ヲノサトル責任編集・渋東ジャーナル 改

音楽家 ヲノサトル のブログ

ラ・ジュテ

2011年04月28日 | 映画/映像
『ラ・ジュテ』
(1962 クリス・マルケル監督)




観た映画について、ここのところツイッターでつぶやいてばかりでブログに掲載するのをサボッてたので、とりあえず大学の講義『映像論B』で扱っているものだけでも記録しておこうと思います。

今年の講義テーマは「映画の中の写真」。第1回には、さっそく変化球というか、映画の中の写真ではなく「写真で作られた映画」として有名な本作を選んでみた。


【物語】
放射能に汚染されたパリの地下で、戦争を生きのびた勝者側の科学者たちは、過去と未来に人類の救済を求めるために、捕虜を使って時間旅行を試みる。彼らはそこで、ある記憶に取りつかれた男を選び出す。彼は少年時代、オルリー空港の送迎台で見た断片的なイメージ ー凍った太陽と叫ぶ女ー が心に焼き付いている。実験台での注射により過去に送り込まれた男は、送迎台で見た女と再会し夢見心地の時間を過ごす。続いて、未来へと送り込まれた男は、世界を救うためのエネルギーを持ち帰る。そして、彼は自分の記憶の驚くべき真実を知ることになる……。

(DVD "ラ・ジュテ" コロムビアミュージックエンタテインメント, カバーより)



時間と記憶についての映画。

静止した写真を紙芝居のように使って進行していく映画なのだが、しばらく観ていると静止したコマとコマの間が心の中で補完され、いつしか連続した濃密な時間のように感じられてくるのが面白い。

そもそも我々の「記憶」の形式自体が、動画よりも静止画というか、あえて言えば「写真」のようなものなのではないだろうか。

たとえばあなたが海辺で過ごした行楽の一日をパッと思い出す時、必ずしも一日の全てを時間軸に沿って脳内で再生するわけではないだろう。「水しぶき」「明るい日差し」「笑っている家族の顔」「潮騒の音」「磯の匂い」「海水に浸かった脚の肌触り」…といった無数の断片的なイメージを、ぐしゃっとした塊のようなものとして瞬間的に、脳内にフラッシュバックさせるのではないだろうか。

そういったイメージの奔流の豊かさに比べると、「えーと、車で海岸に着いて、まず泳いで、その後ごはん食べに行って…」と語られる連続的なストーリーというものは、断片化されたイメージを後から理屈でつなぎ合わせただけの、形式的な「あらすじ」にすぎないのではないか。

この映画全体に漂うどうにも感傷的な空気は、ストーリーの悲劇性だけでなく、決して取り返す事のできない「過去」という時間、我々の中で断片化し劣化していくほかない「記憶」そのものの哀しさに由来すると思われて仕方ないのだ。



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