アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第7章 ヨーガとサーンキャの思想 ⑪ 現象界の開展 その2

2018年02月23日 15時45分01秒 | 第7章 ヨーガとサーンキャの思想
 前稿では「諸器官のはたらき」までを終えた。 本稿は「統覚機能」の説明から始めるが、例によって、中村元氏(以下、著者)の『ヨーガとサーンキャの思想』(以下、同書)から引用する。因みに、引用文の中の『』は、イーシヴァラクリシュナの『サーンキャ詩』からのものである。

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 『統覚機能(ブッディ)は、他の内的器官(=自我意識と意)をともなって、[過去・現在・未来の]すべての対象を把捉する。
だから、[統覚機能、自我意識、意という]三種の内官は門衛であり、残り[の十の器官]は門である。』
『これら[三つの内官と十の器官との十三]は、相互に異なる特質の[対象を把捉し]、グナの特殊な変化であり、プルシャ(純粋精神)のために、一切を照明して、統覚機能にゆずり渡す』
『統覚機能は、[過去・現在・未来における諸器官の]一切[の対象]に関してプルシャに[天・人・獣の生存領域における]享受を成立させる。まさにそのゆえに、そのもの(=統覚機能)がさらに根本原質とプルシャとの微細なる相違を識別する。』
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 上記は非常に重要な部分である。三種の内官と十の器官は、最終的に内官の内の統覚機能にすべての情報を「経験」として渡し、それをプルシャが享受しているという。そして、統覚機能は、プルシャとの橋渡しをするというその機能ゆえに、根本原質である自我意識などと、プルシャとの「微細なる相違を識別」し、延いては悟りに導くという趣旨であろう。言葉を変えると、「悟る」ということは、統覚機能の経験だと言っているように思われる。

 この後、同書では微細要素(タンマートラ)と元素について説明しているが、ポイントは、五種の微細要素(タンマートラ)から五大(地水火風空)が作られるということのみであり、それ以外は特に重要とも思われないので割愛し、続いて二十五の原理について、引用していく。

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 以上にみた原理のひとつひとつをサーンキャ哲学では、<それであること>(タットヴァ:tattva)と呼んでいる。その字義は‘tha-tness’その複数形タットヴァーニは ‘that-nesses’である。ところでタットヴァは「真理」を意味するから、その複数形は’Truths in Things’である。それぞれの原理の現れる複雑多様相を捨象して、それらの背後にある本質的なものを把捉してタットヴァと呼んだのである。漢訳では「諦」という。
 それらの原理は、本章で挙示した根本原質以下の二十四と純粋精神とを合わせて、全部で二十五あることになる。<二十五の原理>(漢訳では二十五諦)ということは、大乗仏典の伝えるところによると、サーンキャ哲学の綱格である。ただ一言で表現するならば、この学派の哲学は<二十五の原理>ということに尽きるのである。
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 念の為根本原質以下の二十四について再度順をおってみていくと、アヴィヤクタ(未開展者)、ブッディ(統覚機能)、アハンカーラ(自我意識)、マナス(意=感覚意識)、色・声・香・味・触とそれに対応する五つの知覚器官、五つの行動器官、五つの唯(タンマートラ)、それから作られる五大(地水火風空)になるはずである。

 続いて、著者は7世紀中頃のインドのバラモン教の学者ガウダパーダの興味深い所説を引用している。

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 ガウダパーダは、「根本原質とブラフマン、未開展者、多様なる本性あるもの、マーヤー(筆者註:通常幻力などと訳される)は同義語である」と説明しているが、これは、他の方面、例えばヴェーダーンタ学派の述語を用いるならば、根本原質はブラフマンやマーヤーにも相当するものであるという意味であろう。ブラフマンとマーヤーでは、シャンカラ系統の不二一元論はではすっかり意味を異にするが、初期のヴェーダーンタ哲学や民衆的なヒンドゥー教義学では、いずれも質量因であるという意味で同義語であると説明しているのであろう。少なくともブラフマンという語は、バラモン教及びヒンドゥー教の聖典のうちに質量因の意味に解しうるばあいをしばしば見出すことができる。
 また根本原質(プラクリティ)というものも、単なる物質ではなくて、そのうちには思考や感情をその萌芽の状態において、可能性としてもっているのである。それは<生きようとする意欲>を秘めているのである。
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 根本原質(質量因)もブラフマンという考え方であるが、それはバガヴァッド・ギーターの中にも見られるので、参考までに引用する。

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・私(クリシュナ=至高神)にとって大ブラフマンは胎(ヨーニ)である。私はそこに胎子(種子)を置く。それから万物の誕生が実現する。(第14章-3)
・アルジュナよ、一切の母胎において諸々の形態が生まれるが、大ブラフマンがそれらの胎である。私は種子を与える父である。(第14章-4)
◇◇◇

 先を続ける。

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 サーンキャ哲学の心理論で特に興味深い点は、知覚・思考・意欲というようなすべての心的作用が、精神によっておこなわれるのではなくて、内的な器官 - すなわち物質 - の単に機械的なプロセスとして現れるということである。精神それ自体(筆者註:純粋精神を指して言っている)はいかなる属性や活動をももっていないで、ただ否定的に叙述されうるのみである。
 諸原理の開展の次第からも明らかなように、人間の感覚・知覚・思考・意欲などの所作用は物質に属するのであって、精神に属するのではない。純粋精神はただそれらを照らして意識させるだけなのである。精神には道徳的な責任がない。微細なる身体が道徳的な責任を負う主体なのであるという。
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 最後の、「微細なる身体が道徳的な責任を負う主体」だという部分は、輪廻の主体が何なのかを考えると判り易い。バガヴァッド・ギーターには次のように書いてある。

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・主(個我=アートマン=プルシャ)が身体を獲得し、また身体を離れる時、彼はそれら[の感官]を連れて行く。風がその香りをその拠り所から連れ去るように。(第15章-8)
・彼は聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚、及び思考器官に依存して、諸々の対象を享受する。(第15章-9)
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 つまり、プルシャは単に経験を享受するだけの主体であり、我々の自我意識や感覚意識などを含む「この微細なる身体」をヨーガなどの修行によって浄化して行かない限り、我々(プルシャ)はこの輪廻転生から逃れることはできないという考え方である。


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