この五月連休の備忘録。最終回です。
五月連休も後半。どうもここしばらく気分が落ち気味なので、これはいかん、外に出なければ、ということで前から行ってみたかった旧中山道の碓氷峠を歩くことにしました。以前に中山道を辿ってみよう!とオートバイで京都の草津宿から中山道を通って東京の板橋宿まで走ったことがあり、その時は碓氷峠は国道を走っています。今回の目標は、長野県側碓氷峠から旧中山道を歩いて群馬県安中市の横川駅まで行き、おぎの屋で峠のかま飯を食べることです。
当日、多少雲があるものの天候は晴れ。新幹線でビューンと軽井沢まで行き、まずは軽井沢駅の観光案内所で碓氷峠旧中山道ハイキングの資料を入手。安中市発行の旧道日和は是非入手することをお勧め。とても役に立ちます。そしてその時言われたのが、熊よけの鈴を持って行ってくださいとのこと。ん?持ってないぞ?
北陸新幹線軽井沢駅から碓氷峠へは、路線バスで旧軽井沢に行き、そこからちょっと歩いて旧軽井沢銀座の軽井沢観光会館前と見晴台間を運行している軽井沢交通バスを使えば、碓氷峠の見晴台まで公共交通機関を使って行くことができます。
旧軽井沢銀座。

とても観光地です。見晴台へのバスに乗るため軽井沢観光会館前にてしばらくバス待ち。このバス、意外に本数が少ないことと、途中からの乗車になるため乗客がすでに乗っていること、そして座席数も少ないので要注意。私は立席で乗車しました。やがてバスは見晴台に到着。

見晴台からの風景(①)。

ひゃっほう!毎度のパノラマ写真。

ベンチに座り、景色を眺めつつ持ってきた赤福を食べて体にエンジンをかけ、さらに峠にある熊野神社にて道中の無事を願い参拝。

この熊野神社、境内の中央が長野県と群馬県の県境になっており、県境を跨いで神社の名前も違えば御賽銭箱も長野県側と群馬県側で別々になっているという変わった神社です。
峠のかま飯目指していざ出発!(②10:40)

写真は舗装路ですがすぐに未舗装の山道になります。
雲霧温泉への分岐(③10:43)。

左側に坂本宿とも書いてありますが、こちらのルートは御巡幸道で比較的新しく、昔からの中山道は右側になります。雲霧温泉に行かない限りは、旧中山道を歩いた方がよいようです。私も旧中山道と記された右側を歩きました。
歩くのはこんな山道。

現在の旧18号国道のルートが開通したのが1884年(明治17年)で、それ以来この旧中山道の人の往来は急速に途絶えてしまったとのことで、それから既に133年経っています。といっても新緑のシーズンで連休だし有名な古道だしハイキングしている人は結構いるのでは?と思っていたのですが、まるで誰にも出会いません。熊除けの鈴の件もあって、ここで熊に出会ったらどうするかな、なんて考えつつ口笛吹き吹き歩きました。
人馬施行所跡。(④10:54)

峠道の中で最も水量の多いとの休憩所跡です。ここまででそこそこ歩いた気がしたのですが、まだまだほんの序の口。というか、こんなところを馬も歩いていたというのは正直信じがたいのですが、信州から上州に抜けるにはこのルートしかなかったわけですから、実際歩いていたのでしょう。馬にとってもきつい道中です。
歩く歩くよ中山道。

二枚目は陣場ヶ原分岐(⑤)。御巡幸道への分岐点です。雲霧温泉へのルートで坂本宿を目指した場合、ここに出てくるはず。(11:03)
一つ家跡。(11:07)

説明が怖いよ…。
しばらく歩くとこんな山中に廃屋と廃バス。(⑥11:10)

廃屋はともかくバスは一体どうやってここまで来たんだろう。看板には三陸開発株式会社という文字が読み取れましたが謎は深まります。
山中坂。めし喰い坂とも。(11:13)

この山中坂、切り通しの法面にブロックが積んであって自動車が往来できる道幅があります。しかし、この状態が峠道の最後まで続いているわけではなく一部のみ。なぜ整備したんだろ。
坂からすぐの所に山中小学校跡と山中茶屋跡。(⑦11:17)

この峠道の中心的な場所で、明治の初めまではここに13軒の茶屋があって、明治11年には山中小学校に25人の生徒がいたらしい。このシーズンだからこそうららかな陽気だけど、軽井沢の冬季は気温-10℃以下の日なんて当たり前のように続き、当然雪も降る地で、ここもまだ標高1000m以上あります。そんなところに13軒も茶屋があって、その上小学校まで? 当時の生活がどんなものだったのか全く想像がつきませんが、人の逞しさはすごいものだな、と思うばかりです。
どんどん歩きます。

ポツポツ峠道を上る人に出会うようになりました。
新緑。(11:35)

二枚目は栗が原(⑧)。熊野神社を出発して一時間近く経っています。ルート的には栗が原がほぼ中間点で、ここには見回り方屯所、群馬県初の交番があったらしい。こんな山道ですが、交通の要所であったことは間違い無いようです。
座頭ころがしの急坂に、斜面を通る山道。(11:42)

北向馬頭観世音(1818年, 文化15年⑨)と南向馬頭観世音(1791年, 寛政3年⑩)。(11:51)

ちょっとわかりにくいですが、南向馬頭観世音は手前の木の根元にあります。馬頭観世音のある場所は危険な場所を示しているとのことで、私は気づきませんでしたがこの北・南の観世音に挟まれた区間の南側は絶壁で危ないらしい。さらに昔この付近は山賊も出たところとのことで、ここはこの峠道の中でもヤバさ満点スポットでしょう。カツアゲ狙いの不良がたむろするのは狭い路地というのは定番ですから、こういうのは古今東西変わらないのだなあ。
新緑!堀切(⑪)!新緑!(11:55)

これは針葉樹林。

刎石茶屋(四軒茶屋)跡。(⑫12:08)

奥に石垣が見えます。この先にある覗から峠道入り口まで一気に200mの高度差を稼ぐので、その急坂を登り終えた人々がここで一息いれたのだろうな。峠道も終盤です。
覗。(⑬12:13)

坂本宿が一望できる場所で、小林一茶もここで一句詠んだとか。ここから先は刎石坂の急坂です。刎石坂にある石仏(⑭)に刎石溶岩の柱状節理(⑮)。

石仏は南無阿弥陀仏の碑、大日尊、馬頭観世音とのこと。馬頭観世音があるってことはここも危ないということですね。南無阿弥陀仏の碑の側面には文政三庚辰の文字が見えました(1820年)。柱状節理はマグマが冷えて熱収縮するとできるんだそうです。
どんどん急坂を下り…。

旧中山道峠道の出口(⑯)。向こうに現代が見える!

歩いて来た古道を振り返り。(12:37)

ここから先は旧国道18号を歩いたり、アプト式鉄道跡の遊歩道を歩いたり。

天然温泉 峠の湯にて一風呂頂きました。

湯船で足を伸ばし、場内の休憩所でしばし休憩。峠の湯、お湯は普通でしたが泉質はナトリウム炭酸水素塩・塩化物温泉とのこと。2枚目はこの施設の駐車場から見た山々で、より高い位置にある露天風呂で湯船に浸かりながらこの風景を眺めることができます。
ここにはレストランもあって峠の釜飯を食べることもできます。が、私は横川駅で峠の釜飯を食べなければならない、というわけで、お腹を空かせたまま峠の湯を出発し坂本宿を通過。

歩道や沿道の家々には花が咲いていて、歩く私の目を楽しませてくれます。それにしても峠道が終わったことでハイキングも終わった気分になっていましたが、横川駅まで意外に距離が。
碓氷関所跡。

ここには説明員の方がいらっしゃいました。明治に入って全国の関所は廃止され取り壊されて焼却処分されたそうで、この碓氷関所もそうなりかけた所を当時の方の機転で解体されはしたものの構造物は保管され、国内で唯一、当時の木材そのままで復元されている関所とのことでした。東海道に対する中山道の位置付けについて質問したところ、東海道は大きな河川の渡しがあり、河川が増水すると足止めになるために所要日数に不確実な部分がある一方、中山道にはそれがないことが利点だったとのこと。なるほど納得です。
それから横川の旧街道筋へ。あの看板は!

あああーー!! いただきます。

この横川駅おぎの屋のかま飯、すでに何度も食べたことがありますが今回は格別の味でした。
JR横川駅に横川・軽沢間のJRバス。

昔は横川・軽井沢を信越線が接続していましたが、北陸新幹線が開通して碓氷峠を越える区間は廃止。今はこのJRバスが代行しています。
バスの車窓から碓氷湖。

軽井沢駅にて。

?!
気分転換に出かけた旧中山道碓氷峠ハイキング、碓氷峠を徒歩や馬で行き交うしかなかった時代を追体験でき、しばし古の時代へのタイムトリップ気分を味わえました。そして新緑の中を歩き、もやもやしていた気分もスッキリした気がします。熊野神社のご加護か、無事に峠道を下ることもできて、思い切って来てみてよかったです。
これで五月の連休も終わり。まとまった休みは盆休みまでなし。日々生活していれば色々ありますが、何事も一つ一つ積み上げていきたいと思います。
今回歩いた旧中山道のルートマップを国土地理院地図を使って作ってみました(6/24追記)。
航空写真と比較しながらルートを確認していて、地図上の北向馬頭観世音(⑨)より上のルートは、昔の東山道ルートのような気がしました。旧中山道のルートは尾根の北側、崖より離れたところのようです。山賊が出たというこの辺りですが、地形図眺めていて思ったのが右上にある平らな地形。ひょっとすると山賊のアジトはここにあったのではなかろうか。想像は膨らみます。