アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第4章 聖書の解釈とエックハルト ② 輪廻転生

2017年01月25日 16時33分41秒 | 第4章 聖書の解釈とエックハルト
 正月のBSプレミアムシネマで放映していたゴッドファーザー(Part1~3)を家族が録画しておいてくれた。衝撃的なシーンが多く出てくるので、余り見ない方が良いと知りつつも、ついにPart3の最後まで、何回かに分けて見た。 その中で特に印象に残っているのがアル・パチーノ扮するマイケル・コルレオーネの老年に達してからのセリフで、「自分は社会における高い地位を求めて努力してきたが、上に上がれば上がるほど、皆腐っている」というものだった(実際の言葉は多少異なるかもしれない)。 このセリフで思い出したのは、ババジの言葉で、「俗世の中に生きても、俗世のものになってはいけない」というものだ。つまり、俗世は権力、金、地位、名誉を求める人の欲望で動いており、その中に入り込むや、よくよく注意しないとその欲望と怨嗟の渦に巻き込まれてしまい、自分を見失ってしまうので、特に真我実現を目指す求道者は気を付けるようにとの警鐘である。

 ここで筆者なりに、ゴッドファーザーのあらすじを改めて簡単に説明しておこう。若くして故郷のシチリア島を捨ててアメリカに移民として渡り、後にマフィアのドンとなった、ヴィト・コルレオーネの三男として生まれたマイケルは、その才能を父親からも認められ、将来を嘱望されて普通の社会人となるべく大学に進学するが、丁度その頃勃発した第二次大戦の志願兵となって戦場で戦うため、大学を中退してしまう。戦後、太平洋戦争の英雄として祖国アメリカに復員するが、間もなくマフィア間の抗争で父(ヴィト)が銃撃され、重傷を負って入院する。ヴィトは一命を取り留めるが、父を狙ったマフィアのボスが、警察幹部と組んで病院にまで手を回し、父の警護要員を遠ざけ、殺そうとしていたことをマイケルは知る。マフィア間の抗争をこれ以上激化させないためとの名目で、警察幹部を交えた偽りの和平会議が開催されることになり、マイケルは父を狙ったマフィアのボスと警察幹部との和解のための話し合いの為に、指定されたレストランに赴くが、そこに事前に隠しておいて拳銃を使い、そのマフィアのボスと警察幹部をその場で射殺し、シチリア島に暫くの間身を隠す。
 
 マイケルは何故か結局罪に問われることはなく、アメリカに戻るが、父の後継者と目されていた長男がやはり別のマフィアによって射殺されてしまい、マイケルが父の後を継いで、ドンに就任することになる。マイケルは結婚して一男一女をもうけ、何とかして彼の組織を合法的なものに作り変えようと妻に約束し努力もするのだが、カルマ(業)の連鎖はそれを許さない。こうしてマイケルもマフィアの争いに深く巻き込まれていくのだが、一部始終はマフィアや社会の実力者による報復の連鎖である。そして老いた後彼は、最後に声楽家になった自分の長男が、シチリアでオペラにデビューするのを観るためにその劇場を家族共々訪れる。オペラ公演終了後、マイケルは劇場の外に出るが、彼の最愛の娘が近寄った際、そこに差し向けられた殺し屋の打った銃弾が娘を打ち抜き、マイケルはその悲しみに慟哭する。

 マイケルにとって、この最愛の娘の死は、自分の死を遥かに超える悲しみであったに違いない。マイケルはやはりPart3の後半で、一旦この世界に入り込んだら、どうしても抜け出せないのだと言う意味の言葉を、確か自分の息子に向かって言っている。巨万の富を築き、多くの者を震え上がらせるような権力を手に入れながらも、このファミリーのドンの人生、特にその後半は、地獄のようなものだったに違いない。しかし、筆者がこの映画を観て最後に思ったことは、次の転生で彼はどのような人生を歩むのだろうかと言うことだ。前稿にて引用したキリストの言葉通り、「『あなたがたによく言っておく。これらのもっとも小さいもののひとりにしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」 つまり、輪廻転生を通じて、彼は永遠の刑罰を受けるのだ。

 因みに、バガヴァッド・ギーターでも、この輪廻転生を「多いなる恐怖(輪廻)」と表現している。その部分を、上村勝彦の訳による本から引用しておこう。第二章40節からである。

◇◇◇
ここにおいては、企てたことが消滅することなく、退転することもない。この(ヨーガの)教法のごくわずかでも、大いなる恐怖(輪廻)から人を救済する。
◇◇◇

 それでは、エックハルトは、この輪廻の問題をどのように考えていたのだろうか? 筆者が読んだ彼の本は、これまでに述べた二冊に限られているが、それを直接的に表現した個所は残念ながら見当たらなかった。ローマカトリック教会がその権威において「削除」したキリストの教えを明からさまに述べ伝えることは、さすがに控えたのであろう。しかし、この部分は輪廻転生を指しているのではないかと思われる個所があったので、その部分を引用しておきたい。『神の慰めの書』の45頁付近からである。因みに前半は、輪廻とは関係ない、我欲からの「離脱」について触れている。

◇◇◇
あらゆる事物において神は、われわれがわれわれの意志を放棄せんことを欲し給う。・・・ 各個の意志を捨て去って主の御意思を問うに至って初めて主は、彼が何をなすべきかを規定し給うたのである。・・・それで、もし我々の意志をすべて捨て去り、外的にも内的にもあえて一切の物から離脱し去る境地に至るならば、その時に初めて我々は それまでは駄目であるが 全てを為し終えたといいうるであろう。・・・
 ・・・お前はお前があるところの一切を挙げて全部的に神に委ね、神がその御所有にかかる者を如何になし給うかについて一切思い煩うな。無論全き完全さにおいて己の意志を離脱しなかった人々も幾千となく死して天国に入り来たったとはいえ、全部的に神の御意思の中に没入し己に我意のなくなったものこそ、完全にして真実なる意志ということができよう。かくのごとき境地に至れば至るほどその人は、より多くより真実に神の中に移されたのである。
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 上記の、「離脱しなかった人々も幾千となく死して天国に入り来たった」という文章に注目して頂きたい。すなわち、我欲から離脱しえなかった人は、幾千回も死んだ(即ち転生を繰り返した)後、初めて天国(イデアの世界か?、所謂『解脱』或いは『涅槃』を意味しているものと思われる)に行くことが出来ると言っているのだ。

 次は、「状況証拠」であるが、イエスがエッセネ派に属していたという事実(これは死海文書などから明らかになった)から論じてみよう。これは、実は本ブログの第1章、シャーリー・マクレーンの『ゴイング・ウィズィン』からの引用で説明済みなので、その部分を再掲する。

◇◇◇
 エッセネ派の教えは、世界中のほとんどすべての宗教や文化に見出すことができる。その基本的な教えは、古代ペルシャ、エジプト、インド、チベット、中国、パレスチナ、ギリシャで教えられた。エドムンド・ボルドー・ゼカリーが、ヘブライ語とアラム語で書かれた原本を英語に翻訳したものは、非常に良くできている。彼によると、最も純粋なエッセネ派の思想は紀元前2~3世紀に、パレスチナ、エジプト、シリアで起こっている。パレスチナとシリアで、この人々はエッセネ派と呼ばれ、エジプトでは治療者と呼ばれていた。・・・その後、エッセネ派の教義は、ヨーロッパのさまざまな組織、すなわち、フリーメーソン、グノーシス派、カバラなどにも大きな貢献をした。そして、もちろんイエスはエッセネ派の教師であり、ヒーラーであった。
 エッセネ派にこれほど私がこだわるのは、前にも述べたように、彼らの教えや原理や価値観、そして生活上大切とされている事柄が、今日のいわゆるニューエイジの考え方と、殆ど同じだからである。彼らは薬草や植物を薬として用いていた。神はすべてのもの、すべての人の内にあると信じていた。地球を守っている見えない指導霊に瞑想し、内なる神に瞑想した。そして、カルマを浄化するために、何回もたましいが肉体をまとって地上にあらわれるということを信じていた。しかも同時に、一人ひとりが自由意志によって、カルマをつくり出しているということも、彼らは知っていた。自分たちの神秘的な直観力や予知能力を信じて、自らを光の子と称していた。目に見えない多次元の領域の現実を信じており、そのような領域に住む存在と交信していた。彼らの数学や天文学は、宇宙全体の生命の調和を反映していた。
◇◇◇

 上記の、「カルマを浄化するために、何回もたましいが肉体をまとって地上にあらわれる」との表現は、輪廻転生そのものである。興味のある方は、第1章⑤エッセネ派の思想を参考にして頂きたい。
 次は、いよいよ聖書からの引用である。マルコ第九章、11節から13節にかけて。

◇◇◇
 そしてイエスに尋ねた、「なぜ律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。(11節) イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると書いてあるのはなぜか。(12節) しかしあなた方に言っておく、エリヤは既に来たのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。(13節)
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 つまり、預言者キリストが現れる前に、エリヤが先に来るはずなので、イエスは預言者ではないのだと律法学者は言っているの対し、イエスは、ヨハネこそ、そのエリヤの生まれ変わりであり、人々はそのヨハネを殺してしまったと言っているのだ。さすがに、全ての人々が生れ変わる(転生する)との趣旨の言葉はカトリック教会によって全て削除されてしまったのであろうが、このイエスがキリストであると証明する為に生まれて来たヨハネが、エリヤの生まれ変わりであるとの部分は削除できなかったのであろう。

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