アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第4章 聖書の解釈とエックハルト ③ 主なる汝の神を愛せよ

2017年01月30日 11時13分06秒 | 第4章 聖書の解釈とエックハルト
 先ずは新約聖書(マルコ第12章28節~30節)からの引用である。
 
◇◇◇
一人の律法学者が来て・・・イエスに質問した。「全ての戒めの中で、どれが第一のものですか」 イエスは答えられた、「第一の戒めはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なる私たちの神は、唯一人の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる汝の神を愛せよ』・・・」
◇◇◇

 上記の修飾語を省いて、その意図するところを纏めると、「唯一の主である神を愛せよ」ということになろう。これは、簡単な言葉のようで、実はそう簡単に理解できるものではない。先ず愛すべき対象である「唯一の主である神」とは、至高神であり、創造主である神ということであり、ヒンドゥー教ではそれを通常イシュヴァラ(至高神)と呼ぶ。但し、宗派によってはこれをシヴァと呼んだり、バガヴァーン(世尊)と呼んだり、或いはクリシュナと呼ぶのであろう。しかしどれも、至高神であることに変わりはない。つまり、我々が愛すべき対象は「唯一神」或いは「至高神」であると言うことである。そして、愛する主体が誰かと言えば(命令形なので省かれてはいるものの)、汝即ちあなたであり、我々である。ここまで理解するのは、然程難しくはなかろう。それでは「愛する」という行為は何を意味するのであろうか?

 ここで、些か不謹慎と思われるかも知れないが、男女間の「愛」を例にとって段階的に説明したい。魅力的な異性に会った時、まず最初に思うのは、相手のことを知りたいということではないだろうか? 相手の名前、性格、職業、素性などなど・・・。ということは、「神を愛する」為にはまず「神」(正確には至高神だが、以後ただ「神」と記述する)を知る必要がある。つまり、「神」に関する知識を勉強する必要があるのだが、これについては本章で追って説明して行きたい。

 次には、相手と「一緒になりたい」(結婚したい)という気持ちが湧き起こるのではないだろうか? これを「神」との関係に当てはめて見ると、神と一体になりたいということであり、それを瞑想などによって実現できるというのが、神秘主義の立場である。これは、本ブログ第三章⑨話で取り上げた、「愛は、その愛するものを愛する者と結びつける、愛は愛する人と愛されるものとの二つを一にする生命である」というアウグスティヌスによる「愛の定義」から考えても妥当な解釈と言えよう。因みに、ヨーガの本来の意味も、「二つのものを一つに結び付ける」ということであり、その二つのものとは、「神の意識」と「自身の意識」であるから、全く同じことを言っていることになる。つまり、「神」の知識を学ぶことの次に来るのは、神と一体になるための「瞑想」であり、それに習熟していない人にとっては、「祈り」になるのであろう。

 その次には、愛する相手と一緒に、「生活したい」という気持ちになるのではないだろうか?つまり、結婚式を挙げて「一緒になる」だけではなく、その先「一緒に生活すること」が大切なのである。それでは、どのような生活を「神」から求められるのであろうか? それが、各宗派の言う「戒律」であり、聖書にも書かれている様々な「教え」になるのである。その際たるものが、同じマルコ第12章に続いて出てくる、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」ということであり、イエスも「これら二つの戒め以上に大事な戒めは他に無い」と言い切っている。

 因みに、この戒律に関連し、ヨーガ派の修行者に課している「勧戒」は次のようなものであり、基本的にキリスト教の教えと何ら異なるものではないと思う。それらは、
(1) 清浄:心と体を清浄に保つ
(2) 知足:足るを知る。つまり、必要以上の富や地位などを求めない(欲望の制御)。
(3) 修業:瞑想などの他、奉仕活動もこれに含めて考えてよいと思う。
(4) 聖典読誦:ヒンドゥー教の聖典を読んで研究することなど(キリスト教の場合は無論聖書)
(5) 自在神祈念:至高神に祈り、ひたすら帰依すること。

 再び男女間の愛に戻る。おそらくこれが最後になると思うが、愛の最終形は、相手の為に、自分の生活、財産、或いは命さえ捧げたいと思うのではないだろうか? ここにおいて、エックハルトは『神の慰めの書』の中で、次のように書いている。

◇◇◇
 神的本性とは、ソロモンの言葉によれば、神が万事を自己自身のためになすことを言う(箴言第16章第4節参照)。すなわち神は自己自身の他をみず、常に自己自身のみを眼中に置く。彼はただ自己自身の故にのみ万物を愛し創造する。それ故に、もし人が、報酬、名誉、快適などのためにでなく、ただただ神の為、神の栄光のためにのみ自己および万物を愛し、自己の全行為をなすならば、それこそ彼が神の子であることのしるしである。・・・
 それ故に、神により神の子として生まれたものは神をば自己自身のために愛する、すなわち神を愛する為に神を愛し、自己の全行為を神のための働きを目的として行為する、従って愛し行為して倦むところを知らないのであり、彼にとって愛するすべてのものはただ唯一の愛に帰するのである。・・・
◇◇◇

  尚、上記はヨーガ派の「勧戒」の最後に挙げた、自在神祈念(これをバクティ即ち信愛行と説明する学者もいる)に相当するものである。このように、キリスト教の第一の、即ち最も重要な戒めである「神を愛する」ということは、キリスト教においても、ヨーガ派においても何ら変わるものではないということを再確認して頂けたものと思う。

 最後に一つ付け加えておきたい。先ほど、「そして、愛する主体が誰かと言えば(命令形なので省かれてはいるものの)、汝即ちあなたであり、我々である」と簡単に書いてしまったのだが、この愛する主体は本当に「我々」なのだろうか? この議論は次稿に譲ることにしたい。

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