アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

心霊的存在:我々の「神」への導入部 PartII

2020年01月27日 10時19分12秒 | クリヤーヨーガ・ジャーナル
心霊的存在:我々の「神」への導入部 (PartII)


完全に開放された心霊的存在は、シュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガの実践により、どのような条件のもとで超心的変容をもたらすのだろうか?この小論文はその疑問に答えようと試みるものだ。これは2017年5月3日、フロリダで開催されたシュリ・オーロビンド会議に提出された。

 PartIは次の文章から始まった。「インテグラル・ヨーガの実習者にとっては心霊的存在というシュリ・オーロビンドが使う言葉の明確な理解が必要不可欠だ。それは彼の著作物を通して見出され、彼のヨーガを他と区別する特徴だ。いずれ判るが、それは英語の魂(soul)、真我(Self)、ヒンドゥー語のアートマン、ジーヴァートマン、プルシャとも同等とは言えない。心霊的存在はすべての人のハートの中に存在するが、殆ど常に隠されていて、その働きはマインドや生気体と混じり会っている。それが意識の前面に出てくるまでは、ヨーガのサーダナにおける個人の努力は気まぐれで、これらの動きに制約される。向上心・拒絶・明け渡しという言葉に集約されるシュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガの修練は、心霊的存在が意識の前面に出てくる程度に応じて進歩を遂げる。これには四つの段階がある。」

明け渡し

 イシュヴァラ・プラニダーナを「或いは神への明け渡しによって認識作用の没入(訳注:サマーディ)が首尾よく達成される」(YS I-23)とパタンジャリがクリヤーヨーガについて言ったように、常時、あらゆる状況下で自身を神に明け渡すことがインテグラル・ヨーガのサーダナにとっての鍵だ。(ゴーヴィンダン 2012:17)

「私の神、そして私のすべて」という言葉はその心底からの表現を集約したものだ。修行者が神に自身を明け渡した日、神御自身が生徒の人生に介入し、すべての困難と弱さを取り除く手助けをし、その臨在によって意識の内に喜びをもたらす。これが生じるための要件は、(1)修行者は自身の能力について無価値だと感じていなければならない。(2)実在し、彼を愛し、その叡智によって如何なることも実現可能な神という存在を全身全霊で信じること。(3)自身の唯一で最終的な拠り所として神だけに専心すること。(ムカージー 2003:87)

 意識を明け渡した状態においては、何を行い感じるにせよ、すべての行動は自身に対する責任から自由になり、重荷のすべてを神に引渡し、完全な信頼のもとで至高の存在への捧げものとしてなされるべきだ。この明け渡しに対して否定的に働く修行者の性癖となった意識と性質の中において多くの抵抗と反対が生じる。何ら保留することなく、ただ神の導きのみに自身を委ねるべきだ。そのように行ったことがどうして判るのだろうか?シュリ・オーロビンドは、真の明け渡しを行った修行者の心の内面を克明に記述した。

 「私は神を欲し、それ以外何ものも欲さない。神に対して私自身をすべて捧げ、私の魂はそれを望むゆえ必ずや神と出会い、神を悟る。私はそれ以外の何ものも求めず、求めるのは私を神に引き寄せる内なる神の行動であり、それは秘密であれ開示されたものであれ、覆われたものであれ明らかなものであれ神の御業だ。自身の都合ややり方にこだわらず、神の都合とやり方ですべてを行って頂く。神を信じ、その意思を受け容れ、神の光・臨在・歓びを絶えず求め、神に頼り諦めることなくすべての困窮と障碍のなかを突き進む。すべては神のため、自身も神のためにある。何が起きようともこの希望と明け渡しを守り、これが成就するとの完全な信頼の中で歩み続ける。」(オーロビンド 1972:587)

 したがって修行者のサーダナすべての責任を引き受けるのは神御自身となる。「神のできないことは何もない。もし確信と信頼をもって神に自身を捧げれば、ハートと性質は浄化され、内なる意識が目覚め、覆いは取り払われる。そして仮に一度に完全にできなかったとしても、それを更に行うほどに、内なる助けと導きが現れて神の体験は深まる。もし疑念が活動を弱めてつつましやかになり、明け渡しの意思が強くなれば、それは完全に可能になるはずだ。」(オーロビンド 1972-586-88)

それでは、もし自己の明け渡しがそれほど強力であるなら、どうして人はそのように行うことができないのか? 「なぜそれがなされないのか? 人はそれについて考えず、そうすることを忘れ、古い習慣が戻ってくるからです。そして取り分け、心の中、それどころか潜在意識の中の隠れた場所で、あなたの耳の中でこの秘かな疑いが囁くのです。・・・あなたは本当に愚かで、訳が分からず、バカなのであなたはそれに耳を傾け、自我の声に注意を向けはじめ、すべては台無しになります。」(マザー 2004:257)

 新たな個人的取り組みはそこで終わるのだろうか? そうではなく、普通の修行者の意識と意志は、ヨーガの達人のように、神の意識と意志に結び付いた状態からは程遠く、それゆえすべての好き嫌いと共に分離した自我意識の中でまだ生活している。守るべき枢要な原則は、行為の果実(成果)すなわち結果を神に対して差し出すことだ。さもなければ人の行動は単なる自我(エゴ)を満足させるためのものとなる。シュリ・オーロビンドの言葉によれば、人はすべての行為において次の態度を維持すべきだ。

 「神が私の唯一の避難所だ。すべてのことにおいて信頼し、頼りにするのは神であり、神だけだ。私は神の意思に完全に従う。行く手にあるどんな障碍も、分離の暗い雰囲気も神に対する絶対的な信頼を決して揺るがすことがないようにする。」(ムカージー 2003:93)

 しかしこれで修行者は満足すべきではない。シュリ・オーロビンドの言葉はこの点を明らかに示している。「しかし至高の恩寵は『光と真理』の状態においてのみ働く。即ち、誤りや無知によって置かれた状況のもとでそれが働くことはない。なぜなら、もし誤った要求に屈するのであれば、それ自体の目的を損なってしまうだろうから。」(マザー 1972:1,3)「すべてのことには条件がある。もしヨーガの条件を満たすことを拒否するなら、神の介入を求めても無駄だ。」(ニロドゥバラン 1983:197)

 効果的な明け渡しは必ずしも、すべての将来の嵐やストレスから修行者を守るとは限らないが、そうした渦中にあっても修行者の霊的な健全性が絶対に安全であることを保証する。しかし修行者の道がバラの花に囲まれた陽の当たる道になるとの保証はない。約束されることは、人生で生じる全ての不幸を通して、神が修行者を大切な霊性の目的地に導くということだ。自己を明け渡した修行者はまた、不幸や苦悩が無駄ではなく、むしろ時の経過と共にその重要性が判る必要な霊性向上の目的を達成するため、神によって是認されたものだと知る。修行者が苦しんでいるとき、神が遠ざかり居なくなっているわけではなく、酷い困難の中においても彼のハートの中に在って、そこから神との統合にむかって修行者を導くため、その置かれた状況で道案内をしていることを知り、そのように感じる。修行者はまた、勇気・忍耐・正しい態度で臨むのであれば、明け渡しの精神の中ですべての困難は多くの霊的功徳をもたらすことを知る。最終的に、自己を明け渡した修行者は、将来の霊的な目標に導く隠れた目的があることを知る。彼のマントラは相変わらず、「いつも、そしてあらゆる場所で御心がなされますように!」のままだ。

心霊的存在を開放する四段階

 第一部においてシュリ・オーロビンドが描く心霊的存在と、インテグラル・ヨーガにおける三つの要素について論じたが、この論文の第二部においては、これら三つの要素、即ち向上心・拒絶・明け渡しがどのように進化の四段階で心霊的存在の開放に貢献するのかを考察できる。

第一段階:心霊的存在は、内なる存在・心の動き・生気体のベールの後ろに隠れている。我々の存在のより低次の部分は魂が何を欲するのか気にかけていない。その低次の部分は欲望と感情、肉体的な快適さの要求、些細な好き嫌いに対して習慣的に反応する。ごくまれに心霊的存在の影響が明らかになる。それは霊的な生活、神への愛と明け渡し、言葉に表せないもの、真理・神・美に対する憧れ、無条件の愛・親切・同情・至福・信愛行の経験に対して同調した時だ。

第二段階:内なる存在・マインド・生気体が「心霊的存在を本当に気にかけ、それに従う時、それが回心だ。それらは心霊的即ち神聖な性質を身に纏うようになる。」(ムカージー 2003:112) 上述の通り向上心は段階を追って発達し、神は恩寵で報いる。人は内面に向かい、外部からの感覚的な楽しみの原因に対する興味を徐々に失っていく。向上心・拒絶・明け渡しのサーダナは心霊的存在の影響を漸進的に開く。欲望・怒り・古い習慣、その他のエゴの現れを克服する力をますます感じるようになる。起こってしまったことにくよくよすることを止め、過去を手放す。本能的に正しいことを行うよう導かれるが、それは道徳規範・習慣・家族や友人の期待のためではなく、心の内面で何が真実で善なのかを知るからだ。敵対するもの、害を及ぼすかも知れないもの、真実でなく誇張されたことなどを拒絶する。無条件の愛・優しさ・安らぎ・至福が常態となる。しかし以前の想念や感情のパターンに陥るかもしれない。内なる感情の動きによってそれは断続的に覆われる。観察者として留まる努力を続け、以前の習慣となった感情の動きが現れないようにしなければならない。

第三段階:心霊的存在は内なる心のベールと生気体の陰から前面に出てそこに留まる。それは継続的に向上心・拒絶・明け渡しのサーダナを指導する。それは何を変容させ、何を手放し、また浄化すべきかを知らせる。修行者は継続的に支援され、導かれていると感じる。仮に自身のカルマが腐ったトマトを玄関口に運んできたとしても、至福と神の無条件の愛が彼・彼女の感性を色付ける。光り輝く真我の気付き、感情体・生気体・肉体の次元における乗り物の統御者として留まる。より深い内なる存在の層における欲望や恐れも含め、エゴの現れを識別して手放す。神の手の内にあって手術を行い、抵抗する全てを取り除いている道具であるかのように感じる。(神の)共同創造者となる。日々の生活の中に奇跡が満ち溢れる。人生を永遠の新たな歓びとして経験する。

この段階においてはマインド・生気体・肉体に及ぶエゴへの忠誠心は、内なる神に対する新たな忠誠心に置き換わる。成就即ちシッディを求める。病気の肉体や神経症のマインドにおける成就は成就ではない。識別知により、心霊的存在はこれらのより低次の道具が神の意思を表現するよう変容させる。自己変容のプロセスに対する熱意を発達させる。このプロセスの中で隠れていたものを発見する。(こうして)人は変容のメソッドを経験する。

第四段階:この高度な段階において、心霊的存在は細胞と潜在意識の層を変容させる。1926年から1940年まで、彼とマザーは、自分の肉体の潜在意識と細胞のレベルで、断食・睡眠・食事・自然の法則・性癖を(変容させる)実験をした。それは、シッダたちがより多くの精妙な力が神格化を完成させるために十分なほど寿命を伸ばすためにカーヤカルパを使ったと記録されているのとは異なり、時間との競争だった。マザーは言った。「基本的に、この変容を目指す競争においての問題は、二つのうちのどちらが先に着くかということでした。神聖な真理のイメージに肉体を変容させたいと望む力か、徐々に分解していく肉体の中に残る古い性癖か、です。」(サットプレム 1975:330)

その作業はオーロビンドが呼んだ次のようなレベルにまで及んだ即ち、「細胞レベルのマインド」「細胞・分子・微粒子の奥まった肉体のマインド」「この肉体のマインドはまさに触れることのできる事実だ。そのあいまいさと、過去の動きと皮相的な忘却、そして新しいことを拒否することに機械的に執着するため、我々はそれが超心の力によって浸透され、肉体の機能を変容させることに対する主な障碍の一つであることが判った。」一方で一旦それが効果的に変換されるのであれば、物質的性質の中における超心の「光と力」を安定させる最も貴重な道具の一つとなるであろう。(オーロビンド 1969:356)

 細胞の準備を整えるためには、肉体と細胞の意識が拡大してそれ自体を普遍化することを可能にするよう、精神面の沈黙、生気体のやすらぎ、宇宙意識が前提条件となる。しかしここで、「肉体は到るところに存在する」ということ、全てを変容せずに人はいかなるものも変容できないことが明らかになる。

 深く長い間掘り続けてきた
 汚物と泥沼の恐怖の中で
 黄金の川の詩を求めて床に入る
 消えることのない火の家
 口を開いた我が傷は千を超える・・・  (オーロビンド 1952:6)

 オーロビンドとマザーは、全人類の変容がない限り、個人にとって完全な変容は不可能だと知った。

 オーロビンドは言った。「人類を救い出すためには、如何にその個人が偉大であろうとも個人的に究極の解決法を達成するのに十分ではない、なぜなら『光』が降下する準備ができたとしても、より低い次元もその降下の圧力に耐える準備ができるまで、それは降りてそこに留まることができないからだ。」(ロイ 1952:251)

 マザーは言った。「その作業を一人で行いたいと思うのであれば、それを完全に行うことは全く不可能です。なぜなら、すべての肉体的存在は、それがいかに完全であろうとも、それが全くの超越した種類のものでも、まったく特別な『つくり』であったとしても、部分的で制限のあるものに過ぎないからです。これは一つの真理、法則を表したものです。即ち、完全な変容はそれのみ、つまり一つの肉体を通して実現することは不可能なのです。ですから、もし全体的な行動を欲するのであれば、少なくも最低限の人数の肉体が必要なのです。」(サットプレム 1975:390)

 これを悟ったことで個人的な研究の時期は1940年に終了し、オーロビンドとマザーは変容の研究の第三期に入った。この時期は世界的な変容に向けられた。「このアシュラムは俗世を捨てるためではなく、新たな(人類の)種への進化とライフスタイルのためのセンターとして建設された。」(オーロビンド 1969:823)
それは、すべての種類の人、男性・女性・子供、全ての社会階層だけでなく、創造的な性質のすべての活動に対しても開かれたものとして組織された。俗世の中での行動が主たる手段だった。「霊的な生活は、ヨーガの力の中で普通の生活を送る人々において最も力強く表現できる・・・人類が最終的に進化して力強く神聖になるのは、そのような内面と外面の生活の統合によるのだ。」(オーロビンド 1950:10)

進化のリーダーと環境の越え難い溝

 1940に始まった第三期は、第二期の終わりにオーロビンドとマザーが解決しようと試みたジレンマから発展した。潜在意識と内面の集合的な抵抗に直面し、先ず他者(俗世)から離れた場所で個人的な自己変容を成し遂げ、後に人類を救うため、進化のリーダーとして俗世に戻るのかどうか二人は自問した。しかしかれらはこの戦略に反対することを決めた。オーロビンドの言葉によれば、それは彼らと人類の間の越え難い溝に帰結するであろうから。(オーロビンド 1935:414)

 そのような戦略は実現可能ではないとの意見に到達したにも拘わらず、オーロビンドとマザーは幾分矛盾するような意見を表明した。彼が言うには、「一旦開始すれば、その(超心を降下させる)努力は、その最初の決定的な段階まですら早く進むことは無いかも知れない。それがある程度永遠に出現する段階に来るようにするためには、何世紀にもわたる努力を要するだろう。しかしそれが全く避けられないということではない、というのも大自然におけるそのような変化の原理は、新たな誕生に向かって(様々な)要素が迅速に集まっては沈殿することに続く長期に亘る漠とした準備であり、急激な変換、その光輝く瞬間に奇跡のように現れるように思えるからだ。最初の決定的な変化に到達したとしても、人類すべてがその段階にまで上昇できるわけではないことは確かだ。霊的な次元で生活できる人と、精神的なレベルにまで降下する光の中でただ生活できる人に二分されることは避けられない(といったほどの意味か?原文は,There cannot fail to be a division into ・・・)。そしてこれら二つの下にも、彼らに影響されながらもその光に対する準備が整わない多くの大衆がまだいるかもしれない。しかしそれでも、これまで決して達成されたことのないものを遥かに凌駕する変容であり、その幕開けなのだ。」(オーロビンド 1949:332)

 そのような不可避の分断と環境の越え難い溝の間には重大な違いがあるのだろうか?もしそうでなければ、それはオーロビンドとマザーが超心を肉体に降下させてそこに固定しなかった理由にはならない。更には、18人のシッダ、ラーマリンガ、中国道教の「Ta Lo Chin Sien」によって達成された金色の(不死の)肉体の記録は、おそらく全人類の長期に亘る集合的な変容の初期段階ではなかったのだろうか?(ゴーヴィンダン 2012:140-170、 Da lieu 1975:135)

 これらの疑問を解決しようとして筆者の本が完成に近づいているころ、ポンディシェリとヴァルダルーアを訪ねた。筆者はマザーかオーロビンドが、彼らが達成しようとしていたことは100年ほど前にラーマリンガによって達成されていたという趣旨の言葉が書いてあった何年も前の引用文を思い出した。それ以前、1972年の9月と1973年の3月にオーロビンド・アシュラムを訪問した時、筆者はマザーに18人のシッダに関する本を贈呈し、オーロビンドの超心的変容と18人のシッダの変容の関係に関する疑問に対する回答を求めるため、マザーと面会しようとした。マザーは、この訪問の時は隔離された状態(訳注:集中的な瞑想の行に入っていたのか?)で、これらの質問への回答はないままだった。

 著者は知らなかったが、1969年以来のオーロビンド・アシュラムの同居人で、アシュラムの監査役兼会計士を長く務めたT.R.トゥラシラムから同じような質問が提起されていた。1990年の7月4日と5日、著者はポンディシェリでトゥラシラムと会い、彼が1980年に二冊の本を出版していたことを知った。それは、オーロビンドがラーマリンガについて書いたことのすべてだけでなく、ラーマリンガの問題に関する彼とマザーの意見交換を記録したものだった。彼の徹底的な調査の中で、トゥラシラムは次のように述べた。「シュリ・オーロビンドはその人生が終わるころ、何人かのヨギが、ヨーガのシッディによって個人的に超心的変容を達成したが、それは自然のダルマ(法)としての変容ではなかった。(トゥラシラム 1980 Vol1, xi)

 1970年7月11日、マザーは秘書のサットプレムを通して送られたトゥラシラムの書状を読んだ。トゥラシラムの書状に添付されていたのは、ラーマリンガが遺した書物の抜粋であり、その中では彼の肉体が光の体に変容したことを記述していた。サットプレムによれば、「彼の経験の信憑性に関し、マザーは疑いを持っていませんでした。特にスワミがこの光を『恩寵の光』と表現したことを気に入っていて、これは彼女自身の経験と一致すると言っていました。より正確には、マザーはこの恩寵の光は超心の光ではなく、その一側面であり、むしろ超心の一つの働きなのですと言いました。彼女が言うには、有名であれ無名であれ、何人もの個人がこれまでの時代に同様の経験をしたはずであり、今もしていることでしょう。唯一の違いは、現在は個人としての可能性ではなく、集合体としての可能性であり、これこそ紛れもなく全人類に対しての地上における事実及び可能性として超心の意識を確立しようとのオーロビンドとマザーの仕事なのです。」(28-7-70「Arul」1970年月、トゥラシラム 1980:900)

 トゥラシラムは、彼の書状の中で提起した多くの質問に対し、マザーからこれ以上の説明を得ることはできなかった。彼はまた、「サットプレムはラーマリンガの非物質化を死として誤って解釈し、マザーにこれを死として間違った報告をした。」(トゥラシラム1980)マザーも1973年11月、これらの質問に答える前に肉体を去った。しかしながら、トゥラシラムの魅力的な研究は、ラーマリンガ・オーロビンド・マザー・タミールのシッダ、ティルムラルの変容の経験はすべて同じ性質のものだったとの説得力のある証拠を提供するものだ。オーロビンドが死ぬ際に表した金色の色相は、ラーマリンガ、ティルマンディラムにおけるティルムラル(ガナパティ2010)、18人のタミールシッダに関するゴーヴィンダンの文献(ゴーヴィンダン2012:45)で引用されている不死の金色に輝く肉体と似たものであったのだろう。

結 論
 したがって、彼らのような(人類)進化のリーダーたちは、すべてのレベルにおいて心霊的存在が人間の性質を神のイメージに変容させる第四の段階を完成させるため、(俗世から離れ)独居することが必要と思われる。シッダたちの場合のようにこれが個人のレベルで起こるのか、オーロビンドが思い描いたように人類の集合的な進化の飛躍として生じるのか、超心の降下の成り行きは未解決の問題として残されている。

将来研究が必要な関連する諸問題
 オーロビンドとマザーが人類に超心の降下をもたらそうとして失敗したことは、関連する多くの諸問題を提起する。彼の描いた人類の霊的進化のプロセスのビジョンは主に、進化論的生物学と現代の生命化学の基礎であるダーウィンの「種の起源」の影響下における時間の所産なのだろうか? それなくして、(オーロビンドの)インテグラル・ヨーガの実習はどの程度価値があるのだろうか? インテグラル・ヨーガのメソッドである、向上心・拒絶・明け渡しはどの程度有効なのだろうか? もし有効であるなら、どうしてより多くのインテグラル・ヨーガの指導者によって組織的に教えられないのだろうか? オーロビンドのインテグラル・ヨーガの修行者は、どの程度まで定期的にこの論文に示されたメソッドを実習しているのだろうか?
 心霊的存在の発見とその解放は、いかにして人間の性質の不完全さを解決する手段になり得るのだろうか?
以上





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