アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第4章 聖書の解釈とエックハルト ① 霊魂不滅

2017年01月10日 10時37分29秒 | 第4章 聖書の解釈とエックハルト
 先ずこの第4章で、何のために聖書の解釈を取り上げるのか、その目的を説明しておきたい。そもそもこのブログは、アセンションに関連する筆者の読書の記録や、スピリチュアルな体験を記録し、そうした経験を思い起し、整理して、改めて文章にする作業を通じて筆者自身の思索を深めると共に、読者諸賢の参考にも供したいとの理由で始めたものだ。

 しかし、ブログ(PartI)を書き進めるにつれ、他にも目的とするべき重要なことが二つあることに気付いた。その一つは、全ての宗教が目指し、主張している真理は一つである(万教帰一)という真理を広めることである。これは、筆者が「成長の家」の『生命の実相』から学んだことであるが、将来的に地球(人類)が一つに纏まる為には、宗教の融和が不可欠であり、どうしても欠かせない真理なのである。
 残りの一つは、ババジの教え、そしてその素晴らしさを周知することである。昨年の暮れに、『ヴォイス・オブ・ババジ』という本(三部作の内の第一部)が翻訳され、日本で初めてアマゾンの電子書籍として出版されたが、筆者もこの翻訳チームの一員としてこれに携わった関係で、ババジの教えをより深く知ることが出来た。以下は、筆者が訳した、第二部(未刊行)からの引用であり、ババジの教えを端的に表しているので、参考にして頂きたい(但し監修、編集の筆が入っていないことをお断りしておく)。
 
◇◇◇
 「宗教とは、あなたの生きるその人生の中に見出すもので、あなたが話したり書いたりする言葉の中においてでもなければ、人々がそれを宗教と呼ぶ何か特別で外的な儀式的行為または慣例においてではない」とサットグルデーヴァ(筆者註:ババジのこと)は断言し、更に加える。「世間一般の男女に対しては、奉仕や明け渡しを強調して奨めることはしない」もしあなたが、宗教について語られた最も恐ろしいことのイロハを知っているのであれば、落胆する必要はない。あなたの両親に仕えなさい。あなたのグルに、「神」に、妻に、子供たちに、友人や関係者(親類?)に、そして隣人に仕えなさい。すべてに仕えなさい。そこには何ら技巧は必要ない。ババジ御自身があなたを救い上げてくれるだろう。ババジ御自身がそう約束された。あなたの大師(筆者註:ババジを指す)に対する権利と要求は、あなたの「父」、あなたの「神」そしてあなたのすべてに対すると同様、彼に対するあなたの愛、奉仕、献身そして明け渡しに基づいており、そしてそれ相応のものになる。それを心に留め置きなさい。これまで筆者は、単なる外形上の技法または礼拝、儀式、祈りの名前または形式、もしくは特別な地域とか神社(に行く)必要性についての重要性または必要性を脇に除けて来た。彼は世界的に必要とされる、想念と言葉と行動における本質的な、すべての者に対する愛と奉仕、サットグルデーヴァ・ババジへの献身、それを何という名前で呼ぼうが、或いは何の形をとると考えようが、「至高神」への忠誠と歓びにみちた無条件の自己の明け渡しの生活をおくることに深く言及してきた。
◇◇◇

 以上だけで、ババジの教えの全体が判るとは思わないが、少なくも彼が、全ての宗教の形式や儀式を退けて、家族、隣人を愛し、奉仕することこそが重要だと主張していることは判って頂けるものと思う。

 ここで話を再び元に戻そう。筆者が本ブログで訴えようとしていることは、すべての宗教が教える真理は一つであるということであり、特にこの第4章で説明したいことは、キリスト教の教えが拠って立つ「聖書」も例外ではないということを立証したいのである。何故なら、現在蔓延している、現世主義、刹那主義、拝金主義的な生き方の根幹に、誤ったキリスト教の解釈があり、その誤りを正さない限り、多くのキリスト教徒が目覚めることはないように思うからである。換言すれば、聖書に立ち返り、イエスが本当に伝えたかったことを、ここで改めて説明したいと思う。従って本来は、本章の趣旨に則り、「聖書」をもとにして話を進めたいのであるが、筆者の知る限りでは、現在の聖書は書き換えられている。その最たるものが、西暦553年にコンスタンティノープルで行われた公会議であり、そこでは輪廻転生に関わる直接的な記述が殆ど削除されたとされている。従って、そうした「聖書」を逐次引用し、解釈をして行くことは余り意味がなく、行間を読むような、或いは眼光紙背に徹すといった直観やインスピレーションが必要なのではないかと思っている。

 それでは何故、マイスター・エックハルト(以後、単にエックハルト)の助けが必要なのか。これもアウグスティヌス同様、西田幾多郎氏がその著作の中で、彼の思索の深さに敬意を表しているように、キリスト教の神学者の中にあって、第一級の知性であるとの理由からだ。参考までに、ウィキペディアから、彼についての記述を引用しておく。

◇◇◇
 (エックハルトは)神との合一を、そして神性の無を説く。「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう」 このようなネオプラトニズム(新プラトン主義)的な思想が、教会軽視につながるとみなされ、異端宣告を受けることとなった。
◇◇◇

 そこで本章では今後、エックハルトの本、『神の慰めの書』(以下、『神』と略す)、及び『エックハルト説教集』(以下、『説』と略す)や、現存している「聖書」に残された章句、加えていくつかの「状況証拠」的なものも加えて、筆者なりにイエスが説こうとした教えの神髄を明らかにして行きたいと思う。

 ということで、今回はその第一話として、霊魂不滅を取り上げる。引用は、『説』43頁から始まる「死して有る生き方について」(ヘブライ人への手紙第11章37節)からである。長くなるので途中適宜省略する。

◇◇◇
 「彼らは剣で切り殺された」
 殉教者たちについては、「剣にかかって彼らは死んだ」と書かれている。主はその弟子たちに向かって、「私の名のために、あなたがたが何か苦しみを受けるならば、あなたがたは幸いである」(マタイ5・11,10・22)と語った。
 ところで「彼らは死して有る」と書かれている(訳注:原文は通常「彼らは死んだ」と訳されるが、ドイツ語の構造上「彼らは死んだ状態で有る(sint)」という意味をあわせ持つものであり・・・)。「彼らは死して有る」ということは第一には、この世において、この命において人が苦しむものすべてには終わりがあるということを言おうとしているものである。聖アウグスティヌスは、どんな苦しみにもまた、どんな苦労の多い仕事にも終わりがあるが、それに対して神が与える報酬は永遠である、と言っている。第二に、わたしたちはこの命のすべては死ぬべきものであること、そして私たちの身にふりかかるであろうどんな苦しみも苦労もけっして恐れる必要はないことをわたしたちは常に念頭に置いておかなければならない、ということである。・・・第三には、わたしたちは、あたかも死んでいるかのようにふるまわなければならないということである。そうすれば愛も苦しみもわたしたちに触れることはない。・・・しかし第四の教えは最も良きものである。「彼らは死して有る」と書かれている。死はつまり彼らに一つの有(う)を与えるのである。ある師は、自然は、よりよきものを代わりに与えることなしには、いかなるものも破壊することはない、と語っている。・・・殉教者たちは死んで一つの命を失った。しかし彼らはひとつの有を受け取ったのである。ある師は、最も高貴なものとは、有であり、命であり、そして認識であると言っている。・・・ある師は、有ほどに神と等しいものは他にない、あるものが有を持つ限り、その限りにおいてそのものは神と等しいと言う。ある師は次のように言う。神である一切が一つの有であるほどに、有とは純粋にして高きものである。・・・神の最も固有な本質は有である。・・・わたしたちの命が一つの有である限り、その限りにおいてわたしたちの命は神の内にある。・・・
◇◇◇

 ここでエックハルトが言う「有」とは何だろうか? 明らかに有とは存在の別名であり、仮に現世での「命」を失ったとしても、彼は「有」として、つまり霊魂として存在続けるのだとエックハルトは言っているのだ。

 次は『神』P257以降、「ルカ伝第七章第十四節についての説教」からの引用である。

◇◇◇
 福音書には、かの信愛なる聖ルカが、死せるひとりの若者について書いている記事が読まれる。主はたまたまこの若者に出会われ、傍らに近付き給い、彼を憐れんで彼の上に手を置いて言い給うたのである。「若者よ、我なんじに言う、起きよ」と。
 あなた方は次のことを知らなければならない、すなわち、全ての良き人々の中には神は全きままにましまし給うこと、および魂の中にはある一つのものがあって、そのものの中において魂が神の中に生きている、ということである。・・・ 魂が肉体と離れるとき肉体は死ぬが、魂はそれ自身において生きている、丁度それとおなじく上の場合においては、神は魂に対しては死せるものであるけれども、しかもそれ自身においては生きてましますのである。・・・
◇◇◇

 以上は、かなり直截的に「魂が肉体と離れるとき肉体は死ぬが、魂はそれ自身において生きている」と表現しており、これ以上の説明は不要であろう。

 「聖書」からも霊魂不滅を示す一節を示しておきたい。マタイ第25章45/46節である。

「そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらのもっとも小さいもののひとりにしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」

 特に上記に対する解説は不要とは思うが、「永遠」ということは、有限の肉体が死んだ後も、存続し続ける、そして刑罰を受ける、或いは永遠の命に入るという意味であるから、それは霊魂の不滅を言っているものとしか考えようがないと思うのである。

 ということで今回は、次稿「輪廻転生」の大前提となる「霊魂不滅」について、エックハルトの書籍と聖書からの立証を試みた。

最後に参考として、ヒンドゥー教の聖典、バガヴァッド・ギーター第2章から関連する章句を引用しておきたい。上村勝彦氏の訳に基づく。

◇◇◇
私は決して存在しなかったことはない。あなたも、ここにいる王たちも・・・
また我々はすべて、これから先、存在しなくなることもない(12節)
主体(個我)はこの身体において、少年期、青年期、老年期を経る。
そしてまた、他の身体を得る。賢者はここにおいて迷うことはない(13節)

彼(筆者註:霊魂を指す)は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が殺されても、彼は殺されることがない。(20節)
彼が不滅、常住、不生、不変であると知る人は、誰をして殺させ、誰を殺すか。(21節)
人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く(22節)
武器も彼を断つことなく、火も彼を焼かない。水も彼を濡らすことなく、
風も彼を乾かすことはない。(23節)
彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。
彼は常住であり、偏在し、堅固であり、不動であり、永遠である。(24節)
◇◇◇

因みにここで、主体(個我)、或いは「彼」と言っているのは、霊魂を指している。かなり、くどくどと説明しているが、要は「霊魂不滅」の認識が、教義の根本にあるからだと思う。


PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
PS(2):『ヴォイス・オブ・ババジ』の日本語訳がアマゾンから発売されました(キンドル版のみ)。『或るヨギの自叙伝』の続編ともいえる内容であり、ババジの教えなど詳しく書かれていますので、興味の有る方は是非読んでみて下さい。価格は¥800です。

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