アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第7章 ヨーガとサーンキャの思想 ⑨ 三つの構成要素(トリグナ)

2018年02月09日 14時43分26秒 | 第7章 ヨーガとサーンキャの思想
 前稿は実在の四分類、即ちプルシャ、プラクリティ(未展開の根本原質であるアヴィヤクタ)、マハット(大)などの中間物質、それに最終物質でこれ以上展開することのない物質に関するものであった。これは、プルシャを除き或る意味ではプラクリティの時系列的な展開の状態を三つに分類したものであり、「縦の分類」と言って差し支えないと思う。これに対し、本稿の三つの構成要素は、展開するプラクリティを、その特性或いは性質によって三つに分類したもので、「横の分類」と考えたら判り易いのではないかと思う。

  例によって、中村元氏(以下、著者)の『ヨーガとサーンキャの思想』(以下、同書)を引用しながら古典的サーンキャ哲学の所説を明らかにしていきたい。

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 純粋精神に対するものとして、根本原質は質量因である。本来物質的で活動性を固有している。それは超感覚的なものであって、あらゆるものに遍在しているが、単純なものではない。物質的な根本原質は、
(1) 純質 (サットヴァ)
(2) 激質 (ラジャス)
(3) 翳質 (タマス)
という三つの構成要素(グナ)から構成されている。そして、総じて<開展せるもの>(ヴィヤクタ)はこれら三つの構成要素より成る。・・・
 この構成要素を意味する「グナ」という語はもともと「性質」または「美徳」を意味する語である。だから漢訳仏典では三つの構成要素のことを「三徳」と呼んでいるのである。この観念に於いては、性質が実体化されたわけである。いわば、実体と性質とを混同し峻別しないために形成された観念であるといいうるであろう。
◇◇◇

 続いて、これらのトリグナが夫々どのような性質を持つかの説明である。

◇◇◇
 純質は「喜」を本質とし、照明の作用を持ち、激質は「憂」を本質とし、衝撃のはたらきがあり、翳質は「闇」を本質とし、抑制の働きがある。この「喜」「憂」「闇」のはたらきは、仏教でいう「貪」「瞋」「痴」の三毒、すなわち根本的な煩悩に対応している。しかし仏教の想定するこれらの作用が心理的なものであるのに題して、サーンキャのこれらの三種の作用は、実在する物質的原理に由来するものなのである。
 マーダヴァ(筆者註:14世紀、シャンカラ派の学匠)は『全哲学綱要』において、サーンキャ哲学では「現象世界は楽と苦と痴とより成る」と考えられており、その現象世界の原因に関して「楽より成ることというのは純質のことであり、苦より成るというのは激質の事であり、痴よりなるというのは翳質のことである」と説明している。・・・
◇◇◇

 著者は仏教の貪瞋痴の三毒と比較し、純質(サットヴァ)すなわち喜徳が「貪」に対応すると考えているようだが、基本的に純質は「貪る」ということからは距離を置くことを特徴とする性質であり、何かの間違いではないかと思う。純質はむしろ、「喜」とか、マーダヴァの言う「楽」に対応する性質である。それを確認する意味も含め、バガヴァッド・ギーターでこれらの三徳が、人間の性格や行為にどのように現れるのかを見ておくのも無駄ではあるまい。第18章からその一部を引用する(上村勝彦の訳による)。

◇◇◇
・人が果報を期待せず、執着を離れ、愛憎なく定められた行為をなす時、それは純質的な行為と言われる(23節)
・また、欲望を求める者や、我執を懐くものが、非常に苦労して行為をなす時、それは激質的な行為と言われる(24節)
・帰結、損失、加害、能力を無視して、迷妄によって企てられた行為は、暗質的な行為と言われる((25節)
・執着を離れ、自己を誇らず、堅固さと気力をそなえ、成功不成功に動じない者は、純質的な行為者と言われる(26節)
・激情的で、行為の成果を求め、貪欲で、加害を性とし、清浄でなく、喜悦と悲しみに満ちたものは、激質的な行為者と言われる(27節)
・専心せず、凡俗、頑固、狡猾、不実、怠惰、悲観的であり、仕事の遅い者は、暗質的な行為者と言われる(28節)
◇◇◇

上記の内の23節、これこそが解脱を目指すべき者が心掛けることであり、こうした純質的な行為が出来るようになれば成就に向かって確実に前進していると言えるだろう。 

次は、世界或いは物質がどのように開展するのかを説明した興味深い個所である。

◇◇◇
 純質、激質、翳質というこの三者は互いに依存し、支配しあう関係にある。これらの三つの構成要素が相互に平衡しているときには静止状態にあるが、純粋精神の観照を機会因として・・・三つの構成要素の平衡が破れると、活動状態に入る。三つの構成要素の中では特に激質が活動を本性となすものである。しかし根本原質が活動を起して開展する場合には、必ず純粋精神の観照を機会因としている。それによって激質の活動が顕わになって実際にはたらきを現し出すのである。激質だけの力によって活動が起こるのではない。
◇◇◇

 続いて、プラトーンの所説との比較について触れている個所を引用する。筆者には必ずしもしっくりこないが、著者の意見に与する方も多数居るかもしれない。

◇◇◇
 ところで、プラトーンも魂の三つの原理を認めていた。プラトーンは、人間には、<利益を愛する部分>と<勝利を愛する部分>と<思慮ある部分>とがあり、この三つが個人存在を構成すると考えていた。これは順次にサーンキャ学派の翳質・激質・純質に対応するであろう。
 『魂には三つの部分があるから、ぼくには、快楽にも三つの種類があって、魂のおのおのの部分におのおのの固有の快楽が属しているように思われる。同様に、欲望にも三つの種類が、また魂の中の支配力にも三種類のものがあるように思われる。・・・・・・魂の部分のひとつは、それによって、人間が学ぶところの部分であり、また他の一つは、それによって危害をおいだく部分であった。第三の部分は、多数であるためにそれに固有の一つの名で呼ぶことができず、そのなかにある最も大きくて強い者をもって、その名とした。つまりその部分の、食物や飲物や性愛や、そのほかそれらに伴う色々なものに対する欲望のはげしさに基づいて、それを<欲望的部分>と呼んだのだった。また<金銭愛的部分>とも呼んだが、それはそのような欲望がなによりもお金によって充足されるからである。』
 ところで、プラトーンにとってはこれらの三つの原理は魂に属するが、サーンキャ哲学はこれらの三つの性質は物質に属すると考え、現象世界の領域における精神的機能は物質の活動であると見做した。この点でサーンキャ哲学には唯物論的傾向が強い。
 西洋でも霊魂を物質的なものと見なす見解もあり、初期のストア哲学者たちはヘーラクレイトスにしたがって魂が物質的な火からできていると考えたが、後期のストア哲学者たちはプラトーンにしたがって霊魂を非物質的なものと看做した。ストア学派では霊魂の解釈に関して動揺があったわけであるが、この点でサーンキャの見解は徹底しているところがある。
◇◇◇

 因みに、この精神的機能を、サーンキャ哲学のように「物質的」と見るか、後期ストア派のように「非物質的」なものと見る(これが常識に合致した見解ではあるが)かは、単に「線引き」だけの問題ではないかと筆者は考えている。サーンキャ哲学においては、プルシャ(純粋精神)以外を、すべてプラクリティ(根本原質の展開)と考えた訳であるから、「神」ならぬ精神的機能は、プラクリティすなわち物質的なものと考えられたものであり、我々の常識から考えると違和感があるものの、哲学上の理論としてはそれで良いのだと考えているし、ヨーガの瞑想を行う上でも、その方がはるかに判り易い。


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