アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第7章 ヨーガとサーンキャの思想 ⑩ 現象界の開展 その1

2018年02月16日 11時22分57秒 | 第7章 ヨーガとサーンキャの思想
 この現象界の開展に就いては、前稿でも少し簡単に触れているので、その個所を念の為再掲しておく。

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 純質、激質、翳質というこの三者は互いに依存し、支配しあう関係にある。これらの三つの構成要素が相互に平衡しているときには静止状態にあるが、純粋精神の観照を機会因として・・・三つの構成要素の平衡が破れると、活動状態に入る。三つの構成要素の中では特に激質が活動を本性となすものである。しかし根本原質が活動を起して開展する場合には、必ず純粋精神の観照を機会因としている。それによって激質の活動が顕わになって実際にはたらきを現し出すのである。激質だけの力によって活動が起こるのではない。
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 本稿ではこれをもう少し詳しく見ていくが、例によって、中村元氏(以下、著者)の『ヨーガとサーンキャの思想』(以下、同書)から引用する。因みに、引用文の中の『』は、イーシヴァラクリシュナの『サーンキャ詩』からのものである。

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 純粋精神(プルシャ)の観照を機会因として激質(ラジャス)の活動が起こると、根本原質の平衡状態が破れて開展が開始される。その際に根本原質から最初に生じるものを根源的思惟機能(ブッディ、統覚機能)または大なるもの(マハット)と呼ぶ。これは確認の作用(決定知)を本質としているものであり、精神的な作用のもととなるが、しかし純物質的なもので身体の中の一器官であるとされている。
 『根源的思惟機能は決定知である。[これには純質的な状態と、翳質的とを総計して八つの状態がある。]
[そのうち、制戒(ヤマ)と内制(ニヤマ)基づいて成就される]功徳(ダルマ)、[またプルシャと根本原質を識別する] 知(ジニャーナ・)、[その知にもつづいて根本原質から厭い離れようとする]利欲、[および微細・遍満・軽妙・至得・随欲・本主、他のもの繋属しないこと、随意に住しうることから成る八つの]自在、 - これらは根源的思惟機能の純質的な層である。
この[四つの特質]とは正反対のもの[すなわち罪過・非知・非離欲・非自在という四つの特質]は、翳質的な特質である。』
 サーンキャ哲学は本来非ベーダ的で、バラモン教の宗教儀礼に対して批判的であり、功徳も罪過も根源的思惟機能にとって特徴的なものであるとして、またそれとの関係において教えられていた。この場合には根源的思惟機能が倫理的な行動の主体となっているのである。
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 常識的に考えると、根源的思惟機能(ブッディ)こそ、理性の最高の状態のように考えられるから、ここで善悪の判断をしていると思われがちであるが、サーンキャ哲学においては「罪過」即ち悪徳に関連する作用をも担っているということになる。つまり、プラクリティは展開すると同時にトリグナをすべて含んでいるのであり、ブッディもその例外ではなく、必ずしも純質的な要素のみから成り立っているわけではないということになる。
 そして、この根源的思惟機能から自我意識が生まれる。

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 この根源的思惟機能がその中に含まれている激質によって更に開展を起こし、その結果として自我意識(アハンカーラ、「我慢」)を生じる。これもやはり純物質的な一器官であり、三つの構成要素より成るが、しかし精神的な作用を行う。これは自己への執着を特質とするものである。これあるがゆえに、人は常に「われがなす。このものはわれに属する。これがわれである」という自己本位の見解を懐く。このような自我意識は必ず、元来物質的な根源的思惟機能を自我であると誤想し、根源的思惟機能と純粋精神を同一視する。このような自己中心的な自我意識の誤想がわれわれの輪廻を成立させる基因となる。・・・
 自我意識のなかでは翳質がまったく純質を覆い伏しているが、その中の激質の力によって、この自我意識がさらに活動を起こす。・・・
 ・・・サーンキャ学派の自我意識は個体化の原理であるとともに、それがまた宇宙的な器官とも解されている。創造的な自我意識なるものの起源は、自己形成的、自己規定的な原初的な人格についての、古ウパニシャッドにおける思索の内に求められるべきである。
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 つまり、この自我意識こそが、我々の「無知」或いは「無明」の原因であるということになる。そしてそれが「宇宙的な器官」でもあり、宇宙の創造に関与しているとも考えられているようである。これは、仏教諸派の中にも同じような考え方をしている学派或いは学説があり、筆者が知る限り「無明縁起説」などはその好例とも言えそうである。最後の「創造的な自我意識なるものの起源・・・原初的人格」云々は、ウパニシャッド哲学に出てくる「原人プルシャ」を指しているものと思われる。

 次は、「十六より成る集まり」について引用する。

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 自我意識から、この中にある激質の力によって、十六より成る集まりの創造がなされるわけであるが、その創造も、次のような種類別にしたがってなされる。
 『[純質性の]変化性の自我意識から、純質性の十一[の器官]が現れる。
[翳質性の]最初の元素である自我意識から、微細要素(タンマートラ)が現れるそれは翳質性のものである。
[激質性の]燃え立つ炎のように激する[自我意識]から、両者(十一より成る一群と、五つより成る微細要素)が現れる。』
 『[変化性の自我意識から生じる十一の器官のうち]知覚器官は目と耳と鼻と味覚器官と皮膚とである。
  発声器官と手と足と排泄器官と生殖器官とを行動器官(カルメンドリヤ)と称する』
 このように、自我意識から二種類の創造がなされる。一方では十一の器官、すなわち、眼・耳・鼻・舌・身(筆者註:皮膚の感覚)という五つの感覚器官、発声器官・手・足・排泄器官・生殖器官という五つの行動器官、及び意(マナス)が生じ、他方では五つの微細要素(タンマートラ「唯」・・・感覚の対象)が生じる。
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 以上の部分に就いては、何とも判り難く、筆者としても説明しようがない。特に判り難いのは、『サーンキャ詩』の引用部分であり、「十六より成る集まり」と言いながら、「純質性の自我意識から十一の器官が現れ」、「翳質性の自我意識から(五つの)微細要素が現れ、更に「激質性の・・・自我意識から十一なる一群と五つの微細要素が現れる」と述べている点であり、これらが夫々別々に現れるのであれば、どう数えても「十六より成る集まり」とは言えない。恐らくは、自我意識から「十六より成る集まり」が生まれるが、元となる自我意識には三つの性格(トリグナ)があるので、その生まれたものにも純質・激質・翳質の三つの性格があるということを言わんとしているのではないかと推測する。

 続いて、諸器官のはたらきについて。

◇◇◇
 意(こころ)のはたらきについては、次のように説明している。
 『意(マナス)は、これらのうちで、両者の性質がある。[知覚機能をはたすという点では知覚器官の性質をもち、また行動機能をなすという点では行動器官の性質を持っている。]
 その際に、意は分別思考をなすものであり、[また知覚器官、行動器官との]同質性があるから、器官でもある。
 グナの開展(パリナーマ)に種々の差別があるから、[器官が]種々に異なっているのであり、また外界の対象も種々に異なっている。』
 人間の知覚器官と行動器官とは次のようなものである。
 『色など(=色・声・香・味・触れられるもの)に対する五つの知覚器官のはたらきは、ただ見る(知覚する)ということだけであると認められている。[「識別する」ということはない。]
 また五つの行動器官のはたらきは、それぞれ、ことばを発すること、手に把持すること、歩むこと、排泄、性的快楽であると認められている。』
 『[統覚機能、自我意識、意という]三つには、[それぞれ、決定知、我執、分別思考という]独自の特質がはたらきとなっている。
 [以上の三つと、前の詩句に説いた十の器官の働きとは、]共通ならざるものである。
 プラーナなど、五風は、諸器官に共通なはたらきである。』
 人間の認識の成立については、次のように説明している。
 『[感官が外界の対象を知覚するときには、統覚機能と自我意識と意と、知覚器官・行動器官のうちの一つとが結合して、統一ある作用をなすが、]この四つのもののはたらきは、可見[の対象に]ついては同時に、また[ある場合には]順次に、起こると説かれている。
[過去および未来の]不可見の対象に関しても同様である。
[統覚機能、自我意識、意の]三つのもののはたらきは、それ(知覚器官および行動器官)にもとづく。』
◇◇◇

以上の中で、「色など(=色・声・香・味・触れられるもの)に対する五つの知覚器官のはたらきは、ただ見る(知覚する)ということだけであると認められている。[識別するということはない]」という部分は、知覚機能と識別機能を分けているということで、納得の行く説明だと思うが、一般に我々が「こころ」だと思っている自我意識、統覚機能、意(マナス)はそれぞれどのように異なるのか、これだけでは判然としない。とくに、「意」に「こころ」とフリガナを付けられると益々混乱が酷くなる。そこで、この「意」とは何か(或は、どのように訳すべきか)をもう少し良く考えてみたい。
サーンキャ詩によると、「意(マナス)は、これらのうちで、両者の性質がある。[知覚機能をはたすという点では知覚器官の性質をもち、また行動機能をなすという点では行動器官の性質を持っている] その際に、意は分別思考をなすものであり、[また知覚器官、行動器官との]同質性があるから、器官でもある」としている。つまり、知覚・感覚と意識に関わる部分を併せ持つものなので、シュリ・ユクテスワ師の『聖なる科学』にもある通り、「感覚意識」と訳した方が判り易いのではないかと思う。因みに、仏教で言うところの「末那識(マナシキ)」は、この意(マナス)を音写したものでる。

尚、統覚機能の働きなど、この続きは次稿で取り上げる。


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