今日は川越市の従妹の家に用事があり、自転車で出かけた。
帰り道、三芳町の通称「いも街道」を通ると、「川越いも」の幟が沢山ある。
川越は「サツマイモ」のイメージがあるけれど・・・
実際には「川越地方のイモ」と言う意味で、川越のほか、隣接する所沢市、狭山市、新座市、三芳町を指すらしい。
「甘藷(サツマイモ)の碑」もある。
また抜けていた、肝心な「碑」を撮り忘れた。
また、この「いも街道」沿いには多くの「石碑」等が存在する。
少しだけ回ってみた。
この辺りは、「三富新田(さんとめしんでん)」と呼ばれ、江戸時代の元禄期に開拓された武蔵野台地上の一地域であり、三芳町「上富」と、所沢市「中富」・「下富」の総称であるとのこと。
「三富新田」の開発の指揮者「柳沢吉保」は、元禄7年に川越藩の主となり、農民たちと共に固い地に鍬を入れて作物の獲れる土地づくりをした。 森林の力を利用した地割配分「短冊区画」 道路に屋敷値を置き、となりに耕地を作り、一番奥に雑木林をもうけ、それを一区画として柳沢吉保は農民たちに配分した。
「多福寺」この前、紅葉を観に行ったけれど・・・
「多福寺」は、開拓農民の「菩提寺」として建立された。
見に行ってみる。
「元禄の井戸」
「島田伴完寺子屋」
江戸時代の学校には、武士の子弟のための藩校と庶民のための寺子屋がありました。
旧島田家は、天保元年(1830年)から上富小学校が開校する明治7年(1874年)まで約45年間にわたり島田伴完(伴左衛門)により寺子屋が開かれました。
この寺子屋には近郷40ヶ村から延べ300人の師弟が集まりました。
「三富新田と水」
吉保は野火止用水の例に習い、箱根ヶ崎の池から水を引こうと考えましたが実現にはいたりませんでした。そこで、三富全域で11ヶ所の深井戸(約22m)が掘られて数件が共同で利用することとなりました。しかし、日照りのときはその深井戸さえも水が涸れてしまい、数km離れた柳瀬川まで歩いて水を汲みに行ったということです。
生憎、今日は休館日で入場できませんでした。
「開拓名主島田家長屋門」
島田家初代で、開拓名主であった「島田忠右衛門」家の「長屋門」
「天王様」
祭りは毎年7月27日、28日の二日間、上富地区の人々の無病息災を願うそうだ。
まだ沢山あったけど、何れ回ってみる。
頼もしい、こんな幟もあった。
そう、「OIMOカフェ」に寄ったら、残念なことに今日は休店日でした。
仕方ないから? 名物だよね、「焼団子」買ってきた。
川越 50年前の思い出の場所です
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