学校帰りの小学生が、ちょっとした段差の上に建ってる家の床下に続く穴のフェンス
(画像の右上にある感じのフェンス)
を外から、内側を真剣に覗き込んでいたのを見て、衝撃を受けました。
そしてそれを、お姉ちゃんらしき高学年の子が、やめてとか言って注意してるのを見てさらに衝撃を受けました。
僕はドブとか、でかい壁にたくさんついてる丸い排水溝(よく缶が詰められてる)とか、マンションの裏とか、もちろん家の床下だっていつも興味があって覗いていたのに、いつの間にか、気にも留めずに、自然と視界からカットしていることに僕は気づきました。
子供の頃の視界はもう戻ってこないものだと分かって、その衝撃で心にぽっかりと穴が開いた気がして、虚しい気持ちにさいなまれました。
あれもこれものモラトリアム人間でこそ、世界は色に満ち溢れ、次第に自分を確立していけば、世界は白黒になってゆき、次第にピントも一定の場所にしか合わなくなるのかもしれないと思ったとき、恐怖すらおぼえました。
そういう事にならないように、皆さんもこれからはいろんな家の床下を覗きつつ道を進みましょう。
写真は関係ありません。けどベストショットです。
絵もそう、描いて見てもらいたいからって自分てこんな事出来るんだよーって自慢したいだけ、気持ち悪い。
手品も、ジャグリングも、ペン回しのコラボビデオなんか特にそう。ただそうやって自分を見てもらいたいだけ。
気持ち悪い!
そんな気持ち悪いきわみである、大学の学園祭の写真展に参加することになって、今日準備でした。
毎年初詣には参拝客がごった返す伊勢神宮や出雲大社。
昨今ではパワースポットなどといってそういった場所に人が押し寄せることも少なくは無い。
しかし、古来の日本人の思う神様というのはそんな場所にはいないのでは無いか。
鬱蒼とした森の中、台風で荒れ狂う波、畏怖の念を抱くほどの不安だったり、何かがいる、恐怖、そういったアニミズム的感覚が神道本来の神観念であるはずだ。
そんな神様はいくら歴史のある神社であったとしてもそこに居はしない。それよりもずっと、ポツンと山の中だったり、道の途中だったり、小さな田舎にある祠にこそ日本人本来の神様がいるのではなかろうか。