そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

『遠岸』を読む

2008-02-24 02:00:02 | Weblog
薔薇の束貰ひ機席を狭くせり

 海外詠って、ひょっとしたら、極力、カタカナを使わずに書いた方がむしろ雰囲気を出せるのかもしれない、などとこの句集を読みながら考えた。これはおそらく故のないことではないと思う。

 単に、カタカナで海外のことを詠むのでは言葉が日本語に消化しきれていない印象があるから、というのもある。もっと大きな理由としては、カタカナは表音文字であるため、そこから外国の持つ特異な雰囲気をかもし出すのはむつかしい。逆に、表意文字である漢字の方が異国の地のイメージを頭の中でふくらませるのに適当な場合が多いと言えるかもしれない。「フランス」と「仏蘭西」の違い、のようなものだろうか。

 掲句も、海外詠なのであるが、「コックピット」と言わず、「機席」という硬い文字を使うことで、計器類のごちゃごちゃ並んだ、あの機械のイメージが立ち現れる。そんな無機質な空間に闖入してくる香りの強い花束、そのコントラストは明瞭でくきやかである。

 この句集の一番目に付く特徴は、海外詠の多さである。

大瀑布翼あるものは直に見る
金髪は冷え易くして滝を去る
摩天楼より新緑がパセリほど

 新緑がパセリほど、という見立ては、この句の誇る圧倒的な知名度に比してそれほどまでうまい措辞だとは僕は思わない。車がおもちゃみたいだ、と言うのとあまり変わりがないように思う。

 むしろ僕が惹かれるのは、金髪が冷え易いという嘘か本当か分からないけれど妙に納得させられてしまう言い方であったり、コックピットを満たす薔薇の香りであったり、というところ。既成の俳句の価値観をやすやすと越えていけるのは、むしろ既成の俳句の作法を深く身につけているからであろう。

 また、この句集にもう一つ特徴的なのは、生命、主に母性を内包した女性性への敬慕だ。そこにはみずみずしい女性が生きて動いており、単に「母」なるものだけが注目されているのではないあたりも興味深い。

産んで来て白高靴にまたも載る
母の日のてのひらの味塩むすび
香水の中より言葉子を諭す

 母性は、母と子のつながりを表し、生命の連鎖への目を開く。その観点からの生命観は、いろいろな生き物がかなり人間の感覚に引き寄せてとらえられる結果につながる。

ねむたくて殻を曇らす蝸牛
枯るる前眼がよく見えて蟷螂
一湾の縁のかなしみ夜光虫

 このような句に見られる人間および生命へのやわらかい視線を意識すると、冒頭に挙げた句も、直接には描かれていない操縦士のにこやかな笑顔が見えてくる。空を飛ぶという人類の叡智、操縦士や機長といった勇ましい男たち、彼らをたたえる美しい薔薇ー。彼の句は、基本的にまっすぐな生命讃歌、人間讃歌になると思う。それは、草田男とはまた違った形での。草田男よりも主情が前に出ないぶん、一見クールに見える。野暮ったくない。さらりとしている。それはおそらく、表現技法にとどまらぬ、草田男と彼との本質的な違いでもあろう。

豊年よ改札鋏もてあそび

作者は鷹羽狩行(1930-)