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一般社団法人山口県バスケットボール協会公式ブログ

故 岩崎克之助氏 追悼文

2013-12-10 21:28:52 | 読み物
山口県バスケットボール協会顧問の岩崎克之助氏が11月に逝去されました。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。
小松徹氏と神崎泰宏氏の追悼文を掲載します。

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追悼 岩崎克之助先生
防府市バスケットボール協会 会長 小松 徹

                          
平成25年11月11日の朝、岩崎克之助先生が逝去されたとの報がメールを通じて連絡網に載りました。

膵臓がんと告知されて7年間、「癌を受入れ、闘わずに穏やかな生活を続けていきたい。」と可能な限りご自宅で療養され、教え子たちとの談笑を楽しみにされていると聞かされておりました。言葉にならない寂しさを覚えます。

棺を覆いて事定まる、と言われますように、先生のご功績の甚大さには枚挙の遑もなく、改めて先生の偉大さを偲びたいと思います。

先生は、昭和49年から58年までの10年間、防府市バスケットボール協会の理事長として、重責を果たされました。その間の特筆すべき一つとして、バスケットボール振興と競技力の向上のために、ポートボールと小学生のミニバスケットボールの普及・浸透にご尽力されたことが挙がります。ゴールリンクがなくてもゲームのできるポートボールは、小学校の体育や防府市内子供会の冬季スポーツ大会として継承されています。ポートボールやミニバスケットボールの浸透・拡大によりバスケットボール人口の裾野が広がりました。興味関心を示す児童生徒が一人でも増えていくことは、将来のスポーツ愛好者の増大につながり、バスケットボール競技の発展に寄与することになると力説されておられました。スポーツ教室の開催をはじめとして、ミニバスケットボールの指導者の養成、チームや関係する組織の立ちあげ、中学校・高等学校の部活動・市民オープン大会の運営等々、数々のご実績は偉大な足跡として今日まで脈々と受け継がれてきております。

先生は、防府市立華西中学校で10年間、桑山中学校で9年間、保健体育の教員として、また男子バスケットボール部顧問として、その卓越した指導力で一人ひとりの潜在能力を引き出し、多くの生徒の運動能力を伸ばしてくださいました。

先生ご自身は、山口県教員団の国体選手の一人として、時間を作り出しては体育館でお一人、黙々とひとりシュートの練習に取り組まれておられました。そのお姿は、今でも脳裏に焼き付いております。ゴールリングを狙ってボールを放つその瞬間の先生の眼差しには情熱・芯の強さ・希望・優しさなどが入り交じっていたように感じられ、とても印象的でした。

その後、山口県教育庁指導主事、防府市教育委員会学校教育課長を経て、防府市立桑山中学校校長として定年退職されるまで、熱い情熱を教育一筋に捧げられてこられました。

教え子の多くは、練習中に先生の厳しい眼差し一身に浴び、練習後の優しい眼差しと微笑みによって、先生が描かれたように終生に亘りスポーツを愛し、バスケットボールを楽しむ生活を満喫しております。先生の播かれた種は、将来さらに多方面で開花し、実を結ぶに違いないと確信いたしております。
先生と一緒に共有できた時間と数多くの思い出を大切にし、先生のご期待に応えるべく、バスケットボール協会の発展に努め精進してまいりたいと思います。どうか、これからもずっとこれまでと同様にバスケットボールを愛してやまない私たちと山口県バスケットボール協会、防府市バスケットボール協会の発展をお見守りください。

心より先生のご冥福をお祈りいたします。岩崎克之助先生 これまで本当にありがとうございました。

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岩崎先生と過ごした日々の中で
桑山中学校バスケット部OB 神崎 泰宏


○出会い ~ほめて個性を伸ばす~
兄の影響もあって、桑山中入学と同時にバスケット部に入りました。背が低く、運動能力に乏しい私は、いつも周りを見上げながらも、上手くなりたいという一心で来る日も来る日も練習に励みました。そんな私のやる気のスイッチが入ったきっかけは、「おまえはここがすばらしいんだ。」とみんなの前でほめられたことです。なぜかその気になってくるから不思議です。シュートが下手な私は、ドリブルとパスに活路を見いだしました。運動能力の低さは、相手の「動きをよむ」ことで補いました。「先生にほめられたい・・・。」これは当時のバスケット部員全員が心の中で、ひそかに思っていたことです。
先生の方針は、身長でポジションを決めるのではなく、全員が同じメニューの練習をすることです。背が高くてもドリブルがうまい、背が低くてもポストプレーができるプレーヤーが自然と育っていったのです。そんな目に見えない競争の中で、ライバル心が芽生え、個性が生かされ、さらに伸ばされていきました。

○指導の厳しさとバスケットの魅力 ~先輩をこえる、まねして覚える~
気持ちの入ったいいプレーには最大限の賛辞が贈られ、怠慢プレーにはとても厳しい檄がとびます。ルーズボールに必死にとびつくといった「ボールに対する執着心」が大切なのだと、記録には残らないプレーの中にたくさんのナイスプレーがあることなど、身をもって教えられました。今考えてみるとバスケットに必要な技術、精神力、体力が見事なバランスで鍛え上げられていったのでした。当時は練習中に水も飲めないし、休みもほとんどない環境でしたが、たまの休日でさえも、気がつけば仲間とともに外のコートでシュート練習をするほどバスケットが大好きになっていたのでした。

毎年、1月1日に体育館に現役、OBが集まって学年毎にチームを作って試合をする「正月試合」が行われました。負けた学年は先生のご自宅で奥様が作られた、あつあつのうどんをごちそうになって帰るのです。いつも温かく応援して下さる奥さんの存在は私たちの大きな心の支えでした。この試合では、先輩のかっこいいプレーに肌で触れ、また先輩のチームに勝つことが自信になり、さらに高いレベルを目指すようになったものです。

○指導者として ~基本に始まり、基本に返る~
私が中学教員になって、指導者としてスタートしてからも先生はやはり目標であり続けました。先生と過ごした日々の中で一番感じた事は、「何事もごまかしはいけない。」のひと言に尽きるのではないでしょうか。その意味するところは「本当の技術も精神力も「本物」を身につけるには時間がかかるし、なかなか結果がでないものだ。目先の結果にとらわれることなく、たとえ長い時間がかかっても信念をもって継続して指導し続けることが大切だ。」ということです。

いつも「心に汗を、頭に汗を、体に汗を」かく練習が良いと言われていました。私が肝に銘じている言葉です。また、まずは指導者の燃えるような情熱があってこそ、生徒が夢中になり、感動のあるドラマが生まれるということ。そのことを証明するように、先生の教え子の共通点は誰もがバスケットが大好きになったこと、いや好きにさせられたこと・・・毎年正月に開かれるOB会では、50歳前後のメンバーで試合ができるぐらいまだまだ現役でプレーしているのです。この年になってもやめられないぐらい大好きなのです。先生に出会わなかったら、きっと違った人生になっていたと思います。

振り返ってみると、大切なことは全てコートの中から学んだように思います。だからバスケットは人生そのものです。これからもバスケットの奥深い魅力を堪能するまでは、現役プレーヤーとして、夢の全国制覇を目指して走り続けることでしょう。我々は近い将来、必ず全国大会の決勝の舞台に立ち、自分たちの持ち味を思う存分発揮し、とことん楽しんでプレーする姿を見せたいと思います。

ただ・・・一度でいいから、先生を全国大会の優勝監督にしたかったなあ・・・

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ウィンターカップ2011 参加報告書(宇部工業)

2012-02-23 15:53:56 | 読み物
昨年12月に東京で行われた全国高校選抜優勝大会に初出場を果たした宇部工業高校の報告書をお届けします。
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「ウインターカップ2011 に参加して」

山口県立宇部工業高等学校バスケットボール部
主将 上田雅也

3年生にとって高校最後の大会となるウインターカップ県予選。僕たちにとっては、山口国体を共に戦ってきた仲間と競い合う最後の大会でもありました。様々な人の思いがあり、ドラマがある大会でしたが、宇部工業は勝ち抜いて山口県代表としてウィンターカップ初出場を決める事が出来ました。保護者・OB・学校関係者の方々をはじめ多くの方々からたくさんのご支援、ご声援本当にありがとうございました。ここに、出場報告させていただきます。

新人、中国大会予選と優勝しながら私たちは6月のインターハイ予選の準決勝で敗れ、悔し涙を流しました。

もう一度ゼロからやり直そうとチーム全員でミーティングを開きました。山口国体も終わり、ウィンターカップの県予選に向けてチームでの練習が再開しました。しかし、体育館の耐震工事などで練習時間に限りがあり万全の状態とは言えませんでした。それでもチーム内のコミュニケーションを大切にし、周りの方々への感謝の気持ちを忘れずに強い気持ちで予選に臨みました。その結果、三年生の意地を見せることができ、チーム一丸となりウィンターカップへの切符を手にすることができました。

高校最後の大会、しかも初めてのウインターカップ、僕たちは一戦必勝をモットーに戦う事を決め、残りの練習に専念しました。12月22日に山口県を出発し、23、24日は東京で練習試合や練習をこなし、良いコンディションで試合に臨むことができました。

25日の二回戦からの登場となった私たちは、鹿児島県代表の川内高校と対戦しました。初戦と言うことで、動きに硬さが見られましたが、時間が経つにつれ宇部工業らしさを取り戻すことができました。しかし肝心なところでイージーミスが出てしまい、ボールをがむしゃらに追いかけたものの、最後まで点差を詰めることができず、61−73で敗れてしまいました。しかし、東京体育館という晴れの舞台で、宇部工業での三年間の練習の成果は出せたと思います。

この三年間このメンバーでプレー出来た事を本当に感謝しています。今まで私たちを応援してくださった方々、忙しいなか毎日ご指導してくださった先生方、毎日厳しい練習を乗り越えてきたチームメイトに心から感謝します。三年生は引退してそれぞれの道を歩みますが、そのなかで高校三年間で学んだことを生かしていきたいと思います。後輩達には、一日一日の練習を大切にし、インターハイ、ウィンターカップ予選に向けて切磋琢磨して行って欲しいと思います。

応援してくださった全ての皆様に感謝を申し上げ、報告とさせていただきます。これからも宇部工業の応援よろしくお願いします。本当にありがとうございました。

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2回戦(25日)
宇部工業●61(13-14 10-16 15-12 23-31)73川内(鹿児島)

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ウィンターカップ2011 参加報告書(誠英高)

2012-02-18 11:49:01 | 読み物
昨年12月に東京で行われた全国高校選抜優勝大会に出場した誠英高校の報告書をお届けします。
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「ウィンターカップをおえて」

誠英高等学校女子バスケットボール部
主将 小嶋菜月

様々な苦難を乗り越えて臨んだ県予選で勝利し、誠英高校は山口県代表として二年連続二十回目のウィンターカップ出場を決める事ができました。多くの方々からたくさんのご声援をいただき本当にありがとうございました。

私たちは6月のインターハイ予選の決勝戦で慶進高校に敗れ、悔し涙を流しました。夏休みから9月にかけては、10月に開催される山口国体に向けての練習が多かったため、チーム全員が揃って練習することがほとんどできませんでした。山口国体では、一回戦は長野県、二回戦は宮崎県と対戦し順調に勝ち進むことができましたが、三回戦の大阪府との試合ではわずかに力が及ばず三回戦敗退となりました。山口国体が終わってからの約一ヶ月間、再びチームでウィンターカップの県予選に向けての練習が始まりました。しかし、なかなか納得のいく練習をすることができず苦労することが多かったです。それでもチーム全体で切磋琢磨しあいながら一丸となって県予選に臨みました。その結果、三年生の意地を見せることができ、ウィンターカップへの切符を手にすることができました。三年生にとっては高校最後の大会、一戦一戦大切に誠英らしく戦っていこうと決意を固め残りの練習に励みました。

12月22日に山口を出発し、23日は試合観戦・最終調整の練習をしていいコンディションで試合に臨むことができました。

24日、二回戦からの試合だった私たちは福島県代表の郡山商業と対戦をしました。第1Qは初戦ということからか動きに硬さがみられ、なかなか自分たちのリズムを作ることができませんでしたが、第2Q以降はディフェンスからリズムを作ることができ、誠英らしいゲーム展開に持ち込んで大量リードを奪うことができました。最終的にメンバーの15人が全員出場、スコアは93-52で勝利することができました。

25日、三回戦はインターハイベスト4に入賞した東京都代表の明星学園と対戦をしました。第1Qはシュートも決まり、ディフェンスも粘ることができて互角で終えることができました。しかし第2Q以降は相手の高さやディフェンスのプレッシャーの前にミスが重なり、リズムに乗れないまま徐々に点差が広がっていきました。最後まで踏ん張って戦いましたが64-81で誠英高校はベスト16で敗退となりました。負けはしたものの誠英高校で学んだ三年間のバスケットボールを東京体育館で披露することができ、このチームのこのメンバーで最後まで一緒にプレーすることができて嬉しかったです。

私たちを応援してくださった方々、毎日ご指導してくださった先生方、毎日の練習を一緒に乗り越えてきたチームの仲間に心から感謝しています。ありがとうございました。三年生は引退し、これからそれぞれの道を歩むことになりますが今まで学んだことを生かしていきたいと思います。後輩たちはインターハイ予選やウィンターカップ予選に向けて、また厳しい練習をしていくことになると思いますが頑張ってほしいと思います。これからも誠英高校の応援をよろしくお願いします。ありがとうございました。

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2回戦(24日)
誠英○93(23-17 16-3 32-9 22-23)52郡山商業(福島)

3回戦(25日)
誠英●64(16-18 13-23 10-23 25-17)81明星学園(東京)

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インターハイ出場報告書〔山口高校〕

2011-11-11 05:05:24 | 読み物
平成23年度全国高等学校総合体育大会に参加して

山口県立山口高等学校
バスケットボール部主将 川武雅幸

今回の「2011熱戦再来 北東北総体」に山口高校が出場するにあたり、たくさんのご支援・ご声援を寄せていただき、ありがとうございました。ここに、出場報告をさせていただきます。

男子は、秋田県能代市での開催でした。私たちは秋田に入る前に、宮城県の明成高校に寄り、練習試合をさせていただきました。明成高校は5月に山口県体育協会による「被災地チームを招待した山口県チームとの合同練習会」事業の一環として、来山されました。その際、山口高校で練習されたというご縁で、佐藤久夫監督からのご好意で寄せていただくことになりました。佐藤監督の率いる明成高校は全国の常連校であり、鍛えられているチームなので、普段では味わうことのできない体の強さや、スピードを目の当たりにし、非常にいい経験をさせていただきました。

それから、秋田に入り、八王子高校とのモデルゲームやチームでの調整練習を重ね、気持も体もほぼベストの状態で試合当日を迎えることができました。インターハイ出場は、山口高校としては5年ぶりで、当然、私たちにとっては初めての舞台ということもあり、皆緊張していました。そこで、「これまで培ってきたチームディフェンス・緻密さと大胆さを兼ね備えたオフェンスを展開して、全国の舞台で山高バスケを見てもらおう」と、チームで再確認して、心を落ち着かせて試合に臨みました。それでも試合序盤は、緊張からか皆の動きが固く、イージーミスを犯したり、ディフェンスがうまく機能せず、17-21とリードされ1Q終了。2Q、ディフェンスを強めたことで、チームにリズムが生まれ、速攻につなげたり、気持ちよくシュートを打つことができるようになり、33-34と1点差で前半を終えました。後半に入り、3Pやバスケットカウント等で流れをつかみ、逆転して点差を広げる場面もありました。しかし、相手センターが存在感を示し始め、ゴール下で得点を重ねたため、追いつかれました。結果、54-53で3Q終了。最終Q、一進一退の展開となりましたが、先に流れをつかむことに成功し、残り3分で5点リードすることができました。しかし、この後、#14付の退場を機に、インサイドを相手に支配され、再逆転を許してしまい、勝負どころでのシュートも決めきることができないまま、71-73と1ゴール差で負けてしまいました。

ベスト8を目標に挑んだことや、勝つこともできた試合内容での一回戦敗退とあって、敗れた時の悔しさは忘れることはできません。しかし、全国の舞台に立ち、全国大会ならではの雰囲気を経験でき、その中で自分たちの目指していたバスケットを少しでも表現できたことは大きな自信となりました。

今後は、ウインターカップへの出場、そして、出場するだけでなく、全国で勝ち上がれるチームになることを目標に、練習していきたいと考えています。

山口高校バスケットボール部の全国大会出場を支え、応援してくださったすべての皆様に心から感謝申し上げて報告とさせていただきます。本当にありがとうございました。

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[男子1回戦]7月28日(木) 二ツ井町総合体育館
山口●71(17-21 16-13 21-19 17-20)73○桜丘(愛知)
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ウィンターカップ2010 報告書

2011-03-01 05:42:24 | 読み物
昨年12月に東京で行われた全国高校選抜優勝大会にアベック出場を果たした誠英高校の報告書を掲お届けします。
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「ウィンターカップをおえて」

誠英高校男子バスケットボール部
主将 柳田雅人

誠英高校男子バスケットボール部は、創部8年目にして初めて全国大会への出場を決めることができました。それは、これまでこの誠英高校を築いてきてくださったOBの方々や、常にあたたかく声援をおくってくださった保護者の方々、また、優しく、ときには厳しくご指導してくださった先生方はもちろんのこと、他にも本当に色々な方からの支えがあったからこそ、この結果があるとだと思います。本当にありがとうございました。

誠英高校に対する周囲の期待は高まり、僕達も夢が叶うのではないかと挑戦したインターハイ予選では、決勝戦で下関工業に敗れ悔し涙をのみました。その悔しさから、僕達は3年生全部員がウィンターカップへ向けて部に残り、もう一度全国大会出場という目標を目指して練習に取り組みました。そして迎えたウィンターカップ予選、僕達は順調に勝ち進み、決勝戦へと駒を進めました。決勝戦では、対山口高校となり、昨年度の予選と同じカードでした。僕たちは、インターハイ予選のリベンジ、そして、昨年度のリベンジをかけて決勝へ臨みました。試合の出だしは好調でこのまま行けると思いましたがそう簡単には行かせてもらえず、山口高校の粘りの前に追い上げられ、苦しい時間帯も、3年間の意地をみせてしのぎきりました。そして試合終了のブザーが鳴ったとき、これまで何度となく悔し涙を流してきた僕達ですが、ついに嬉し涙を流すことができました。あの時の感動はずっと忘れることはないと思います。

僕達は、東京へ向かう前に愛知学泉大学に立ち寄り、最後の調整をさせていただきました。大学生は強靭な体で、シュート確率も高く、その技術力に圧倒されました。また、対戦相手である山形県代表の羽黒高校のサイズに合わせたメンバーを組んでゲームをしてくださり、本当に中身の濃い練習をさせてもらったと思います。ありがとうございました。

そして23日、アベック出場となった女子バスケットチームの応援のため、僕は初めて東京体育館へ足を踏み入れました。あの会場の雰囲気は、9年間バスケットを続けてきて、初めての感覚でした。その時改めて、全国大会へ出場できた喜びを実感しました。

翌日の24日、僕達はサブコートでのゲームでした。羽黒高校は全体的に僕達よりも背が高かったので、足を使ったバスケで対応しようと考えました。しかし、オフェンスでもディフェンスでもリバウンドをことごとく相手にとられ、主導権を握られてしまいました。また、なかなか外郭のシュートが入らず、それでも、パス回しから空いたスペースへドライブをしかけ、センターへの合わせという形で、得点を取りに行きました。3Qでは、やっと外郭のシュートが決まり、追い上げましたが、最後は102対71で3年生にとって高校最後の試合が終わりました。負けはしたものの、ゲームを通して学んだことは多く、この経験を3年生はこれから、大学や社会に出て、1・2年生はこれからの試合へ向けて活かしていけると思います。

東京まで足を運んで応援してくださった方々、また、山口から応援してくださったすべての方に感謝をしたいです。ありがとうございました。

また、誠英高校男子バスケットボール部は、まだインターハイへの出場は果たしていません。そのインターハイ出場という夢を後輩たちへ託したいと思います。これからも、誠英高校を応援をしてくださいますようよろしくお願いいたします。


「ウィンターカップをおえて」
                       
誠英高等学校女子バスケットボール部
主将 本山ひとみ

本当に苦しかった県予選を経て、山口県代表として二年ぶりにウィンターカップに出場することができました。皆様からたくさんのご声援をいただき、本当にありがとうございました。

インターハイ出場の後、ウィンターカップ出場を目指し、チーム一丸となって厳しい練習を乗り越えてきました。その結果、幸いにも山口県初となる男女アベック出場を果たすことができました。東京への切符を手にいれた瞬間の感動は、今でも忘れることはできません。そして、その後は決意も新たに、全国大会に向けての練習を開始しました。

12月19日に山口県を出発し、22日までの4日間、愛知県の実業団で合宿をさせていただきました。そこでは、実業団の方々とはもちろん、選抜出場校とも練習試合をすることができ、ウィンターカップに向けて気持ちを高めることが出来ました。

12月23日、試合会場である東京体育館を目にし、この体育館で試合ができることを本当に嬉しく思いました。私たちの対戦相手は、昨年もこの大会で2年連続準優勝を果たしている名門校の東京成徳大学高校でした。
第1P、出だしはリードを奪いましたが、すぐに逆転され19-23、第2P以降、相手の圧倒的な高さや、パワー、シュート力で徐々に点差も開いていきました。最後まで諦めず戦いましたが、51-82で初戦敗退となりました。自分自身の高校三年間のバスケットボールをよい形で終わらせることができず、悔しい思いでいっぱいですが、誠英高校で、このチームで、このメンバーと一緒にできたことを、今でも誇りに思っています。

私たちを応援してくださった方々や、毎日一生懸命指導してくださった先生方、今まで一緒に練習してきたチームの仲間に心から感謝しています。ありがとうございました。これから新チームとなり、後輩たちは辛く厳しい練習を続けていくと思います。インターハイやウィンターカップで一つでも多くの勝利をつかめるよう、頑張ってほしいと思います。
 
今年は山口国体も開催されます。私たちは卒業しますが、山口県のことを心から応援しています。是非頑張ってください。

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■大会名
JX-ENEOSウインターカップ2010
平成22年度 第41回全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会

[女子1回戦]
12月23日(木)10:00 東京体育館
誠英●51(19-23 14-20 13-20 5-19)82東京成徳大学(東京)

[男子1回戦]
12月24日(金)16:00 東京体育館
誠英●71(16-23 11-20 23-18 21-41)102羽黒(山形)

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インターハイ参加報告書〔誠英高校〕

2010-10-09 15:49:15 | 読み物
7月に行われた全国高校総体に出場した誠英高校の報告書を掲載します。
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平成22年度全国高等学校総合体育大会参加報告

誠英高等学校        
バスケットボール部主将 本山ひとみ

県予選を経て、山口県の代表として3年ぶりのインターハイに出場することができ、皆様からたくさんのご声援をいただき、本当にありがとうございました。

3年生にとっては最初で最後のインターハイ出場をめざし、予選までの半年間、全国に出場し勝つためにチーム一丸となって日々練習を重ねてきたことや苦しい練習を仲間達と支え合って乗り越えてきたことなどが思い浮かびます。

沖縄到着翌日、審判モデルゲームに参加し、北海道第2代表の札幌創成高校と練習試合を行いました。オフェンス・ディフェンスの最終的な確認ができ、気持ちも徐々に盛り上がってきました。

7月29日、試合会場である県立南風原高校の第2試合目、大阪府代表の樟蔭東高校とのゲームに臨みました。台風の影響で時おり雨も降るあいにくのコンディションでしたが、コートも少しすべる程度で、気になるほどではありませんでした。

みんなで気持ちを高め、第1Pは7点リード、第2P徐々に追いつかれはしましたが何とか粘って38-35の3点リードで前半を終了しました。もう少し突き放しておきたかったのですが、パスミスやシュートミスがあり後半に不安が残りました。案の定、第3P開始2分に連続得点を許し逆転され、追いつきそうで追いつけない状況の中、第4P4分に再逆転したものの終了2分前に同点、先に2点をリードされシュートも入らず4点差。ファールゲームでの相手フリースローもきっちり決められ67-73の6点差で初戦敗退となりました。

何かズルズルと力が発揮できないまま終わってしまったと悔いが残ります。

わざわざ沖縄まで足を運んでくださった方々、私達を応援して下さったすべての方々、ユニフォームを着られなかったチームの仲間達等々、たくさんの皆様に申し訳ない気持ちで一杯でした。この大会で、全国との差、シュート力やメンタル面の弱さを身にしみて感じることができました。今後、この悔しさをバネに、またチーム一丸となってウインターカップ出場に向けて再発進していきます。
 
皆様の期待を裏切る結果となり申し訳ありません。

しかし、敗退という貴重な経験を忘れず今後も精一杯努力していきたいと思っています。

これからもご声援をよろしくお願いいたします。

ありがとうございました。

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■大会名
平成22年度全国高等学校総合体育大会[美ら島沖縄総体2010]
第63回全国高等学校バスケットボール選手権大会

[女子1回戦]
7月29日(木)11:10 県立南風原高校体育館
誠英●67(23-16 15-19 12-18 17-20)73樟蔭東(大阪)

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インターハイ参加報告書〔下関工業高校〕

2010-09-10 18:18:22 | 読み物
7月に行われた全国高校総体に出場した下関工業高校の報告書を掲載します。

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「美ら島沖縄総体2010に参加して」

山口県立下関工業高等学校 
バスケットボール部主将 守重彰悟
 
私達は、たくさんの方々にいろいろな面で支援していただき、沖縄インターハイに出場することが出来ました。インターハイで学んだことを今後の生活にいかしていきたいと思います。本当にありがとうございました。ここに沖縄インターハイの報告をさせていただきます。

7月26日(月)に山口県を出発し、福岡空港から沖縄那覇空港に到着。そのまま現地練習会場の県立那覇工業高校で軽い練習をしました。

7月27日(火)西原町民体育館にて、モデルゲーム。対戦相手は優勝候補の呼び声高い福井県北陸高校でした。全国大会常連校に気後れしないように挑みました。結果的に71-78の7点差で敗れましたが、自分たちの力を出すことが出来て、みんなの自信となる試合内容でした。

7月28日(水)「美ら島沖縄総体2010」の総合開会式に出ました。朝5時前の起床、出発に始まり、開会式直前に大雨で進行が遅れるというハプニングもあり、日頃経験しないことだらけでしたが、開会式に出て改めてインターハイに出場できた喜びを実感しました。地元の高校生が沖縄舞踊、ダンス、空手と様々な演技で迎えてくれました。私は山口県選手団の旗手という大役を任されていたので凄く緊張しましたが、なかなかできない貴重な体験ができました。

7月29日(木)沖縄市民体育館にて、ついに1回戦を迎えました。初戦の対戦相手は静岡県2位の沼津中央高校で、東海地区の2位の実力も兼ね備えていました。試合前のアップをしながら、全国大会の決勝が行われる会場でしかもオープニングゲームであることに気分も高揚し、チーム全体が盛り上がっていきました。

試合が始まり、1Qは相手チームのセンター#15ソウ選手にゴール下を攻められましたが、みんなでカバーし合い15-21、2Qは関工の持ち味であるディフェンスからリズムをつくり、#6佐藤がドライブから周りにボールをまわし、その周り4人が確率よくシュートを決めて一時同点に追いつく場面もあり、2Q終了時には33-40という点差以上に良い内容で終わることができました。

しかしながら、3Qに入り、相手のディフェンスが#6佐藤に厳しくなり、得意のアウトサイドシュートがことごとく落ちてしまいました。3Qだけで5-28と大きく差を開けられてしまいました。4Qに入ってもシュート確率は上がらず、落ちていく一方でした。プレスディフェンスで相手にプレッシャーをかけてこちらのリズムに持ち込もうとしましたが、上手く相手に交わされ、61-100という結果に終わってしまいました。

前半互角の試合内容だっただけに、敗れた時の悔しさは大きかったですが、全国の舞台に立ち、全国の雰囲気を味わえたことはとても良い経験でした。

7月30日(木)・7月31日(金)は試合観戦をしました。どの試合もとても迫力があり、得るものがたくさんありました。もう一度あの舞台に立ちたいと思いながら観戦していました。

8月1日(土)無事に山口県に帰ることができました。

下関工業高校としては20年ぶり2回目の出場でしたが、私達選手は全国を経験したことが無かったので、沖縄で試合ができたことはとても意味のあるものになりました。今後のチームの目標として、まずは冬のウィンターカップの出場権を得て再度全国の舞台に立ち、今度は1回戦突破を目指したいと思います。熾烈な県内の予選をもう一度勝ち抜いて東京に行きたいと思います。そのためには残りの数ヶ月間の厳しい練習をこなし、心身共に成長したいと思います。

最後に、下関工業高等学校バスケットボール部を応援してくださった全ての方に感謝申し上げて報告とさせていただきます。ありがとうございました。

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■大会名
平成22年度全国高等学校総合体育大会[美ら島沖縄総体2010]
第63回全国高等学校バスケットボール選手権大会

■結果
[男子1回戦]
7月29日(木)9:30 沖縄市体育館
下関工●61(15-21 18-19 5-28 23-32)100沼津中央(静岡)

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ウィンターカップ 報告書〔慶進高校〕

2010-03-27 22:59:15 | 読み物
昨年12月に行われたウィンターカップ(全国高校選抜優勝大会)に出場した慶進高校の報告書を掲載します。

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「2009全国高等学校選抜優勝大会出場報告書」

慶進高校バスケットボール部
主将 岡崎真侑

 今大会に出場するにあたり、皆様からたくさんのご声援を頂き、本当にありがとうございました。

 6月に行われたインターハイ予選決勝での敗退から迎えた夏休みの練習は、毎日が自分との戦いでした。

 ウィンターカップ予選までは自分自身もチームメイトの皆もなかなか結果を出すことができず、悩み苦しむ日々が続いたと思います。全国大会に出場することの難しさを痛感してから、チーム全体でもう一度士気を高めていき、その結果つかむことのできた山口県予選での優勝とウィンターカップ本選への出場は、三年間の成果としてとても大きな自信として残った。

 昨年度の近畿インターハイに出場したときとはまた違い、今度は夢の東京体育館だったので、そこで試合ができると思うとすごく嬉しかったし、わくわくしました。

 全国大会の大舞台で試合をするのは初めての人が多く、皆緊張していたため、私は、

「アップから大声を出して、コートに入ってからはいつものように自分達のバスケットをしよう。」

と全員に声をかけて一回戦に臨みました。

 対する群馬県代表の高崎商業高校は高さがあると聞いていたので、私たちは夏休みから鍛えてきた慶進ディフェンスを持ち味に戦おうと、モチベーションを上げて挑んでいきました。序盤は両者共になかなか流れをつかむことができず、こちらがディフェンスでしかけても、逆に相手からはゾーンプレスをしかけられる展開となりました。3クォーターまで続いた接戦でしたが、4クォーター開始直後、慶進の3Pを含めた連続得点が決まったことでようやく流れをつかみ、高さでは劣っている分、体を張ったディフェンスでチーム一丸となって1回戦突破をものにすることができました。

 続いて2回戦は埼玉県代表の埼玉栄高校でした。

 このチームは山口県内にはない、ドリブルをあまり使わず速いパス回しから切り込んでくる1対1や、バックコートからアタックしてくるプレッシャーディフェンスで流れを作るチームでした。

 それに圧倒されたのか、自分たちのペースでオフェンスができず、打たされたシュートが続いていました。

 いつものような慶進バスケットが出来ないまま、私は2クォーター目の中盤、負傷によりベンチにさがりました。しかし、高校生活最後の大会だったのでこのままでは悔いが残ると思い、無理を言って再びコートに戻りました。それから最後まで諦めることなく全員でリングに向かい、一時は30点あった点差を19点まで詰めることができました。しかしそこからは追い付くことはできず、タイムアップと共に私たちの高校生活最後のバスケットボールが終わりました。

 負けはしたものの、憧れの東京体育館のコート上でいつも通りの慶進らしく全員バスケットを表現できたことに悔いはなく、村谷先生と島本コーチのもとで3年間バスケットができた事が本当に良かったです。この貴重な経験を今後のステップで大いに発揮していきたいと思います。

 最後まで温かいご支援・ご声援をくださった保護者の方々や山口県バスケットボール協会の皆様に本当に感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。

 今後も慶進高校バスケットボール部をよろしくお願いします。

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■大会名
JOMOウィンターカップ2009
平成21年度第40回全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会

■期日
平成21年(2009年)12月23日(水)-28日(月)

■会場
東京体育館

■結果
1回戦 慶進(山口)57(18-12 11-18 14-12 14-8)50高崎商(群馬)
2回戦 慶進(山口)68(16-25 8-23 11-24 33-15)87埼玉栄(埼玉)

〔大会結果〕ウィンターカップ(全国高校選抜優勝大会)

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〔読み物〕「夢を追う」外伝

2010-03-09 14:16:33 | 読み物
今からちょうど3年前に刊行された山口県バスケットボール協会創立60周年記念誌「夢を追う -山口県バスケットボール協会60年のあゆみ」の編集長を務められた弘中幸雄氏によるエッセイをお届けします。

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『夢を追う』外伝 弘中 幸雄

 美祢高校の校長室で鳴った電話がそもそもの始まりだった。04年5月のこと。秋吉台からやってくる初夏の陽気につられて軽く受話器を取り上げると、事務室の女性が「誠英高校の小松様からです」。

 はい、弘中です、と受話器に告げると、「先生、元気?」と県協会理事長氏の変わらぬ快活な声が鼓膜に響いた。思えば、その時「元気ではないのです」と答えるべきだった。今なら、まずそうする。しかし、口の方は勝手に「ええ、お陰様で」と動いていた。新チームの様子などをひとしきり承った後、

「ところで、先生にちょっと手伝ってほしいことがあるんよ」。

 ん? にわかに暗雲が胸中に立ちこめてきた。この人の手伝いをして今まで美味しい思いをしたことがあったろうか。急いで記憶のページを繰ってみる。――ない。

「実は、今、県バスケット協会の50周年記念誌を作りよるんじゃけどね、先生の力を借りんとこれがなかなか出来んのよね」

「・・・・・・」

 自身の50年史でさえまともに書けるかどうか疑わしいのに、け、県協会! もちろん丁重かつ即座にお断りするべきであった。しかし、この方には大恩がある。言いよどんでいると、

「返事は、イエスか、はいか、どちらでもいいんだけどね」

 国語の世界では、これは二者択一とは言わず、詭弁と言う。詭弁と書いて、ワヤと読む。こうして私は、「山口県バスケットボール協会50周年記念誌編纂委員会」なる蟻地獄に拉致さながらに引きずり込まれたのである。


 7月の第2回編纂委員会は柳井商業高校で開かれた。恐る恐る顔をのぞかせると、編纂委員長は松本正先生、副委員長が小松徹理事長、委員には高体連各地区スタッフが名を連ねていた。編集長を拝命したものの辞令はなかった。恐れ多い肩書きで目の前が暗くなった。

 先行き不明のまま、用意されていた日本バスケットボール協会や他府県の記念誌をめくって思わず顎が外れそうになった。これを作る? 隣の理事長を盗み見ると、明るい顔をされていた。組まれていた腕をほどきながら松本先生が、

「あなたに入ってもらえて千人力だ。余人を以て代え難い」

 お世辞と分からぬ歳ではないものの、この方にもこれまで引き立てていただいた重恩がある。今さら引き返せない。突然ピンチプレーにはまったプレイヤーの心理が手に取るように分かった。パスが出せる場所はどこにもない。気持ちを察していただいたのであろう、紅一点の藤崎佳史子委員がお茶を注いでそっと差し出された。死に水に見えた。


 何から取りかかればいいのか五里霧中、取りあえず外堀から埋めていくことになった。完成予定年月、総経費に財源、作成部数、体裁、全体の構成、協力依頼者一覧、資料収集方法、会議の開催場所や頻度、事務局の開設、備品・・・。案件はてんこ盛りだった。行程のアウトラインがおぼろげながら見えてきたのはほぼ1年後、言わばやっとスタートラインについた頃には、編纂会議はすでに10回近くを数えていた。

 各学校に配付された協会史『夢を追う』を実際に手にしていただければすぐお分かりであろう、第2部《資料編》には、県協会創設以来のデータが入手できる限り収められている。これは60周年記念誌の根幹となる部分であると同時に、とんでもない苦労の集積でもあった。各委員はその作業に黙々と携わってもらったが、とりわけ松本理委員と久保田力哉委員の二人には資料の収拾整理、コンピュータ入力等の作業にただならぬ時間と労力を費やしていただいた。ほとんどの会議は柳井商高セミナーハウスで開かれ、対外調整はもとより夕食や宿泊の手配、深夜にわたる打合せへの配意、手作りの朝食に至るまで今でも低頭の思いである。

 各委員は地区ごとに資料収集や原稿依頼などに奔走し会議の度に報告を伺ったが、並大抵の労ではなかったろう。中でも下関の林哲郎委員は毎回はるばる遠路を駆けつけてもらう羽目になった。ただ、席を改めた場で聞くその回想談は臨場感と説得力に富み、目から鱗がぼろぼろ落ちた。帰路の無事と先行きの武運を祈った。


 さて、2年目には、資料編の編集と並行して県協会半世紀の歩みを俯瞰する作業に取りかからなければならなかった。これもとんでもない難問だった。県協会の軌跡や歴史的全体像を全面的に掌握できている人などいるはずがない。資料もほとんど散逸し、さながら完成図のないジグソーパズル。それでも協会重鎮の方であればある程度は概観をたどれようが、網羅とまではいかない。その何人かの方々に集まっていただき座談会が行われたのが05年の10月だった。思うに、この第1回座談会と07年の2回目の座談会がなければ、第1部《概観編》は成らなかったに違いない。とりわけ、「黎明期」や「草創期」の様子は座談会出席者以外には知りようがなかった。やっと大きな流れがかいま見えた気がしたものの、それでも概観編が活字ベースで原稿になるのは1年以上先のことになる。

 しかも、人を疑うことを知らない私はそのための一本釣りだったなどとは思いもせず、背中に立っている執筆者と書かれた白羽の矢に全く気づいていなかった。信じる者は足元をすくわれる。まして、半年後に転勤先で突然の学校事故に遭遇し、進捗状況を著しく滞らせ多大な迷惑をかける事態になろうとは夢にも思わないことだった。


 3年目。焦燥に駆られていても時が経つにつれ道筋だけは見えてくる。紆余曲折を重ねながら、何とか最終形をイメージできる段階になりつつあった。とは言え、各委員が持ち寄った資料や原稿を整理し、その中からパズルのピースを選り分けフレームにはめ込んでいく作業は法外な手間と辛抱が要求された。検討に次ぐ検討で行き詰まった重い空気を取り払うのは永尾茂則委員の飄逸(ひょういつ)な一言だった。今田充委員は国体少年女子チームを牽引しながら二足の草鞋で走り回ってもらったが、06年度にバトンタッチを余儀なくされた。引き継いだ松田省吾委員は突然のことに足下から鳥が立つ気持ちだったろう。各氏の尽力なくては記念誌完成はおぼつかず、さらに、最後の1年間は各連盟の実務担当者に毎回の会議ごと真率な感想、意見をもって助けていただいた。今なお頭が下がる。

 ピラミッドは裾野が広ければ広いほど天空高くそびえるものとなる。高低はともかく、県協会進展のメルクマールとなる記念碑を何とか築き上げることができたのは、多くの人の輪のお陰であり、そして実は、その人の和をもたらされた松本委員長のお人柄であった。談論風発にして和気藹々の会合であり続けたのは、延べ33回にわたる会議の中心に舵取りとして常に先生が座しておられたからに他ならない。知見の広さと細部にわたる記憶力に舌を巻き、いつも委員への手土産を忘れないお心配りに身を縮めた。全霊をかたむけて記念誌を世に送り出されたその2年後に急逝されるとはまさに思いもよらぬことであり、今にして先生その人こそ余人を以て代え難い方であったと知るのである。


 07年度末と定められた発刊期限に向けて、最終年度は多い時には月数回の会議に追われた。重い筆で書いては直し直しては書く。萩の中村行範委員の眼光は紙背に徹し指摘にためらいはなかった。へコんだ。各方面からの声を聞いての加除修正、プリントアウトされた原稿のチェックに校正…。レイアウトや掲載写真の選定もないがしろに出来ない作業だった。著作権の心配までしなければならず、本当に期日に間に合わせることが出来るのかという不安や懸念は、おそらく全員の共通した気持ちだったろう。印刷所で仮製本された『夢を追う』を手にした時、しばらく題字から目が離せなかった。

 出来上がってみれば、一冊の冊子に過ぎない。読み返せば不備も不足も目に付く。不手際でいたずらに時間をかけ、「50年史」は途中で「60年史」に名称を変えざるを得なかった。行きつ戻りつの会議にしてしまったことも胸を痛める。しかし、始まりは白紙からだった。白紙の束が、曲がりなりにも県協会の道標にまでなったそのことを思うと、永年の懸案であったこの事業に決然と取りかかられた小松理事長の英断と、その志を受けて立たれた松本先生の懐の深さを思わずにはいられない。貴重な資料を提供してもらったり、玉稿を寄せていただいたりした方々はもちろん、多くの関係者からこの冊子のために物心両面にわたる手厚い支援を賜った。そうした絆はまぎれもなくスタッフの両手にしっかり握られていた。その情熱と献身にも感嘆の念は尽きない。


 さて、次はおそらく「100周年記念誌」であろう。私の中では、そのタイトルはすでに定まっている。もちろん、それをここで開陳して興ざめを誘うほど野暮ではない。草葉の陰で、やはりそうかとほくそ笑ませていただくだけである。

 その代わり、『夢を追う』というタイトルの由来を書く愚を許してもらいたい。

 第3回編纂委員会は、故あって美祢高校の校長室で開催された。その資料を用意するにあたり単に「協会史案」などではそっけないと思った私は、即興で「夢を追う」と表紙に載せておいた。いたずらっ子の気持ちであった。ところが、当人の知らぬ間に瓢箪から駒が出ていた。これではまるで結婚前に子供ができていたようなもので、密かながらも清廉高潔を旨とする小生としては今でも顔を赤らめる思いなのである。


 最後に、書き漏らしの多い粗雑をお詫びし文中の役職名等はすべて当時のものであることをお断りするとともに、協会史編纂会議にかかる煩瑣な経理面を一手に引き受けた県協会事務局長の澄川雅士委員の手腕にふれておかなければならない。すご腕であった。とりわけ、最も廉価な方法と経路で計算された会議旅費には言葉を失った。

 末筆で恐縮ながら、本県高体連バスケットボール専門部所属の皆様方の一層の御健勝とますますの御活躍を祈念してやまない。

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故松本正氏 追悼文

2010-01-26 17:41:39 | 読み物
昨年6月に逝去された元県協会副会長松本正氏の追悼文を掲載します。筆者は、元光高女子バスケット部顧問の佐浦益子氏です。

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「松本正先生を偲んで」

昨年、県協会広報担当の小坂氏から故松本正先生の追悼記の依頼がありました。ご逝去から半年以上経過しているのに、何故か書けなくて一日一日うち過ぎていました。あまりにも早いご他界に心がふるえて暫くは言葉になりませんでした。

昨年2月に、熊毛南高校バスケット部顧問だった和佐本先生のご夫人の訃報をお知らせしたときに「こんな状態では、何もできない」と言われた言葉が今でも耳に残っています。受話器を置いたとたんにお訪ねしなければ・・・と思いながら、結局それが最後の言葉となってしまいました。先生の温顔に接することが永久にできなくなり、とても淋しい限りです。

先生には、高校入学当初からバスケットボール部の外部コーチとして指導を受けました。大学4年生だった先生は、卒論を片付けるかたわら、県新人戦に向けて熱心にご指導くださいました。基本を目一杯叩き込まれました。先生の期待にはなんとか応えることができました。感動あふれる私の高校時代の思い出には、先生が何度も登場します。

当時のアルバムを見ると、入部後初めての県外遠征である西日本大会(於博多市)に帯同審判兼コーチ役で同行されたことが残っています。先輩達は先生のことを「カッパ先生」と呼んでいました。その訳は大学では水泳部で活躍されていたこともあったのでしょう。良き兄貴分の青年教師でした。

大学卒業後は新採用で久賀高校へ着任されました。私の高校2年の夏の秋田インターハイに、帯同審判で同行されたのを覚えています。先生は日本公認の資格をめざし、審判にも常に熱心に取り組んでおられました。このときの思い出は、秋田に向かう途中、東京で下車して時の大臣佐藤栄作亭へ招かれたことです。郷土からの全国大会出場を大いによろこばれ、歓待していただきました。そのときの「おつた寿し」の味は忘れられません。田舎ものには驚くことばかりでした。

当時の先生の夢は、自分のチームをインターハイに出場させることでした。その夢は、後に柳井商業高校を率いて大津インターハイ出場という形で実現されることになるのですが、そのときの嬉しそうなご様子は今でも忘れません。

私は高校卒業後、体育の道に進み、大学在学中にも先生から貴重なアドバイスをたくさんいただきました。また、大学卒業後に、先生が勤めておられた久賀高校へ非常勤講師として声をかけていただきました。久賀高校での2年間、教職生活や教科指導に関して、親切心と厳しさにあふれたご指導をいただきました。先生の期待に応えられず、未熟な自分に歯ぎしりした日が何度あったことでしょう。高校時代からの、私の性格を見抜いた上での遠慮のないご指導であったこと、また、これに応えるべく挑戦した自分のことなど、当時のことがしきりに懐かしく思い出されます。新米教員の教育として、まことに貴重な体験であったと感謝しています。

この頃、先生は新婚生活がはじまったばかりでした。柳井港のご自宅にご案内いただき、美しく優しい奥様ともお会いし、一泊のお世話をいただいた若き日を思い出します。

このように、松本先生とは幾度にも渡るご縁がありました。次の赴任校では、互いに子育てしながら体育人としての役職を受けて走り続ける教員仲間でした。私のパートナー(夫)も、同世代の仲間で、バスケットボール協会や高体連関係での交流が深く、良き同志でした。先生が二年前に体調を崩されたときに「先生が快復されるまで」という約束で柳井市バスケットボール協会長の代役を引き受けた我がパートナーも、先生の死を悼み、淋しく過ごしております。かつての教員団チームでは白松寿人、吉村旦、故藤井耿介、中村豊嗣、吉規喜代二、山田隆道、浜村悦巳先生等と秋田国体をはじめ、県代表選手で活躍され、毎回楽しい遠征だったと伺っています。

勝つバスケットボールのノウハウを独特の技と戦術でコツコツと教え込む達人でした。ご退職後も柳井商業高校の外部コーチとしてチームを継続して指導するなど、惜しみなく力を貸す方でした。県協会役員や柳井市バスケットボール協会長として、永年に亘りバスケットの発展に多大なる貢献をされました。そして県協会関係者の念願だった「山口県バスケットボール協会60年記念誌・夢を追う」の編纂委員長として、その発刊にご尽力され、その大役を見事に成し遂げられました。

記念誌のあとがきに、「二度目の山口国体も5年後に迫る中、県協会所属の各チームが今後とも夢を追い、より輝かしい成果を残されるよう祈念申し上げます・・・」と記してあります。弘中幸雄編集長の敏腕とスタッフの素晴らしいスクラムに感謝しておられました。卓越した文章力と筆の才を持ち、職場や各大会、行事においてどのような仕事でも難なく務められる、実に多才な体育人でした。先生が揮毫された記念誌の題字「夢を追う」の文字を見るにつけ、限りなくこみ上げてくるものがあります。

いくら語っても意は尽くせませんが、ありし日の先生を偲び、ご冥福を心からお祈り申し上げます。松本正先生、ありがとう。

平成22年1月
佐浦益子

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松本 正 氏
昭和7年(1932年)生まれ。
山口大卒業後、久賀、徳山商工、柳井商に赴任。61総体準備事務局を経て、新南陽教頭、柳井商教頭、西市校長。
県協会理事、県協会副会長、柳井市協会長の要職を務められ、平成15年から平成19年まで県協会史編纂委員長として敏腕を振るわれた。
平成21年(2009年)6月4日 御逝去。享年77歳。

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