時のクリスチャンたち、老いも若きも、貴族から庶民にいたるまでものすごく喜んで歌ったそうだ。
ルターからバッハまでは200年くらいあるんだけど、その間に数え切れないほどのコラールが生み出され、歌われた。
で、バッハの存命当時、教会に来てバッハの音楽を聴いていた人たちは、ほとんど例外なくこの「コラール」ってやつにどっぷり漬かっていたわけだ。
バッハ存命中だけでなく、1960年くらいまでのドイツのプロテスタント地域の人たちにとっても、この「コラール」って、われわれ日本人にとっての唱歌のようなもので、誰でも知ってる「あのメロディーとあの詩」であったわけ。
だから、彼らドイツ人プロテスタント地域の聴衆にとっては、
コラール旋律のほんのわずかの断片でも聴こえてきたらすぐさまそのメロディー全体とその詩が持っている概念が自動的に頭の中に想起されるって仕組みが長い歴史の中で出来上がっているんだ。
有名なマタイ受難曲とかヨハネ受難曲、カンタータなどもこのコラールが縦横無尽に引用されている。
「コラールはマタイ受難曲における屋台骨である」といわれるほどだ。
だから、これらのバッハの作品を聴く時、それがどんなコラールでどんな意味なのかを知っていないと、実際その曲でバッハが語ろうとしていることが、ほとんどわからないという羽目に陥る。
バッハの音楽を楽しむにはコラールとそれを生み出した聖書とキリスト教を知っておくことが、やっぱ必要なんだ。
バッハだけではない。ベートーベンだって、リストだって、ブラームスだって、ブルックナーだって、いやそれどころかあのワーグナーだって、聖書とキリスト教についての知識がなければ相当表面的な理解で終わってしまうだろう。
読者諸氏、お気を悪くなさらないでいただきたい。
これは本当のことなんだ。
だから、キリスト教徒になるとかならないとかの話は脇に置いておいて下さったらいいので、なんせクラシック音楽を楽しみたい、勉強したい、専門家になりたいと思われるのでしたら、是非、聖書とキリスト教についても関心を持っていただきたい。
人生、何倍にも楽しめること間違いありませんです。
なるほどそれはそうだ。コラールって言葉の意味って知らない人がほとんどだと思う。
実はぼくも長いこと知らないままだった。
何となく、「宗教的な雰囲気をもったハーモニーのきれいな音楽」という程度の理解しかなかった。
あたりまえのように使っている言葉の意味を実際にはよく知らないってことよくあるよね。
でも、それって本当はよくない。 よね?
で、コラールって音楽ってどんなのものかを、山本風に解説しておこう。
正確な定義ってのは音楽事典でも引いて自分で調べて欲しい。
インターネットでもすぐに出てくる。ヤフーとかで検索したらあっという間にわかる。
以下は、あくまでぼくなりの説明です。
コラールとは
プロテスタント教会ってのがルターによって始まったってことは中学とか高校の歴史の授業で誰でも習ったことだろう。宗教改革って呼ばれてる。
この時にルターさんが着手した改革の中には教会音楽の改革もある。
そのころのカソリック教会、基本的に教会音楽はラテン語で専門家が演奏したり歌ったりしていた。
それを教会に来ているみんなで歌うものへと変革したのだ。
メロディーは単旋律。歌詞はドイツ語ってわけだ。
これなら、誰でも歌える。
でもって、そこにいる人たちは王様でも貴族でも、騎士でも、農民でも、商人でも誰でも声を合わせて一つになって歌うってことになった。
これは当時としてはものすごく画期的なことだった。 ハズだ。
そのために、造りだされた歌(今で言えば讃美歌とか聖歌、ゴスペルソングだね)をコラールって言うんだ。
このコラールって音楽、当時のクリスチャンたち、老いも若きも、貴族から庶民にいたるまでものすごく喜んで歌ったそうだ。
ルターからバッハまでは200年くらいあるんだけど、その間に数え切れないほどのコラールが生み出され、歌われた。
で、バッハの存命当時、教会に来てバッハの音楽を聴いていた人たちは、ほとんど例外なくこの「コラール」ってやつにどっぷり漬かっていたわけだ。
バッハ存命中だけでなく、1960年くらいまでのドイツのプロテスタント地域の人たちにとっても、この「コラール」って、われわれ日本人にとっての唱歌のようなもので、誰でも知ってる「あのメロディーとあの詩」であったわけ。
だから、彼らドイツ人プロテスタント地域の聴衆にとっては、
コラール旋律のほんのわずかの断片でも聴こえてきたらすぐさまそのメロディー全体とその詩が持っている概念が自動的に頭の中に想起されるって仕組みが長い歴史の中で出来上がっているんだ。
有名なマタイ受難曲とかヨハネ受難曲、カンタータなどもこのコラールが縦横無尽に引用されている。
「コラールはマタイ受難曲における屋台骨である」といわれるほどだ。
だから、これらのバッハの作品を聴く時、それがどんなコラールでどんな意味なのかを知っていないと、実際その曲でバッハが語ろうとしていることが、ほとんどわからないという羽目に陥る。
バッハの音楽を楽しむにはコラールとそれを生み出した聖書とキリスト教を知っておくことが、やっぱ必要なんだ。
バッハだけではない。ベートーベンだって、リストだって、ブラームスだって、ブルックナーだって、いやそれどころかあのワーグナーだって、聖書とキリスト教についての知識がなければ相当表面的な理解で終わってしまうだろう。
読者諸氏、お気を悪くなさらないでいただきたい。
これは本当のことなんだ。
だから、キリスト教徒になるとかならないとかの話は脇に置いておいて下さったらいいので、なんせクラシック音楽を楽しみたい、勉強したい、専門家になりたいと思われるのでしたら、是非、聖書とキリスト教についても関心を持っていただきたい。
人生、何倍にも楽しめること間違いありませんです。
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