アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第6章 世界劇場 ②汎神論と色即是空

2009-12-11 21:59:01 | 第6章 世界劇場
② 汎神論と色即是空
清水書院の「人と思想」シリーズの『スピノザ』、工藤喜作著(著作O)には、次のように説明されている。「スピノザの思想は、‘神即自然’という言葉によって示されているように、一般に汎神論といわれている。この汎神論は、西洋の宗教にとって伝統的な、超越的人格神を認めないため、伝統を守る人たちから無神論と見なされている。」この無神論と見なされたり、汎神論が従来のキリスト教徒などから否定される理由を、ウィキペディアでは次のように説明する。「その理由としては、森羅万象を神と定義づけてしまうと人間の中にも神が宿っていることとなり、それはすなわち人間が犯す罪は神が犯した罪ということになるからであるとされる。」
この、キリスト教徒が汎神論を否定する理由は尤もらしく聞こえるが、筆者は全くの間違いだと思っている。その理由は、後ほど説明する③世界劇場、の中で明らかになると思うので、ここでは詳述を避けるとして、取敢えず工藤喜作氏が、著作Oの中でキリスト教の神の矛盾に就いて、次のように反撃しているので先ずそれを紹介する。
「しかしキリスト教の神の場合、造物主としての神は被造物としての世界を超越した存在とみなされている。ここでは神は世界を超越することによって、世界と対立しているのである。つまり、神と世界とは彼岸と此岸のように対立しあっている。そのかぎり、神は世界に対立したという意味で一種の相対的なものとなり、絶対的なものとはならないであろう。ところがスピノザは、‘神はあらゆるものの内在的原因であって、超越的原因ではない’(定理18)という。神はキリスト教の神のように、世界に超越し、対立する超越神でなく、内在神となるのである。」

ということで、汎神論といえば17世紀にスピノザが初めて提唱したように世界史の教科書では教えられた記憶が筆者にはあるのだが、果たしてそうであろうか?筆者は正法眼蔵を原典で読むほど古文に強くなかったが、谷口清超氏の『正法眼蔵を読む』の上巻に、「仏性の巻」の解説があるので、そこに記載された大意を説明する。因みに「一切衆生悉有仏性」これは夏目漱石の小説の中でも、禅の公案として出てくる有名な言葉で、普通は一切の衆生(即ち一般の人々)にはことごとく仏性が備わっていると読まれ、或いは解釈されている。或る意味でスピノザの云う‘内在神’が全ての人の魂の中に元々存在していると解釈されよう。然し、道元禅師(正法眼蔵の著者)の説明は全く異なる。以下に、谷口清超氏の説明をそのまま引用する。
「実相に於ては、衆生の内も外も一切は仏性そのものである。まさに、仏性が悉有となって現れている。これが‘悉有仏性’だ。もうこのままですでに仏性そのものである。」
「衆生は・・・本来仏性であるから実在者だ。単に主観的な存在であったり、現象的存在で根なし草のようなものではない。実態は仏であり乍ら、その姿は衆生なのである。仮にそう現れているのだ。そして、その心でもってみるから、一切の有、悉有がそこに悉有として現れるのである。即ち悉有(現象)の言は、悉有の心でもあり、悉有の主人公である。即ち衆生は悉有である。」
少し判り難いかも知れないが、衆生を人間に、悉有を自然(或いは宇宙)に、仏性を神に置き換えて読んでみて頂きたい。すると、自然とは神の現れであり、人間も神であり、自然(現象)とは人間が神の心で見ているものであるからそれも神であると言った趣旨になると思う。まさにスピノザの汎神論の要諦を数百年も前に道元禅師が書物に著していたのである。因みに、般若心経に出てくる有名な「色即是空」という言葉も、色(現象或いは宇宙)は空(神)である、との謂いであり、これも同じことを、言葉を換えて言っているものだと筆者は理解している。

このように考えて行くと、人間は神であると言っているのと同じことであり、イエスの生きた時代にこのようなことを言ったら、神を冒瀆する者として死刑にされてしまったに違いないと思うのであるが、驚くなかれ、実はイエスも聖書の中で同じようなことを言っているのである。新約聖書をお持ちの方は、ヨハネの第10章、34節のキリストの言葉を確認して頂きたい。聖書によって多少訳し方に違いはあると思うが、40年程以前に国際ギデオン教会から贈呈された筆者の聖書には次のように書かれている。
「私(神)は言う。あなたがたはみな神々である、とあなた方(ユダヤ人)の律法に書いてあるではないか」そして35節36節で次のように続く。「(あなた方と)神の言葉を託された人々が、神々といわれておるとすれば、父(神)が聖別して、世に使わされた者が、‘わたしは神の子である’と言ったからとて、どうして‘あなたは神を汚す者だ’と言うのか。」( )内は筆者の註解。

スピノザは‘神即自然’と唱えたのであるが、筆者はもう少し精確に言うと、‘宇宙即神’であると思っている。宇宙とは存在する全てであり、その存在する全てがとりも直さず神である。そして人間は宇宙の一部として、即ち神の一部としてこの現象界を現わし、創造活動に参加している。読者の皆さまから、「人間が神だなどと、とんでもない!」といったお叱りを受けそうだが、実はシャーリー・マクレーンも勇気を奮って筆者と同じ趣旨のことを書いているので、この節の最後に、彼女の著書『アウト・オン・ア・リム(Out on a Limb)』の書き出し部分「日本の読者の皆様へ」を以下に引用する(そう云う意味でも、絶妙のタイミングで本書を紹介して下さった筆者の友人、K子さんにこの場を借りて感謝します。これこそバシャールの言う“Spontaneity”或いは“Synchronicity”即ち完璧なタイミングで必要な全てのものが与えられる、ということでは無いかと感じました)。

「私たちの生きているこの世界はとても面白い時代にさしかかっています。特に天なる神と内なる神の光と愛に共鳴できる状態にいればなおのことです。私たちの人生に起きてくる悲劇的な事件でさえ、確かな理由があって起こっています。その確かな理由というのは、私たち一人ひとりの成長のために必要だからこそ起こっているということなのです。もし自分の人生は自分の内なる神を経験するためのものだと常に忘れないでいるならば、私たちの人生は輝きに満ち、一見悲劇に思えることも、実は悲劇ではないのだとわかるでしょう。今までに私が学んだ最も重要なことは、この世に現実などほんとうは存在しないということでした。私たちが現実として見ているものはすべて、私たちがそれをどうとるかという認識の問題だとわかったのです。人生をどのように認識しているか、その認識のしかたこそがすべてなのです。いいかえれば、私たちの人生は、私たちの見ている世界そのものによって決まるのではなく、自分がどのように世界をみているかによって決まるのです。だからこそ、前向きで実り多き人生は、私たち個人一人ひとりの生き方にかかっているのです。自分こそが自分の人生の実現者なのです。また自分こそが自分の先生なのです。あなた自身が神であることに気づいてください。あなた自身が愛です。あなた自身が光なのです。そして私たちの自由意思こそが、自分の内なる神のすべてを発見していく“学びの道”なのです。私たちは、内なる神の存在を生まれながらに知っています。その知識をどうぞくもらせないでください。自分を信じ、生まれながらに内に宿る愛と光を信じてください。そうすれば、あなたの人生そのものが愛と光になるでしょう。神の国はあなた自身の内にあります。先生は他の誰でもない、あなた自身なのです。他人を先生と仰ぐのはやめましょう。他の人を崇拝する必要もありません。すべてはあなた自身です。あなたは今のままで完璧です。あなたと神はひとつなのです。私から皆さんに愛と光を送ります。1986年4月14日、 シャーリー・マクレーン」


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