アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

BKYJ 偽情報、不信、識別、ダルマ

2020年10月14日 08時13分24秒 | クリヤーヨーガ・ジャーナル

KYJ2020 Fall

By M.G.Satchidananda


 過去10年間、ソーシャルメディアが広げている偽情報は勢いを増している。知ってか知らずか、既存の伝統的メディアもまたその程度はずっと少ないものの、偽情報を広めている。結果的に多くの者が伝統的なメディアの情報を信じないという罠にはまってしまった。ジャーナリズムの高度な基準に従ってニュースや情報を製作する伝統的なアプローチ(姿勢)は余りにもしばしば妥協を許している。我々の課題は、現在生じている事件・事象を識別した上で、我々の社会的責任を果たすことにある。

 この状況に対する最終的な責任は、ニュースの消費者(購読者・視聴者)にあるものの、何故かくも多数の者が、ファーストフードの消費者のように影響されてしまうのか、その理由を理解することは役に立つだろう。どちらのケースも見つけ易く、安価で、我々が好むという先入観を積み込み、嫌いなものは避け、その製作者は自身の利益の為に我々の無知を利用しようとしていて、しかもそれは癖になる。

 陰謀論の蔓延、社会的分断の増大、伝統的メディアの放棄、大衆政治と独裁主義の高まりがその最も顕著な結果だ。この記事は、2017年春のKYJ、「大衆政治とヨーガ修行者としての義務」が終了したところから始まるので、この記事を読み進める前に、まず以下の記事(ただし英文)を読んで頂きたい。https://www.babajiskriyayoga.net/english/flexpaper-ui/journal-spring-17-art.php それ以来状況はかなり悪化してしまったので、ヨーガの修行者がダルマ(徳性)を守るために従事すべき九つの義務の内の最初の三つは、ここに再掲するに値しよう。

「今日ヨーガの修行者の義務は、不傷害・正直・不貪というヨーガの禁戒(社会的制約)を日々の生活の中で、そして国家のメンバーとして遵守することだと確信している。更にそのうえで、修行者は調査的な報道を通して真実を伝えるという困難な仕事をしている者たちとその選ばれた代表者を直接・間接にサポートする義務がある。ヨーガの修行者はこの義務を多くの方法で果たすことができる。

1. ヨーガの修行者はメディア・リテラシー(基本能力)を高めるべきだ。それは、メディアにアクセスし、分析し、評価し、そして創造する能力だ。それは我々の批判的思考法の技術を高め、メディアの情報がいかに我々の文化と社会を形成し、我々自身の経験・能力・信念・価値に基づいてメディアを評価し、バイアス・情報操作・誤報・虚偽を認識することに役立つ。
2. ヨーガの修行者はジャーナリズムの高度に専門的な水準を保持しているメディアによって報道された重要な問題に関連する事実を求め、判断を下す前にヨーガの叡智に照らしてそれらについて熟考すべきだ。
3. ヨーガの修行者は高度に専門的な水準を保持しているニュースメディアを購読すべきだ。政治家の声明を検証する調査報道を行うため、マスコミ、特に伝統的な紙の新聞や雑誌が広告収入の減少の中で生き残ろうと躍起になっている今、それに協力してくれる市民の支援を必要としている。

陰謀論のパラドックス
 自身が陰謀論を信じているということを信じる者は誰もいないということは何というパラドックスだろう。しかしそうした者たちは存在し、我々全員にとって非常に破壊的な結果をもたらす。陰謀論は、通常の出来事に対する標準的な解釈を拒み、逆に隠れたグループや組織が秘密の計画を実施していると信じる理論だ。流言、そしてそれらの明白な亜流、陰謀論は以前の世界秩序が逆転し、従来の参照基準がその確実性と妥当性を失い、新たな集合的な解釈の引き金となった時に生じる。流言はリスクに晒された大衆の対応メカニズムとして現れ、それらは怒りの感情・恐れ・悲しみ・絶望・不安を助長する。感情的な反応と結果が大きければ大きいほど、逆の事実が報道されたときですら、人々はその問題が彼らの世界観に心地良く収まるように組み替えてしまう。

 陰謀論は一方で、市民と伝統的な権威との間の関係を悪化させるため、ニュース購読者の中に否定的な感情を醸成することを意図する。陰謀論は確立された権威と権力組織に対する不信を作り出そうとする。「既存の体制」に関連するすべての組織と人物が容疑者だ。それらは政治家、メディア、専門家、科学者、医療機関、薬品会社そして医者だ。そうした主張は、科学とジャーナリズムの高度な倫理基準を支援する機構そのものが腐敗していると同時に、いかに科学が事実に到達するか、ジャーナリズムの守るべき高度な倫理基準とは何かについての無知が蔓延していることを利用する。

 私は、ヨーガ教室の生徒ですら、新型コロナウィルスが悪意をもったエリートによって宣伝されたペテン或いはでっち上げなのだと主張しているのを聞いて失望した。陰謀論はウィルス自体と同様に通常は変容する。新型コロナウィルスに関連するものには、その発生源はビルゲーツだとか、中国の軍事研究所だとか、米国の軍事関係機関だとか、5Gネットワーク、或いはそれは実際には存在しないのだというものまである。他の陰謀論は、地球温暖化のデマ、闇の権力、9.11に関するもの、ケネディ暗殺、ケムトレイル、米国政府がUFOとETを隠していること、反ユダヤ主義、フリーメーソン、イルミナティ、アンチキリストなどが挙げられる。過激派のテロ集団は合理的な調査もしないで、「もし私が彼らを破壊しなければ、彼らが私を破壊する」という信念に基づいて、自身の行動を正当化する。ワクチン接種反対論者は、反証する科学的証拠もないまま、ワクチン接種は子供の自閉症を惹き起こすと信じている。彼らはまた、政府は人々に新型コロナウィルスのワクチン接種を強要するだろうと信じている。

 ピーター・クレコはその著書「マス・パラノイア」(偏執狂となった大衆)の中で、「経済的・政治的・社会的危機の時代においては、予期されない出来事に対する理由付けを行うために陰謀論に頼ろうとする誘惑が特に高くなる。その背景として三つの理由を挙げよう。それらは、社会が制御不能になっているという感覚、情報と知識の欠如、否定的な事件によって惹き起こされる不安感だ。自分たちの日々の生活に対する脅威を投げかける出来事に対して何もできないと人々が感じたとき、熱心過ぎるほどその説明を求めることで、それを制御する幻影を再構築しようとするかもしれない。途方もない出来事には伝統的かつ正規の説明を超えた途方もない解釈が必要だ。さらには、欲求不満と不確実性だらけの歴史的時代において、敵或いは犯人を特定しようとの必要性は驚くべきものになる。」と書いている。

大きな嘘
 偽情報のもう一つの出処は時々「大きな嘘」として言及されるが、それはその主唱者が、もしそれが事実として十分な時間繰り返されるのであれば、多くの人々がそれを信じるようになるだろうと信じ、偽の情報を繰り返し絶え間なくソーシャルメディアに溢れさせることだ。

 これに関連するのは「マジカル・シンキング」として言及されるものだ。トランプ大統領は新型コロナウィルスの感染拡大以来ずっと、「これはすぐに消えてなくなるだろう」との意見を表明する時はいつも、この主張に魔法のようにとか、自分はそう希望するといった言葉で和らげることすらしてこれを示してきた。一方で、それに対する政府の責任に対しては単に「わたしには責任がない」と表明していた。ポジティブ・シンキング、「新たな思考法」、「カオス・マジック」の力に対する彼の生涯にわたる信念は、よく書物に書かれている。トランプは、「どんなことでも警告なしに、変わり得る、そしてそれが、私が現在起こっているいかなることもあまり重大視し過ぎないようにする理由だ。」と言う。

 結果的に我々の個人的且つ人類のダルマ(徳性)を目覚めさせてくれるべき機構が、今日ポピュリストと独裁主義的な指導者によって皆深刻な脅威に晒されている。この脅威は識別の実践を、専門知識への不信と悲観主義に置き換えてしまった者たちによって増幅される。

 ダルマ(徳性)は、目的に沿った社会秩序と定義づけられ、古典ヨーガにおいてはヤマ(禁戒)即ち社会的制約として言及される。そしてその目的は、人間の可能性を実現することと、人間の性質から生じる苦悩を避けることにある。五つのヤマ(禁戒)は、

1. アヒムサ:不傷害、そしてその積極的な表れは親切
2. サティヤ:真理の表現と探求、嘘をつかないこと
3. アスティヤ:不盗 
4. ブラフマチャリア:貞節(梵行)
5. アプリグラハ:不貪

 より広義には、ダルマは永遠で内在する真の性質、正しい行為と社会的秩序の根底にある宇宙の法則と定義される。

 多くのヨーガの生徒、そして教師ですら、彼らは超健康で恐れがないので、ヨーガスタジオの中でソーシャルディスタンスや衛生面の注意を無視できると主張するとき、上記のヤマ(禁戒)を無視していることを知り、私がいかに驚愕したことか。彼らはコロナの無症状の患者として、いかに他者に感染させることがあるのかを無視している。彼らは思う通りに健康でない人たちの価値を完全にないがしろにしている。これは、おそらくは批判的な思考法、政治討論、ウィルス学に接していないことによるものだろう。これはおそらく、ある者(組織)が、自分たちの代替医薬品またはまさに従来の型にはまらない現実の好ましい形を宣伝する手段として、医療科学を軽視する必要性ともないまぜになっている。

識別の必要性

 識別即ちヴィヴェーカとは、それによってダルマ(徳性)を守ることのできる主要な手段だ。それには真理の探究が必要だ。それは無知そして学ぼうとしないことに対する反作用であり、それには努力を必要とする。科学と原則に基づくジャーナリズムと正統派のヨーガは真理の発見または実現という目的を共有する。科学はそれを事実として言及し、試行錯誤・観察・記録・比較を通じてそこに辿り着く。ジャーナリズムはある原則に従うことでそこに辿り着く。更に言えば、ジャーナリストは懐疑主義的であるよう訓練される。ヨーガはそれを叡智即ちジニャーナとして言及し、自身の経験を至高の権威とし、伝統的な文献は比較のための第二義的な拠り所とする。これがヨーガを、ある特定の聖典が権威と真理の最高のものだと主張する宗教と区別する。古典ヨーガは、「熱烈で継続的な修練と、真我探求と、エゴの視点を明け渡すことから成るクリヤーヨーガによってのみ(サマーディとして知られる)真我実現に到達できる」と断言する。

 ヨーガは我々一人ひとりがスヴァダルマ、すなわち個人的な「自身」の目的を充足すべく努力することを求める。それには、我々の魂の義務である真我実現と共に、家族のメンバーとして、市民として、指導者として、専門家として我々の置かれた状況・環境・人生での地位に応じた責任が含まれる。市民として我々はそれぞれ、社会のすべてのメンバーの必要性と可能性を守り、充足させることをその本来の目的として持つ社会秩序を守る市民の義務を持つ。こうした必要性には、健康・安全・教育・正義の追求、そして人間としての権利の向上が含まれる。この義務は市民が、社会の進化する必要性を促進するため政治的諸問題を研究し、明示し、討議する代表者を選出できるよう十分な情報を得ることを確実にすることを求める。この市民の責任を遂行するため、市民は信頼に足るニュースと情報を提供するメディアを購読しなければならない。それが市民をして、選出された代議士の説明責任を把握するのに役立てることを可能にする。信頼に足るニュースと情報の出処には、伝統的なメディアの内部・外部双方で、ジャーナリズムの高度な倫理基準が必要とされる。

ジャーナリズムとは何か
 「ジャーナリズムとは、人は認知するが、個人の経験の範囲外即ちあなたが何か他の事をしているとき、あなたが居ないところで生じている、コミュニティの中で起こっていることに関する報告である。・・・ジャーナリズムは民主主義にとって必須のものだ、なぜならそれは、都市・州・国家の境界を超える共有された現実感を造り出すからだ。この共有された現実無しでは、哲学者ユルゲン・ハベルマスが世論の形成される場所を記述する為に用いた言葉『公共領域』は存在できない。この前提は、共通の理解の公共領域即ち議論すべき対象を造り出そうとする意図が、自然災害・選挙速報・国家元首の死、或いは他の大惨事といった大事件が報道範囲に入っていなければもはや遂行できないということだ。」

 メディアに通じた者はジャーナリズムのそうした高度の基準を満たした情報源とそうでない情報源を識別する。ジャーナリズムの高度な基準の一つは中立性であり、それは「現在起きている状況に対して価値を与えたりそれ以上のことを述べたりしない」ことだ。そしてこのことは、「言葉とその調子において抑制を利かすことであり・・・客観性の証明書」となる。これは読者の歓心を買ったり、視聴者や読者の意見を変えようと意図したりする批評家・論説委員・中小のメディアとは対照的だ。悲しいことには、今日のすべての主要なメディアは、その対象とする領域に明示的或いは内在的なバイアス(偏向性)を抱えている。それゆえ、メディアを一つだけに限定するのではなく、すべてのメディアを国内外問わず、ニュースを識別しようとの意図をもって俯瞰的に見ることが重要だ。

 もう一つのジャーナリズムの高度な基準は、報道予定の事実を少なくも信頼できる二つの情報源で確認することだ。論説委員は裏付けの取れない主張を誠実に識別するための判断を下す。彼らはまた、報道に誤りがあった時にそれを取り消す報道をする責任を持つ。伝統的なメディアがそうした基準を適用しようと努力する時、価値あるものとなる。

フェイスブック(以後FB)・グーグル・ビング・アップルを含むソーシャルメディアのニュース情報源は、ジャーナリズムの基準によって規制されていない。
彼らの目的は、株主の為に株価の価値を最大化することだ。通常彼らは伝統的メディアの報告済みのニュースを借りているが、特にFBは、明らかな独裁主義者たちの政治的圧力の為に、その報道において中立性から外れてしまった。「12人以上のFB元従業員と現在の従業員、そしてワシントンポスト紙(以後WP)が入手したが以前報告されなかった文書によれば、FBは誤ったミスリーディングな報道に対する自制の努力を抑え込んでしまい、明らかに政治家の嘘を許容する方針を採用し、保守的な報道機関に対して偏向しているという意見を中立化するためのニュース選択アルゴリズムを変えることまで行った。・・・現従業員及び元従業員によれば、トランプの権力が強大になるにつれ、彼の怒りに対する恐れは、人々がウェブ上で見るニュースのバランスを傾け、増加している右派よりの人々に対してより控えめな行動をとるようFBを突き動かした。」(2020,6/28WP)

あなたは引き続き、受け取るニュースを何にするか決めますか?そしてそれにお金を支払おうとしますか?
 更に言えば、その後FBやグーグルといったソーシャルメディアの巨人は、あなたの偏向性や好みに関するより多くのデータを取得し、こうした偏向や好みに関連して誰にどんなニュースを提供すべきかを決定するアルゴリズムを開発した。2018年夏季号のクリヤーヨーガ・ジャーナルに掲載した三部作の内の二作目、「人間至上主義後の世界における完全なる自由」で論じた通り、人類は、ビッグデータとコンピュータのアルゴリズムを使って、自分たちが知っていると思う以上に自分たちのことを知っている企業に対して、意思決定の自由を譲り渡しつつある。

 伝統的なメディアではなく、そのようなソーシャルメディアの巨人からのニュースを読むことで、何のニュースを読むべきかについてあなたは自身が操作されることを受け容れている。結果的に自分たちの目的のために社会秩序・ダルマ(正義)・国民全員のより大きな善良さを蝕もうとしている独裁主義者やその手先からそれらを守るというあなたの責任を蔑ろにしていることが立証される。

 一方で伝統的なメディアを購読することで、彼らがニュースと調査特集を報じることにおける主たる責任を果たし、ソーシャルメディアの巨人との競争において収益の上がる企業として生き残ることを助けることになる。あなたはまた、報道の中立性に影響しかねない政治的・経済的な圧力に彼らが抵抗する助けとなる。

嘘つきの独裁主義者からの攻撃に耐えながらいかに報道の中立性を維持するか
国民の知る権利と、選出された政治家に説明責任を求めることができるその当然の結果は、論理的で理知的な証拠だけが求められ、経験的に実証可能な事実だけを報告するというジャーナリズムの基準によって厳しく制限されてきた。

ジャーナリストが中立性を保とうと努力することは政治的な声明であり、報告の対象が虚偽の証拠を含むときには見直されなければならないということを認識すべきだ。虚偽の証拠とは、だまそうとの意図をもって嘘をつくことと定義される。一方で政治家はしばしば半分の真実を語るが、もし彼らが嘘を繰り返し続けるなら、ジャーナリストはそこにだまそうとの意図があるということを推定でき、そして推定する義務があり、それゆえ嘘として報告できる。さもなければ、ジャーナリストは政治家がだまそうと努力していることの共犯者だ。それによって彼らは国民の知る権利を無力化し、政治家に説明責任を課する。

ジャーナリズムは次のことを自認しなければならないだろう。それは、メディアは内在的な政治関係者であり、その言葉の選択は政治的決定であり、そうした決定を下すためには民主主義社会の中に市民が持つべき政治に関する議論を形成し、それを手助けする責任を引き受けるということだ。

政治家の演説 なぜ社会道徳が脅かされるのか、それを守る我々の義務をいかに果たすか
 政治家の演説は、異なるものの中に共通の立場を見出し、社会の中で共に生活するルールを話し合う目的で現実に焦点を当て、想像力をかきたてる。2017年のクリヤーヨーガ・ジャーナル春期号で、私が書いた記事を再掲する価値があると思う。

「ダルマ、意味のある社会秩序は、これらの加速する変化の力、問題解決には格子にはめ込まれたような政治システムの無能・怒り・憎しみ・陰謀論・外国人嫌い・偏狭性・民族主義・女性蔑視によって単に政治体制に攻撃の火をつけるにすぎない大衆政治運動のリスク、そして宗教の宗派主義に対する抗議によって脅かされている。市民の権利、自由で独立したマスコミ、代表制民主主義を保障する機構を改革し、守る為に市民のできることは何だろうか? 大衆政治が、選ばれた公務員による権力の乱用に向かうことを防ぐために一人の人間ができることは何だろうか?」

 この記事の続きを下記のリンクから、ヨーガの修行者がその義務を行使できる八通りの方法について読みなさい。独裁主義的な権力は善悪の判断する権利を主張することによってではなく、そのような道徳の原理を無効にすることで、道徳の力を弱めることを必要としている。それは悲観主義、そして理想・ヴィジョン・道徳性の追求を表現しようと求める者を嘲笑することによってなされる。道徳の相対主義のこの時代、手段が目的によって正当化され、道徳という言葉に対する尊敬すら失われ、世界中の独裁主義者たちは人類の発展に大いに貢献する貴重な仕組みを壊しつつある。それは報道の自由・民主主義・人権・法の支配・裁判制度の公平性だ。

 道徳性の追求がこうした仕組みの基盤を形成する。その表現はこの時代に浸透しつつある悲観主義を克服するため、作り直さる必要がある。道徳性の追求に対する説得力のある議論を提唱できる新たなリーダーたちが必要だろう。彼らが実例として、そして人間的性格の制限を克服することにおいて見せる叡智と経験によって道徳的な指導者は前面に出、権力ではなく威厳、富ではなく平等、競争ではなく結束に焦点を当て、何が可能なのかのヴィジョンを言葉で語ることができ、またそのように語らなければならない。

以上







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